豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

下田の城(深根城と下田城)

2020-07-24 14:39:31 | 伊豆だより<里山を歩く>

下田には歴史上注目される二つの城(深根城と下田城)がある。両城とも壮絶な攻防戦の後落城するが、この落城は日本の歴史の上で大きな役割を果たしたと言われている。即ち、深根城の戦いは武将伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞、後の北条早雲)が伊豆討ち入りを果たし、伊豆、相模地方に勢力を広げる端緒となった戦で、戦国時代の幕開けとされる。また、下田城の戦いは天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原攻めに対抗した戦で、この後北条氏は滅び秀吉の天下となり戦国時代の終焉を迎えることになった。

二つの城について紹介しよう。

深根城祉(下田市堀之内)は、下田市街から国道414号を北に5kmほど行った箕作の交差点(天城越えに通じる道と松崎方面に向かう道に分かれる)の左側方向、小高い丘陵先端部(標高76m)にある。この交差点から松崎方向へ250mほど進み稲生沢川を渡った道路脇には「深根城址」の小さな石碑がある。県道を離れ川に沿った道を東に400m程進み、更に細い坂道を上ると城跡に着く。今は民家の敷地であるが、丸石を積んだ石垣や土塁が当時の面影を残している。また、近くの県道脇にある民家の裏手から槇ケ窪(城跡の西方)に入ると、足利茶々丸夫妻の墓と伝わる宝篋印塔と五輪塔がある。

下田城祉は現在下田公園(城山公園と呼んでいた)になっている。もともと下田城は鵜島と言う地名から鵜島城と呼ばれていた。現在公園内には、天主台跡や曲輪(くるわ)、空堀(北条氏の城でよく見る障子堀)跡などが残っている。この公園からは変化に富んだ入り江や港が眺められ、山城ではあるが海の備えとして置かれた城であることが理解できる。静寂に包まれた散策コースになっていて、市民や観光客が多く訪れる。15万株300万輪、100種類以上のアジサイが広大な敷地内を埋め尽くし、訪れる人々を圧倒する(6月にアジサイ祭りが開催される)。公園内には、開国広場、開国記念碑、下岡蓮杖翁の碑など歴史的モニュメントがあり、周遊道路を巡ればペリー艦隊来航記念碑、フェリー乗り場、海中水族館がある。公園へはペリーロードから旧澤村邸脇の急な階段を上るもよし、ペリー来航記念碑近くの入口から入ることが出来る。

◇ 深根城の壮絶な戦い、千余の首を晒す

深根城の歴史事象を整理しておこう。

・正平4年(1349)、室町幕府は関東を治めるために鎌倉公方を置き、その下に関東管領を置いた。

・応永26年(1419)、山内上杉憲実が関東管領職に就くと、奥伊豆を鎮護するため家臣の関戸播磨守宗尚に命じ、天城街道と松崎街道の合流する地に城を築いて住まわせた。

・永享7年(1435)、宗尚が没し嫡子吉信が二代目深根城主となる。

・永享10年(1438)永享の乱後、鎌倉公方は分裂し古河公方(下総)と堀越公方(韮山)が対立、また管領の上杉氏も山内上杉家と扇谷上杉家が対立していた。

・延徳3年(1491)4月、当時の堀越公方足利政知(将軍義政の弟)病死。後妻円満院は実子潤童子を溺愛し先妻の子「茶々丸」を幽閉していたが、茶々丸は父の死の混乱に乗じ土牢を抜け出し義母の円満院と潤童子を殺害。自ら堀越公方二代の座に就くが、家中の信頼を得られず混乱。

・延徳3年(1491)10月、興国寺城で堀越公方の混乱を見ていた武将伊勢宗瑞(後の北条早雲)は駿河の今川氏親から兵を借り、堀越御所(韮山)を急襲する。御所を追われた足利茶々丸は関戸播磨守吉信を頼って深根城に逃げ込む。

・明応2年(1493)、早雲が伊豆侵攻を開始。奥伊豆は山々に分断される狭小な土地柄であるため有力武士が存在しなかったこともあるが、多くが早雲の勢いに圧倒され降伏してしまう。そのような中、早雲に真正面から抵抗し戦ったのが深根城に寄った勢力だった。

・明応7年(1498)8月、西海岸に上陸した早雲の軍勢は山を越え深根城に迫る。途中付近の侍たちも駆けつけ総勢2,000人の軍勢となっていた。早雲は周辺の民家を壊し、堀を埋め立て攻め入る。関戸播磨守吉信は配下の者と必死に戦うが抗しきれず討死。早雲は城に籠った女子供まで一人残らず首を切って、城の周りに晒したと伝えられている。その壮絶さが偲ばれる。茶々丸の首塚(御所の墓)と呼ばれる宝篋印塔と五輪塔が槇ケ窪の大木の下にある。他方、茶々丸は追放された後伊豆奪回を願って山内上杉氏や武田氏を頼ったが甲斐国で捕捉され自害した、との説が有力視されている。

