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読書日記

いろいろな本のレビュー

カティンの森のヤニナ 小林文乃 河出書房新社

2023-06-04 13:01:21 | Weblog
 副題は「独ソ戦の闇に消えた女性飛行士」。「カティンの森」とは「カティンの森事件」のことで、1939年ソ連のポーランド侵攻で捕虜になった22000~25000人のポーランド人がソ連のスモレンスク近郊のカティンの森でソビエト内務人民委員部によって虐殺された事件。これはスターリンの命令だった。殺されたのはポーランド軍将校が大部分だが、他に国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がいた。ソ連側の思惑は、国家の中枢を担う高級軍人やインテリ層を抹殺することで、ポーランド支配を徹底させることにあった。処刑は銃殺によるもので、銃と銃弾はドイツ製を使用してドイツ軍の仕業に見せかけようとした。しかし、捕虜たちは「ソ連縛り」で後ろ手に縛られて後頭部を一撃されていたので、ソ連の所業であることは明らかだった。

 ドイツは1941年6月にソ連に侵攻し、1943年4月に「カティンの森で1940年4月頃虐殺されたと推定される多数のポーランド将校の射殺死体を発見した」と発表した。ソ連はドイツの仕業と一貫して主張したが、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長時代にポーランドと合同委員会で調査して、ソ連の非を認めポーランドに公式に謝罪した。さらには1992年10月にロシア政府は、ポーランド人2万人以上の虐殺をスターリンが署名し指令した文書を公表し、事件はソ連が実行者であることが確定した。

 この「カティンの森事件」事件で女性飛行士が犠牲になっていたことは本書で初めて知ったのだが、著者は彼女の人生をたどることで、改めて戦争の悲惨さを浮き彫りにしている。労作というべき書である。「ヤニナ・レヴァンドフスカは、1908年4月22日に、ロシア領の都市ハリコフで生まれている。彼女の父は、帝政ロシア・第一ポーランド軍の創設者で、後の大ポーランド蜂起の最高司令官でもあった。ポズナン飛行クラブに入会し、ヨーロッパでは女性初の高度5000メートルからのパラシュート降下に成功した人物尾となった。開戦3日目の9月3日、ヤニナはポズナン西駅から出征し、その行方不明となり、1943年にカティンの森で、多くの遺体とともに発見される。ヤニナ・レヴァンドフスカの殺害された日は彼女の32回目の誕生日だった。、、、、、、」これは「カティン博物館」で彼女の人生を紹介するナレーションだが、この素描に著者は本人はもちろん父や兄弟の履歴など、色彩を加えていく。

 ヤニナは1939年6月に三歳年下の男性とポズナンで結婚している。御年28歳。しかし80日間の結婚生活で別れ別れになってしまう。夫はナチスによって総督府域へと移動させられたが、幸いなことに戦後も生き残った。ヤニナはパイロットだったが、軍人としては一度も操縦桿を握らなかった。ソ連軍に捕まった時に将校という肩書だったために処刑の憂き目を見たようだ。ちょっとしたことが人生の分かれ道になる。このように死体となって発見された将校の一人一人にそれぞれの人生がある。それを掘り起こすことは非常に重要だ。大量虐殺の怖さは、死んだ人間が個人としての死を無視されることだ。それを具体化することで死は弔われる。今回の著者の行為はまさにこれを実行する営為であり、賞賛すべきものだ。

 「カティンの森事件」についてはポーランドの名匠、アンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」がある。ワイダ監督の父・ヤクプ・ワイダ大尉はこの事件で殺害された将校の一人で、無念の死への哀悼と平和への祈念が伝わってくる名作だ。捕虜たちは最初オプティナ修道院に収容されるが、場所が場所だけにみんな国に帰れると安心する場面が悲しい。人間てどこまで残酷になれるものなのだろう。


 

 

映画 「銀河鉄道の父」を見て

2023-05-23 09:12:13 | Weblog
 『銀河鉄道の父』は門井慶喜が2018年に発表した作品(講談社)である。本のカバーの装丁が素晴らしかったので買った記憶がある。今回、成島出監督で映画化された。父・政次郎に役所広司、賢治に菅田将暉という配役である。タイトル通り政次郎が主役であるが、役所広司の演技が素晴らしく、賢治役の菅田将暉がかすんでしまった感じだ。映画の狙いとしてはそれで正解なのだが。私が役所広司を知ったのは、「うなぎ」という映画を見た時だ。1997年の作品で、監督は今村昌平。不倫した妻を殺害して以来人間不信に陥り、ペットであるうなぎにだけ心を開きながら静かに理髪店を営む男と、自らの境遇を嘆き自殺を図った女(清水美沙)との心の交流を描いた作品だ。役所はこれで最優秀主演男優賞を受賞した。

