家族の昭和 関川夏央 新潮社
表題は「昭和の家族史」の謂いで、戦前と戦後に分けてある。戦前は向田邦子の「父の詫び状」と吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」、戦後は幸田文の「流れる」と鎌田敏夫のテレビ脚本「金曜日の妻たちへ」を読み込んでそれぞれの作品に登場する家族のありようを見つめている。昭和天皇の死によって年号は平成と変わったが、最近の皇室を取り巻く諸状況を見るにつけ、昭和を懐かしむ心情がほとばしり出たという印象が強い。それは著者が自分のことを昭和人といっていることからもわかる。昭和は遠くなりにけりということか。一読して感じるのは、著者の東京山の手の中産階級に対する憧れである。言葉、礼儀作法、食事、趣味等、山の手の文化が脈々と伝承されていたことに対する敬意と憧憬が文の端々に現れている。戦前、戦後の家族はそれぞれ時代の重圧に耐えながら懸命に生きてきたわけで、物質的にはいまほど恵まれてはいなかったが、家族の結束等は非常に強固なものがあったと言える。幸田文は離婚して後、娘の玉と父露伴の家で生活するが、礼儀作法に関しては暴君のように厳しい父に仕える様子はまるで映画を見ているような感じだ。その厳しさの中に文化が育つわけだ。昨今のマシュマロのようなふわふわした家族関係は文化とは無縁だ。文化的素養のない家に育った子供は当然勉学にたいするモチベーションが高まらない。いい学校に行って、いい仕事に就くという単純な動機だけでは深い勉強にはならないだろう。文化的厚みの中で子供は育てなければ意味は無い。全国学力テストの平均が低いの高いので一喜一憂するのはナンセンス。日本の文化をどうするかでなくては。テレビしか見ない人間ばかりが増え、愚民が横行する社会は危機だ。代わりにノブリスオブリージュの意識を持つエリートを育てられるかというとこれも難しい。結局この国は三流国に成り下がるのではないかという危惧がある。最近の国会議員の様子をみるにつけその感を深くする。
家族には歴史があるゆえ、どの家族にも全盛期に下降期・落日期が続き、そのあとには、親の死を契機とした「家族解散」がある。悲しいことだがそれを避けることはできない。ひとり去りふたり去りして、家族でにぎわっていた茶の間からついにだれもいなくなるのだ。無常とはこのことだったと最近やっと悟った。さびしーい。