・肥田実著「幕末開港の港下田」には「・・・吉信は長男とともに坂戸三玄寺前の虚空蔵堂まで逃れ長男は自刃、吉信は梨本下條まで逃れ落命したといわれ、里人が建てた供養塔が今も残っている・・・」の記述があるが、虚空蔵堂の存在は現在不明(三玄寺の開創は慶長元年1596年に河津栖足寺竜王和尚が「林陰庵」を置いたことに始まるとされるが、もっと早かったのか? なお、栖足寺開山は鎌倉時代の1319年)。関戸吉信供養塔は河津町梨本にあり、関戸吉信の墓として平成元年河津町文化財に指定された。

・北条早雲は約30日で伊豆を平定。深根城の戦いで見られるように「マムシの道三、イタチの早雲」と評される面を見せるが、一方年貢の軽減、風土病の根絶に力を入れるなど人心を捉える術も持っていたと言われる。小田原城が五代にわたり後北条氏の本城となるが、早雲は韮山城を居城として終生韮山で過ごした。永正16年(1519)早雲逝去。箱根湯本早雲寺に眠る。

◇ 下田公園と鵜島城祉

大正3年発刊「下田の栞」から、下田公園と鵜島城址に関する一部を引用する(仮名遣い変更)。

「・・・下田公園 城山にあり、もとの鵜島城址なり、明治三十四年開きて公園とする。天正十八年鵜島落城後、一時下田郷林となっていたが奉行今村伝四郎納めて松苗を植え、寛文八年石野八米兵衛これを公儀に上り、爾来公林となり、明治維新御料林となりしを、借地して公園となし、大正元年さらに払い下げを請うて町有とした(鵜島、赤根島、剣ヶ峰、狼煙岬、犬走島、睢鳩島、松ヶ峰、七間町に渉り、五十八町四反一畝歩)。近傍に、白雉穴、兒ヶ淵、和歌浦、御茶屋が﨑など景勝あり。御茶屋が﨑は幕末異国船見張所を置いたところで眺望よし。和歌の浦はその直下にあり、小湾なれど砂白松青風光画のごとし、前面には赤根島が横たわり退潮時には歩いて渡れる。養魚場が此処にあった。鵜島山の東麓を弁天通りと呼び、弁天の古堂があった。昔からここに波止場があって白河楽翁公当地検分の時も、この堂にて服を替え船に乗り港内を巡視した。安政元年米国使節ペリーの上陸したのもこの地なり。ただし、慶長年間に埋め立て工事を行い地形はやや異なっている・・・」

「・・・鵜島城址 港の西岸、市街の南方東に延びた丘陵を鵜島または城山と言う。小田原北條氏の家臣清水氏の城があったところ。土肥村土肥神社所蔵基氏傳帳に本郷氏島城主志水長門守とあるのを見れば、この城創築の古きを知ることが出来る。北條早雲のとき、本郷の人朝比奈知明、八丈島発見の功を以て下田を知行し、子孫世襲す。またここに居る、朝比奈氏城砦を増築する。今郡下に多数(十四ヶ寺)の末寺有する相州大住郡田原村香雲寺はもと此処(弁天町製氷会社の所に井戸が一つ残っている)にあったのを、城砦増築の為、現地に移されたものだと言う。後、氏康の時、乳母子清水小太郎をこの地に封ず(髙八百二十九貫七百匁)。天正十六年、其孫正令(又康英)氏直の命により、更にこの城を増修し、沿海を警備し、以て秀吉の東征に備える。十八年三月、秀吉大軍を率いて小田原を征す。豊臣氏の水軍、九鬼嘉隆(志州島羽)、長宗我部元親(土佐岡豊)、脇阪安治(淡路洲本)、徳川氏の水軍、向井兵庫正綱(一に忠安)、本田重次等、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河の兵船数十隻を率いて清水港を発し、四月一日豆州沿岸の諸塁に迫る。向井正綱田子城ヶ原城を抜き本田重次阿蘭城(安良里)を陥れしも、独り鵜島城主清水上野守正令、援軍江戸摂津守朝忠と、精兵六百余騎を以て、固守して容易に降らず。秀吉 即 元親をして鵜島を囲ましめ、脇阪九鬼加藤等を小田原に召す。元親、偽って和を約し、火を放って急に攻む。城遂に落ち、清水氏城を捨てて走る・・・」

下田の栞には引き続き「北條五代記」「駿州沼豆宿旧本陣淵水助右衛門方系譜」「関東古戦録」「武徳編年集成」等を引用し、戦いと落城の様子を記載しているが、ここでは省略する。文中に「下田落城のこと、諸史異同あり」の記述があるように、多くの伝聞が物語となり残されているのだろう。中でも、元親から康英に送られた矢文「既ニ小田原ハ落城セリ」の謀計に応じた康英が武ガ浜に出向いたところを攻め込んだと言う説が本当なのかも知れない。鵜島城に寄っていた伊豆豪族は昔ながらの地主豪族であったため、戦は戦と割り切り、ひとたび敗北となれば後ろめたさもなく地の利を得て逃亡することが出来た。忠義に殉ずる封建時代のしがらみが少なかったが故に、命を落とすことも少なかったと言えよう。

