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恵庭の古道-3 「長都街道」

2022-12-17 16:48:56 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

消えた「長都街道」

弘化3年(1846)松浦武四郎は二回目の蝦夷地探査の折、江別から舟で千歳川を遡った。再航蝦夷日誌にその時の詳細な記録を残している。再航蝦夷日誌によると、当時の交通は主に河川を利用していたが、イザリブト(漁太)からチトセ(千歳)までアイヌの人々が往き来する陸路(里道)があったとされる。

関連する部分を引用する。イザリブトの説明の中で「扨此処より公料のせつは、チトセ迄陸道有し由なれども今は其道絶たり。実におしきものぞと思うなり。凡そ陸にて五里半と聞けり」と記し、カマカの説明では「此処より小川を五、六も渡りてチトセへ行く道あるよし聞侍りけり」、チトセの説明では「イザリブト従り六里。此間寛政度には陸道有し由。今はわずかに存せる斗なり。夷人共は是を往来す。願はくば此道筋を開き置度事ぞ」とある(新千歳市史2019、大林千春「武四郎が見た恵庭」えにわ学講座2019)。

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」、「胆振国千歳郡千歳原野区割図」(北海道庁、明治30年初刷)をみると、里道は「カマカと漁」「オサツと千歳」を結ぶ道路以外はない。前者は「釜加街道」、後者が「長都街道」と言うことになろうか。長都沼及び千歳川流域は多くが沼地・湿地帯であるが、漁太と千歳を結ぶ道路は何処を通っていたのだろうか。

 

◇長都街道

新千歳市史(平成31年)から「長都街道」解説文の一部を引用する。

・・・安政4年(1857)、当時の箱館奉行堀織部正は一行三十余名で函館を出発して蝦夷地巡検に向かった。・・・随行者の中に仙台藩士玉虫左太夫がいた。彼が蝦夷地で見聞きしたものを日記に書き記したものが「入北記」である。ユウフツからチトセを通ったときの記録の中で、当時の千歳とオサツの情景を表している部分がある。

・・・「千歳川ヲ渡リ、川筋通リ一丁斗リ行キテ平林トナリ、又行ク十丁斗ニシテ追分ノ杭アリ。左ハイシカリ境シママフ道新道ナリ右ハヲサツ道ト記シ置ク。(略)漸クヲサツニ至リケレバ同処ニ土人家八九戸アリテ至極幽栖ノ処ナリ。此処ニ川アリ。ヲサツ川ト云フ」(玉虫左太夫「入北記」1857)・・・

・・・「右ハヲサツ道」といわれたものが、千歳市街地からオサツを通ってイザリブトに通じる六里の道で「長都街道」として昭和末年頃まで人々の記憶にあった旧道である。(略)おそらくイザリブトからオサツまでの間は、利用目的の喪失や湿地帯という交通路としての利便の悪さから廃れたが、オサツから千歳までの間はアイヌの人たちの生活路として存続していたのだろう。(略)大正9年、千歳村が行った道路名認定作業で長都街道として道路台帳に記載された道は、東六線の直線道路であり斜めの道ではなかった。昭和10年頃の千歳村管内図-管内道路網一覧図では、地方費道、準地方費道や多くの村道が色分けされそれぞれに道路名が記載されている中で、認定前の「長都街道」には名称の表示がない。その経路は、現在の国道36号錦町四丁目付近から、北栄の高台の則面下に沿ってJR千歳線を越え、高台通(東十一線)沿いの道央農協千歳支所付近から末広小学校、富岡中学校方向へ斜めに長都まで続いている。長都街道は昭和五十五年の段階で地図上から消滅しているが、その傷痕をわずかにみることが出来る場所がある。そこは老人福祉施設暢寿園裏の雑木林内をふれあいセンターのゲートボール場に出る僅か10mほどと、その延長上の富岡中学校敷地までの間である・・・

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」、「胆振国千歳郡千歳原野区割図(北海道庁、明治30年初刷)」に描かれているオサツと千歳を結ぶ道路が「長都街道」と呼ばれていたことは間違いない。

 

◇イザリブト(漁太)とオサツ(長都)を結ぶ陸路

ところで、イザリブトとオサツを結ぶ陸路は何処にあったのか。新千歳市史では「イザリブトからオサツまでの間は、利用目的の喪失や湿地帯という交通路としての利便の悪さから廃れた」と推察しているように地図上にも経路の痕跡はない。

再興蝦夷日誌には寛政の頃にはあったと書かれているので、松浦武四郎から遡ること50年ほど前(1,800年頃、11代将軍家斉の時代、伊能忠敬の蝦夷地測量が行われた頃)にはアイヌの人々が往来する里道が存在したのだろう。

イザリブトから千歳川沿いにオサツを通りチトセまでの距離を地図上で辿ると約14-17km(4里)、イザリブトから漁川沿いに上流へ向い、漁、戸磯を経てオサツに抜けると仮定した場合は約20-24km(5-6里)である。再興蝦夷日誌によるとイザリブトと千歳間の距離は5里半~6里(24-22km)とあるので、イザリブトからオサツに至る陸路は後者の可能性があるが、確証はない。

6里と言えば徒歩で凡そ6時間ほどかかる道程、どこかにその痕跡か記録が残されていないだろうか。

追記:2023.9.5

澁谷さん外数名の方から、恵庭駅から札幌方向約200mの踏切に「長都街道踏切32k805m」の標識があると教えられた。この標示によれば、長都街道はこの地点を抜け恵庭小学校の脇を通り漁市街へと通じていたことになる。この踏切から長都への経路は確定できないが、南26号(戸磯黄金通)か南25号(黄金中島通)沿いだったのだろうか。南26号だとすれば「漁街道」に重なってしまう。 

いずれにせよ、この踏切の場所は「釜加や長都」に通じる街道の道筋と言える。今も南北に通じる基幹用水路が残っている。

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