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恵庭の古道-2 「漁街道」

2022-12-15 14:14:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

オサツ(長都)と恵庭(漁)を結ぶ「漁街道」

カマカ(釜加)と恵庭(漁)を結ぶ生活路を「釜加街道」と呼んでいたと前項で述べた。同様に、オサツ(長都)と恵庭(漁)を結ぶ道は「漁街道」と呼んだ。オサツ(長都)はオサツ川とユカンボシ川が長都沼に注ぐ河口近くにできた集落で、アイヌ語のオ・サツ・ナイ(川尻が乾く川)から名付けられた。長都村と漁村は同じ生活圏を形成していたと考えられている。明治29年製版大日本帝国陸地測量部地図「長都1/50,000」に記載はないが、里道らしきものはあったに違いない。

◇漁街道

植民区画で基線・号線道路が整備されるに伴い、長都の人々は恵庭(漁)に向かう生活路として「南26号」道路を頻繁に使うようになったと考えられている。長都集落から南26号道路を経て現在の戸磯黄金通を進み、恵庭駅の北側を過ぎて鉄道を越え、恵庭小学校の横を通り漁市街に至る道路である。その後、漁街道の起点・終点は若干の変更があったようだが、南26号道路が主幹であった。そして今なお南26号線は国道36号線の裏街道として交通量が多い(漁街道とは呼ばないようだが)。

新恵庭市史の記述は新千歳市史(平成31年)を引用しているので、本項では新千歳市史から引用する。

「長都・釜加地区の人々が恵庭(漁)に通うもう一つの道が漁街道であった。この道は、南26号を恵庭に向い、東3線を越え恵庭駅の北側を通り鉄道を越え恵庭小学校の横を過ぎて漁市街地に通じていた。戦前は長都小学校に高等科が設置されておらず、長都・釜加地区の子で高等科進学を希望する者は恵庭小学校か松恵小学校の高等科を選択するしかなかった。長都の子の多くはこの道を恵庭小学校に通ったのである。

大正9年の町村道認定台帳では、現国道36号と東6線交点付近長都158番地を起点に長都62番地(注、東3線)までの1,111m(注、誤記か? 実際は4km強ある)となっているが、昭和34年には南26号道路と名称変更され、起点は長都の東10線、終点は長都の東3線となった」とある。

 

「漁街道」の名称は、長都・釜加など千歳に住む人々の命名だったのではないか。漁に住む人々から見れば長都街道と言う方が自然な発想だと思うが如何だろう(別に、長都と千歳を結ぶ長都街道と呼ばれる道路があった。この道が漁市街まで繋がっていた道筋は分からない)。

 

追記:2023.9.2 渋谷さんから新千歳市史引用の誤記(1,111m)を指摘された。地図上で測定したところ、およそ4,400mだった。ご指摘有難うございました。

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