 原作をどうアレンジするのかというのが興味の中心であったが、賢治のストイックさと、妹トシの夭折する薄幸なイメージはそれなりに伝わってきた。ただ役所の容貌が結構バタ臭いので、悲劇になり切れないのが残念。トシの臨終の場面は『永訣の朝』に描かれているが、賢治がトシの願いを聞いて、松の枝から雪を茶碗に入れる場面はいいとして、後日この詩を読んだ政次郎が「嘘ばかり書くな」と詩集を放り投げたらしい。それは、トシの「今度生まれてくるときは病気で苦しむことなくみんなの役に立てるように元気な体で生まれてきたい」という文言が賢治の捏造であったからなのだ。実際は政次郎がトシに遺言があればこれに書けと巻紙を渡し、そばで賢治が「南無妙法蓮華経」を懸命に唱えていたということらしい。映画ではこれが省かれて、静かにトシの臨終を見守るという風になっていた。父と息子の宗教的対立を可視化することは映画の雰囲気を壊すと考えたのだろう。

 トシの葬儀は浄土真宗で行われたので賢治は参加せず、野辺の火葬の場に出てきて懸命に「何妙法蓮華経」を太鼓を叩きながら唱えるさまは鬼気迫るものがあった。ここが菅田将暉の腕の見せ所と言えるがトランス状態になった賢治を好演していた。その後賢治も肺の病で死ぬわけだが、賢治が手帳に認めた「雨にも負けず」の詩を看病する政次郎が見つけて読み上げる。そして賢治臨終の場で、それをソラで絶叫する。この場面こそ映画のハイライトだ。役所の演技はさすがにうまい。感涙にむせんだ観客が多かったのではないか(観客は私同様高齢者が多かった)。

 裕福な質屋(古着屋)の息子が悪徳商人にはならず、このようなストイックな人生を歩んだということが、人気の源泉であることは間違いない。堕落的・享楽的な昨今の世相を見るにつけ、賢治とトシの人生が清涼剤のように感じられるのであろう。実際の賢治は盛岡高等農林学校時代に寮の同級生に恋愛感情を抱いたとか、性欲を抑えるために一晩中歩き回ったとか、トシも女学校時代に音楽教師との恋愛問題に悩んだとか凡人並みのエピソードが伝えられている。でもだからと言って二人の人間としての評価が落ちるものではない。自分の意思を貫いて生き通したことが尊いのだ。賢治こそはまさに聖職者と言えるだろう。

 

コーヒーの科学 旦部幸博 ブルーバックス

2023-05-12 15:13:33 | Weblog
 著者は薬学者でコーヒーの科学的分析がメインだが、コーヒーにまつわる話題が豊富で、参考書として手元に置いておくとよい本だ。そんな中で私が興味を持ったのは、モカコーヒーのことを詩人高村光太郎が『智恵子抄』で歌っているという指摘だ。モカコーヒーあるいは単にモカとは、イエメンの首都サナアの外港であるモカからかつてコーヒー豆が多く積み出されたことに由来する、コーヒー豆の収穫産地を指すブランドである。その詩とは「冬の朝のめざめ」というもので、智恵子に対する愛情が西洋的・中東的フレイバーでまとめられた独特のもので、大変素晴らしい。指摘されるまでこの詩のことは知らなかった。恥ずかしいばかりである。紹介しよう。

                    冬の朝のめざめ

冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷たる可し われは白き毛布に包まれて我が寝室の内にあり 基督に洗礼を施すヨハネの心を ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を 我はわがこころの中に求めんとす 冬の朝なれば街より つつましく

からころと下駄の音も響くなり 大きなる自然こそはわが全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し するどきモッカの香りは よみがえりたる精霊の如く眼をみはり いづこよりか室の内にしのび入る われは此の時 