◇ 鵜島城の戦い、一万二千対六百の兵

下田城の歴史事象を整理する。

・下田港西側の岬全体が城を形成していた。直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m×南北30mの平場で、本丸の北側に二段の天守曲輪があった。最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。

・足利基氏伝帳(土肥神社所蔵、基氏は尊氏の四男、初代鎌倉公方)に城主清水長門守の記録があるが、本資料の信憑性は低いと言われる。

・延徳年間(1489~91)後北条氏玉縄衆の朝比奈知明が八丈島発見の功を以て下田を知行。本郷・下田・須崎・柿崎を所領(世襲)し、城砦を増築する。後北条氏は下田城を小田原水軍の根拠地とし、朝比奈孫太郎が入っていた。

・天正16年(1588)伊豆国奥郡代清水康英(太郎左衛門尉上野介、加納村矢崎城主)が五代北条氏直の命を受け、下田城を増修し沿岸警備を図る(下田市歴史年表ではこの年を下田城築城としている)。

・天正18年(1590)2月、秀吉は小田原征伐を決意し宣戦布告。同年3月、長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇阪安治ら12,000の軍勢を乗せた数百隻が清水港に集積。北条方は清水康英(上野介、伊豆衆筆頭)を城将に命じ城を築かせる。伊豆在地の領主清水淡路守英吉(南伊豆南上、康英の弟)、高橋丹波守(松崎雲見)、村田新左衛門(南伊豆妻良)ら参じ、小田原から副将として江戸朝忠、検使高橋郷左衛門が加わる。総勢600と言う。籠城五十余日、同年4月末ついに落城。上野介は河津の林際寺(河津沢田)に身を寄せ、のち三養院(河津筏場)に隠棲し、翌19年死去。

・天正18年(1590)7月、秀吉は関東八州と伊豆を徳川家康に与え、同年8月家臣戸田忠次が下田五千石の領主(城主)となる。

・慶長6年(1601)忠次の子・尊次は三河国田原城へ転封となり、廃城。以後は江戸幕府の直轄領として下田奉行が支配。明治維新後は御料林など公に管理され、明治34年町有公園となった。

◇ 記憶の断章

深根城祉は母校の稲梓中学校が近くにあったので(現在、診療所が置かれている)、授業中に窓から深根城址と城山へと連なる山々をぼんやりと眺めることがあった。当時は歴史的な物語を知る由も無かったが、城址から通う同級生がいて「さては末裔なのか」と思い、一度だけ放課後に仲間が誘い合い城址を訪れたことがある。山の上は拓けた台地になっていて、石垣の存在感と建物の板壁の古さに感心した記憶が蘇る。

下田城祉は、子供の頃、買い物や青果市場に行く祖母に連れられて下田へ出た折、城山公園の木陰で持参した「おにぎり」を食べるのが常だった。下田港や市街が一望できる静かな場所だった。ある時、一人の見知らぬ小父さんが寄ってきて、「これがボールペンというものだ」と新聞紙の端にクルクルと書いて見せた。携帯ペンと言えば万年筆だった時代だったが、あの小父さんの行為は何だったのだろうかと今でも不思議に思う。

公園下にあった下田ドックは興味をそそられる存在だった。下田海上保安部が置かれ(昭和二十四年)間もなくの頃だったろうか、巡視船に乗せてもらった。甲板が油でこんなにも滑るものかと感じたことが思い出される。和歌の浦遊歩道を回って行き着くところが鍋田浜海水浴場。泳いだ後、水族館(現在、筑波大臨海実験センター)を見学するのも定番だった。

ここで取り上げた二つの城砦は、今我々が目にするような豪華な天守閣をもつ城ではない。山の地形を巧みに利用し、櫓を組み天守台とし、土塁と石垣で囲み空堀で固めた山城である。歴史の中でそれぞれの運命を持ち、消えていった二つの城、深根城と下田城。多くの死者を出した深根城の戦い、籠城の末降伏に至った下田城(玉砕を美学とした過去の歴史が思い出されるが、どちらが是とは言うまい)。落城の形に相違はあるものの、悲劇の姿を歴史に留めていることは間違いない。城址を散策すると、蝉の声が岩に滲みる。伊豆の下田を訪れた際は、立ち寄りたい場所だ。

参照 (1)下田市編纂委員会「図説下田市史」2004, (2)下田開国博物館「肥田実著作集 幕末開港の町下田」2007, (3)下田己酉倶楽部「下田の栞」1914, (4)深根城址(下田市文化財、昭和51年)、関戸吉信石塔(河津町文化財、平成元年)、下田城祉(下田市文化財、昭和48年)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 寝姿山と武山 | トップ | 伊豆の人、今村伝四郎藤原正長 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伊豆だより<里山を歩く>」カテゴリの最新記事