むしろ数理学者の冷静をもて 世人の形くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る 起きよ我が愛人よ 冬の朝なれば 郊外の家にも鵯(ヒヨドリ)は夙に来鳴く可し わが愛人は今くろき眼を開きたらむ をさな児のごとく手を伸ばし

朝の光りを喜び 小鳥の声を笑ふならむ かく思ふとき 我は堪へがたき力のために動かされ 白き毛布を打ちて 愛の頌歌をうたふなり 冬の朝なれば こころいそいそと励み また高くさけび 清らかにしてつよき生活をおもふ 青き琥

珀の空に 見えざる金粉ぞただよふなる ポインタアの吠ゆる声とほく来れば ものを求むる我が習癖はふるひ立ち たちまちに又わが愛人を恋ふるなり 冬の朝なれば ヨルダンの川に氷を噛むまむ

 「するどきモッカの香り」は詩全編にあふれる愛の賛歌とマッチして心地よい。冬の朝の寝床は今一人きりでさみしいが、間もなくわが愛人がそばで一緒に朝を迎えるであろうという確信が読み取れる。愛の力をこれだけ恥ずかしげもなく歌えるというのは、やはり光太郎も若いという感じがする。後の「千鳥と遊ぶ智恵子」の「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の後ろ姿がぽつんと見える」の展開がうそのようである。逆に言うといくら光太郎でも人生の先は読めなかったということか。まあ『智恵子抄』に作為がなかったとは言えないので、「千鳥と遊ぶ智恵子」の現実から過去を潤色した可能性も否定できない。百歩譲ってそうだとしても、「冬の朝のめざめ」の愛の賛歌は感動的だ。

 この詩に見られる通り、コーヒーは生活に潤いを与えるもので、悲しい時も楽しい時も手放せない。喫茶店がなくならないゆえんである。
           

慟哭の谷 木村盛武 文春文庫

2023-04-29 09:15:02 | Weblog
 サブタイトルは「北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件」である。本書は木村氏の昭和40年(1965)刊行の「獣害史最大の惨劇・苫前羆事件」を文庫化したもの。今回新たに第二部として「ヒグマとの遭遇」と題して著者自身のヒグマ遭遇体験なども収録した特別編集版となっている。カバーのヒグマが牙をむいた写真が大迫力だ。事件が起こった時は、大正四年(1915)暮、場所は北海道苫前村三毛別の奥地の六線沢。ここは開拓農民が暮らす場所で、苫前村の中心地まで30キロもある辺地であった。この村を冬眠の時期を逸したヒグマがわずか二日で六人の男女(胎児一人を含めれば7人)を殺害したのである。

 12月9日の午前10時半頃、太田三郎宅にヒグマが侵入、内妻のマユと預かり子の幹夫が殺害された。太田は村の作業で留守にしていて難を逃れた。マユはその場で食害されたうえ連れ去られた様子で、捜索の結果近くのトドマツの根元に埋められていた。その様子は次のように描かれている「捜索隊ら数人が、先刻熊が飛び出てきたトドマツの辺りへ行くと、熊の姿はすでになく、血痕が白雪を染め、トドマツの小枝が重なったところがあった。その重なった小枝の間からマユの片足と黒髪がわずかに覗いている。くわえられてきたマユの体はこの場所で完膚なきまでに食い尽くされていた。残されていたのは、わずかに黒足袋と葡萄色の脚絆をまとった膝下の両足と、頭髪を剝がされた頭蓋骨だけであった。衣類は付近の灌木にまつわりつき、何とも言えぬ死臭が漂っていた。誰もがこの惨状に息を飲むばかりであった。夕刻五時ごろマユの遺体は太田家に戻った」。ヒグマの恐ろしさが身に染みて感じられる場面である。現代でも時々山菜取りに出かけた人が熊に襲われて食害されるという事件が起こっている。本州などから観光に来て一人で山に入り被害に遭うことが多い。ヒグマは雑食の猛獣でありその習性を理解しておかないと、いつ被害に遭うかわからない。

 吉村昭の名作『羆嵐』(新潮社・昭和52年刊 昭和57年文庫化)はこの木村氏の著作がもとになっている。木村氏によると、昭和49年1月、旭川営林署の勤務室に吉村氏から電話があり、木村氏の著作を小説化したいのでお会いしたうえで直接承諾を頂ければという申し出があったという。面会の席で木村氏は二つ返事で快諾した。その後吉村氏は350枚の小説として『羆嵐』を完成させた。事件がショッキングであるだけに、これを小説化することは案外難しかったようだ。『羆嵐』ではマユ発見の場面はどう描かれているかというと次の通りである。

 傾斜をおりてきたかれらを、区長たちがとりかこんだ。「少しだ」大鎌を手にした男が、眼を血走らせて言った。「少し?」区長がたずねた。「おっかあが、少しになっている」男が、口をゆがめた。区長たちは、雪の付着している布包みを見つめた。遺体にしては、布のふくらみに欠けていた。大鎌を雪の上に置いた男が、布の結び目をといた。区長たちの眼が、ひらかれた布の上に注がれた。かれらの間から呻きに似た声がもれた。顔をそむける者もいた。それは、遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端に過ぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみであった。「これだけか」区長が、かすれた声でたずねた。男たちが、黙ったままうなずいた。

 「おっかあが、少しになっている」が吉村氏の真骨頂と言える。ヒグマの恐怖をたったこれだけで細大漏らさず表現している。一流の小説家であることの証だと思う。ヒグマは翌日の12月10日の午後8時40分に太田家から500メートル川下の明景家に窓から侵入し明景金蔵とここに避難していた斎藤タケと子供の巌(6歳)と春義(3歳)、さらにタケが身ごもっていた胎児まで食害した。結局このヒグマは12月14日午前10時に射殺された。身の丈2,7メートル、体重340キロ、推定7~8歳のオスであった。

 この事件から、熊の行動パターンとされる定説が確認された。それは次の通り、① 火煙や灯火に拒否反応を示さない。 ② 遺留物があるうちは熊はそこから遠ざからない。 ③ 遺留品を求めて何度でもそこに現れた。
④ 食い残しを隠蔽した。 ⑤ 最初に味を覚えた食物や物品に対する執着が強い。 ⑥ 行動の時間帯に一定の法則性がない。 ⑦ 攻撃が人数の多少に左右されない。 ⑧ 人を加害する場合、衣類と体毛を剥ぎ取る。 ⑨ 加害中であっても逃げるものに矛先を転ずる。 ⑩ 厳冬期でも、冬ごもりしない個体は食欲が旺盛。 ⑪ 手負い、穴持たず、飢餓熊は凶暴性をあらわにする。以上11項目、これだけ見ても手ごわい相手だということがわかる。

 木村氏はこれを踏まえて、動物写真家、星野道夫氏が1996年(平成八)8月8日、ロシア領カムチャッカのクリル湖畔でヒグマに襲われて亡くなった事件や、1970年(昭和四十五)7月、夏季合宿訓練で日高山系縦走中の福岡大ワンゲル部員五人のパーティー中三人が、カムイエクウチカウシ山のカールでビバーク中にヒグマの犠牲になった事件を分析しており、ヒグマとの向き合い方を提起されているのでぜひ参考にしてほしい。三毛産別事件から108年、ヒグマは虎やライオン同様、猛獣であることを改めて認識しなければならない。

完全ドキュメント 北九州監禁連続殺人事件 小野一光 文藝春秋

2023-04-07 15:41:30 | Weblog
 本書を読んで、孟子の性善説・荀子の性悪説の議論を思い出した。近代以降は、人間には善なるものと悪なるものが共存するという考え方が主流になり、「ジキル博士とハイド氏」はその嚆矢とされている。またスタインベックの『エデンの東』もこの問題を扱っていたように思う。アーロン(善人)とキャルの兄弟と母(悪人)の物語で、善人も悪人も滅びるが、その中道を行くキャルが生き延びるという話だ。善と悪の共存を体現したキャルが人間の本質というのがスタインベックの主張だ。ところがこの事件の主犯の松永太の行状を見ると、やはり人間の本質は悪なのではないかと思ってしまう。 

 本書の前書きで著者は「最も凶悪な、との例えを使うことに躊躇の生じない事件というものがある」とこの事件の衝撃の強さを述べる。以下この事件の概略について、「稀代の大量殺人は、2002年3月7日、福岡県北九州市で二人の中年男女が逮捕されたことにより発覚する。最初の逮捕容疑は17歳の少女に対する監禁・傷害というもの。だがやがて、この事件は想像以上の展開を迎える。まず少女の父親が殺害されていたことが明らかになり、さらには逮捕された女の親族6人も、子供2人を含む全員が殺されていたことがわかっていく。しかもその方法は、男の命じるままに肉親同士で1人ずつ手を下していくという、極めて残酷なものだった」と続く。

 本書は時系列に従って公判記録をもとに事件を具体的に再現していく。そこに主犯松永の人間性による具体的な行動が白日のもとに晒され、読む者の心胆を寒からしめる。これは戦時の残虐行為とは違い、平時の市民生活の中で行われたということがより衝撃的である。主犯松永は、詐欺師的性格を持ち弁舌が巧みで、金銭目当てに狙いをつけた女性に言葉巧みに近づき、相手に好感を持たせたうえで金をむしり取っていく。女に金がなくなると急に暴力をふるい支配下に置いたうえで親族にターゲットを広げていく。暴力には通電による方法を多用したとある。電気ショックを与えて恐怖を植え付ける方法はあまり聞いたことがないがこれで相手は反抗する意思をなくすようだ。これでマインドコントロールが完成する。共犯の緒方順子は松永にナンパされて夫婦関係になり、二人の子供を設けていたが、松永の命ずるままに自分の家族を殺すという信じられない行動をする。まさにマインドコントロールの結果と言えよう。しかも彼自身は殺人に手を染めず、遺体をバラバラに処理させて海に投棄したというもの。投棄するまでのプロセスは残虐すぎて、これ以上具体的に書くことはできないが、詳しくは本書を読んでいただきたい。松永のやり口を見ると、支配・被支配のメカニズムが非常によくわかる。言葉巧みに世間話を仕掛け、その過程で知りえた当人にとっての負の情報を使って、相手の弱みに付け込んで心理的に追い込み、暴力によって身体的苦痛を与えて、ぐうの音も出ないほどにしてしまう。悪魔の所業と言えよう。

 松永は結局2011年死刑が確定、緒方は反省の気持ちを表していたこともあって死刑から無期懲役に減刑された。松永は公判中も自己の責任を認めず、無罪を主張し、まったく反省の気持ちはない。最高裁の死刑判決から12年経つが、まだ刑は執行されていない。いまだ執行されないのは、何とかして反省の気持ちを表明させたいという検察の意思があるのではないか。このままでは殺された7人がうかばれないし、松永にとっても不幸なのではないか。親鸞聖人の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」は彼に当てはめないほうが良いかもしれない。これで極楽往生できるなら、宗教って何なのかという疑義が呈される可能性がある。

 本書は575ページの大著で、小説家でも想像できないストーリーが、現実として我々の目の前に展開する。ディストピア小説を読んだような重苦しい感じは残るが、それも読書の営為として受け入れるしかない。最後にこの事件で亡くなられた人のご冥福をお祈りする。合掌。

習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン 遠藤誉 PHP新書

2023-04-05 13:35:58 | Weblog
 習近平の三期目続投について、その権力の集中について危惧を覚える人は多い。ではなぜそこまでして国家主席の地位に固執するのかについて明確に述べるのは困難だが、著者は次の二つの理由を挙げている。一つは父・習仲勲を陥れた鄧小平への復讐、もう一つは米中覇権競争で一歩も引けない。自分がやるしかないという強い意志だ。そのためにこの十年間でライバルの李克強の出身母体である共青団を無力化してきた。中国共産党のメインストリームである組織を弱体化するのは相当のリスクだが、逆に言えば組織としての腐敗が軍部同様深刻化していると習近平の目に映ったのかも知れない。

 父の習仲勲が鄧小平の策謀によって失脚し、16年間もの長きにわたって投獄・軟禁・監視を余儀なくされたことは、習近平自身や家族も含めて困難な人生を歩まされる原因となった。父は最後は名誉回復されて幹部に復帰したが、近平は父の遺志である改革・解放(これを鄧小平に横取りされたと近平は思っている)を継ぐべく自分が省長だった広東省エリアの経済発展とそのための台湾統一を視野に入れて三期目を実現した。この習近平の意思を説明した類書は他になかったと思う。近刊の『極権・習近平 中国全盛30年の終わり』(中澤克二 日本経済新聞社)もブログの記事を集めたような感じで総花的だった。この点遠藤氏の話題はもと中国プロパーだけあって豊富だ。

 新チャイナセブン(政治局常務委員)は習近平の側近で固められたが、それはこの14億人の巨大国家を動かすのにスピード感を求めたためともいえよう。この巨大国家を動かしているのは巨大な官僚組織であり、たった7人で動かせるわけでもない。であるから共産党に巣食う利権と腐敗を一応はたたかなければならない。そのための側近登用で執行部の意思統一を図りたいのだろう。でもこれは難しい課題である。長年利権団体として続いてきた共産党が利権を手放すことは党の瓦解に通じる危険性があるからだ。また巨大資本の民間企業を叩いて国家に資本を流させる傾向があるが、それは「共同富有」のスローガンのもとで行われている。しかしゾンビをした国営企業を助けるために民間企業のもうけを横流ししても長期的にはうまくいかない。でも国営企業の存続は共産党の幹部には金づるを維持するために必要なので続けざるを得ない。これが中国共産党のジレンマだ。地位利用による富の獲得は中国共産党の宿痾といえる。

 この腐敗に関して、第六章の「習近平が抱える国内問題」の「不動産価格高騰の原因は小学校の入学条件」の項で、びっくりするようなことが書かれていた。著者によると、最近義務教育である公立の小学校に入学する段階においてさえ、学校側が保護者に「不動産所持証明書」を提出させこれを入学の審査に使うという。中国では最近まで公立の小中学校に入学する際も入試があり、優秀な小学校に入るためには学校側に賄賂を渡す習慣が常態化していた。教育がビジネス化していたのだ。これを反腐敗運動に出ていた習近平は「義務教育入学時の試験廃止」と入学を「学区制」にした。ちなみに競争をあおる塾を廃止したことは日本のテレビでも報じられていた。そんな中で出たのが「不動産所持証明書」である。学校側はこれで金持ちの子供を選んで賄賂を要求するつもりなのだろう。教育の現場でもこれなのだから他の分野でも似たようなことが行われているだろうことは想像に難くない。

 「等しからざるを憂う」が共産主義の原点だが、今の中国は権力を持つものが栄えるという構図になっている。これを改めるのは基本的に無理である。ならばいま習近平がやるべきことは、彼自身が地位利用の蓄財をしていないことを国民に知らしめることだろう。本人あるいは親族がスイスやアメリカの銀行に大金を預けていないことが反腐敗運動を行うときのの基本である。もしこれをやれば四期目も夢ではない。

お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか 河合 敦  扶桑社文庫

2023-03-29 11:12:38 | Weblog
 『殿様は「明治」をどう生きたのか1・2』の続編で、今回は将軍家や大名家、公家などの子女たちが明治維新をどう迎えたのかという話題である。このシリーズは結構面白くて教科書では書かれていない話題が豊富に示される。それぞれの人物の写真が添えられているのもうれしい。薩摩藩から十三代将軍家定に嫁いだ篤姫、十四代将軍家茂の正室となった和宮、有栖川宮家から水戸藩嫁ぎ慶喜を産んだ吉子女王。さらに戊辰戦争で命をかけて逃げざるを得なかった二本松藩正室の丹羽久子や北海道に渡り辛酸をなめ「開拓の母」と呼ばれるようになった亘理伊達家の伊達保子など徳川260年の終焉をどう生きたかが描かれている。殿様も大変だったが、奥様も苦労したという話はまとめて聞く機会が少ないので貴重だ。

 以前、この欄で徳川十五代将軍慶喜のことを「最後の将軍」(司馬遼太郎)で取り上げた縁で、彼の正室と側室について述べてみよう。司馬氏は慶喜を無類の漁色家と断じていたが、それを裏付ける記述が本書にある。彼の正室は徳川美賀子といい、関白一条忠香の養女で、結婚した時、慶喜19歳、美賀子21歳であった。夫婦仲はよいとは言えず、慶喜との間には子供は育たなかった。結局明治27年(1894)59歳のとき乳がんで亡くなった。こういう状況下で慶喜の静岡時代には二人の側室がいた。一人は一橋家の用人の養女であった新村信、もう一人は旗本中根芳三郎の娘の中根幸である。ちなみに静岡以前にはもう一人新門芳という女性がいた。彼女は江戸町火消のリーダーで、侠客としても知られる新門辰五郎の娘だったが鳥羽伏見の戦いの後慶喜が江戸へ船で逃亡する際、静岡までは同道したがその後の消息は分からない。この二人の側室に慶喜は十人以上の子を産ませている。側室には子供が授からなかった反動といえようか。

 慶喜のこうした子作りに励む生活はまさに野生動物もびっくりの本能至上主義といえるだろう。母体保護のための産児制限云々ははなから頭にはない。貴人の特権といえばそれまでだが、近代以前の結婚には子作りによって家を継承していくことがが大きな課題であったことがわかる。そのために一夫多妻の結婚形態が許されていた。近代以降民主主義国家では一夫多妻は消えて新しい夫婦関係が生まれてきた。男女同権により女性の社会参加が普通になり、男女を区別することさえ憚らる世相だ。こうなれば少子化が進むことは必然で、異次元の少子化対策を打っても基本的に無理だろう。アフリカのサバンナに生きる野生動物を見るとよくわかるが、強い雄が雌を支配して、本能の従うままに生殖行動をする。その結果、種の保存が行われ、子孫が生き延びていく。この単純な理屈でアフリカのサバンナは多くの野生動物で埋め尽くされている。命の賛歌である。

 この野生のエネルギーを極力削っていったのが、文明社会である。生殖が本能だったものが今や文化になりつつある。オスとメスの関係性が洗練化されていくと必然的に少子化となる。こうなると現行の結婚制度が見直される必要があるだろう。女性の卵子を冷凍保存して結婚せずとも子供が産めるというような形態になっていくのではないか。それは少し寂しい気がするが、、、、。男女関係が文化的に洗練されればされるほど、子供の数は少なくなる。このジレンマをどう解決するのか。難しい問題である。

大塩平八郎の乱 薮田 貫 中公新書

2023-03-02 10:51:38 | Weblog
 副題は「幕府を震撼させた武装蜂起の真相」。大坂東町奉行の元与力であった大塩平八郎が民が飢饉で苦しむ中、役人や商人が我欲を優先して民を救済しようとしないことに憤慨して武装蜂起したが、一日で鎮圧されたというのが教科書的説明だが、本書は決起までとその後が詳細に書かれている。戦国時代の武装蜂起というのであれば、武将と武将が国盗り合戦のために命のやり取りをする図式で分かりやすい。しかし大塩平八郎の乱は戦争とは無縁の江戸時代末、しかも元与力という警察権力の一翼を担った人間の反乱であるから衝撃は大きかったであろう。

 大塩は寛政五年(1793) 大坂天満に生まれ、14歳で大坂東町奉行所に出仕し25歳で与力となる。今まで知らなかったが、与力は奉行所の中枢を掌握する実力者であり、世襲が普通で、その配下にそれぞれ数人の同心を持っていたらしい。大塩は文政七年(1824) 31歳の時、自宅に先心洞という陽明学の塾を開いたが、それは敷地500坪の屋敷の一角に作られていた。これを見ても与力の権力の大きさがわかる。そして文政十三年(1830) 与力を辞して養子の格之助に跡目を譲った。隠居後は学業に専念して、陽明学者佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わした。陽明学では「知行合一」を説くが、これが蜂起の理論的主柱であったものと思われる。

 大塩の現役時代の働きぶりを表すのが「三大功績」である。これは大塩が自分でなずけたものだが、その内訳は 1 組違いの同僚である西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職を内部告発、2 切支丹の摘発、3 破戒僧の摘発である。本書を読むとその詳細がわかる。どの事案についても正義感の強い大塩の性格が表れており、「魚心あれば水心」とは無縁の厳しさで摘発している。昨今の組織内における内部告発はなかなか成功率が低いが、大塩は果断に実行している。逆にいうと、当時の奉行所の賄賂等の腐敗はひどかったということだ。

 そんな中、大塩は天保の大飢饉で大坂の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛め、東町奉行跡部良弼に倉米を民に与えることや豪商に買い占めを止めさせるなど米価安定の様々な検索を行ったが、全く聞き入れられなかった。この跡部良弼という人物、全くの俗物で大塩の怒りに火をつけてしまった。これが蜂起につながった。大塩は奉行所や塾の関係者を仲間に入れて大砲まで用意して蜂起のタイミングを計っていたが、檄文の印刷も事前に露見しないように刷り方を工夫していた。また蜂起の前夜に徳川幕府の老中に建議書を送って蜂起の趣旨を知らせている。このように学者としての段取りを踏まえたうえでの行動だったが事前の密告に遭いタイミングがずれてしまった。大砲で大坂の町は火の海になったが、反乱は一日で制圧された。大塩は事件後40日余り後、息子の格之助とともに自決した。警察官僚で学者であった大塩の行動は、現代社会に生きるわれわれに多くの問題提起をしている。

 組織内の地位利用による収賄、権力を握るための贈賄、商人の富の独占と政治家との癒着、貧困にあえぐ町民・農民。この現状を打ち破ろうとしたのが、陽明学徒で元与力(警察官僚)の大塩だった。現代の警察官僚は体制権力に逆らうことをご法度としている故、反乱は困難。学者・思想家も武力を有する者に思想的影響を与えることはできるが自身はで抗争するすべを持たない。すると政党による革命ということになるが、そうすると100年前の共産主義革命に戻ってしまう。その結果はソ連崩壊と現中国共産党の腐敗で、これはないとわかってしまった。さて今の日本をどうする。

最後の将軍 司馬遼太郎 文春文庫

2023-02-16 10:59:17 | Weblog
 以前掲載した『天狗争乱』(吉村昭)で、天狗党は徳川慶喜に尊王攘夷の旗印となってもらうべく京都に向かったが、結局相手にしてもらえず投降した。そして彼らの助命嘆願に耳を貸さず処刑してしまったことについてなんと無慈悲なことかと書いた。自分のことだけを考える貴人特有のいやらしさが出ているが、このことを考えるために再読した。著者曰く、「側近の原市之進が慶喜を将軍にするため水戸では過激尊王攘夷派でありながら、景気の側近になると開国派になり、かつての同志であった武田耕雲斎以下を越前敦賀で断罪に処する旨の勇断を慶喜に迫り、説きぬいた挙句それを断じせしめた。(中略)慶喜が将軍になれば市之進はその幕営にあってかれの一手で天下の権を自由にすることができるのである」と。

 原市之進は水戸藩士で、慶喜の側近。彼のために忠実に働いたが、その功績を妬むものも多く、兵庫開港が尊王攘夷からの変節とみなされ暗殺された。その側近に強く言われたから天狗党を断罪したということだが、彼らはもとは水戸藩の同志、その300人以上の同志をこのような悲惨な結果に追い込むには慶喜自身の心にある種の闇があるのではないか。それを表すのが鳥羽伏見の戦いの後、配下を見捨てて大阪城から逃亡した一件。その際会津藩主の松平容保を連れて行ったが、容保は敗れた家来を残して逃げることに難色を示したが、押し切ってしまった。容保はのちにその行動を批判されることになる。面目丸つぶれである。しかも会津藩は朝敵にされて官軍に攻め滅ぼされた。著者は慶喜を「才華があふれ、権謀が多過ぎ、頭脳の回転が常人よりも早すぎ、かつその進退の計算の計算が深く、演技がありすぎることが、愚者たちにこの男を妖怪のように見せかけている」と述べる。もしこの男が権力を握って野心を発揮する立場あったとしたらどうなっていただろう。

 この慶喜の、常人にはうかがい知れぬ内心をもっていた人物の生涯を様々なエピソードで綴ったのが本書である。私はこの「妖怪」の本質を表すのが女性に対する対応だと考える。著者も「慶喜の、その生涯の癖は好色であると言っていい」と述べている。具体的には、17歳で初めて側女と同衾したとき、その秘所を子細に検分し、翌日画仙紙にその絵を描き、絵の具で入念に彩色したうえで、側近に女はみなこのようなものかと問いただしたという話。出典はどこなのだろう。あるいは著者の創作か?それにしても驚くような話である。慶喜は維新後、勝海舟のおかげで、処刑を免れ三十代半ばで静岡で引退生活を送ることになったが、77歳で亡くなるまで趣味の世界に没頭した。和歌・俳句、囲碁・書、能といった伝統的なものから、写真、サイクリング、ドライブまで及んだ。その傍ら、側室のお幸とお信に明治4年から明治21年まで、合わせて20人以上(夭折も多い)を生ませている。17年間で20人以上子供を産ませるとはまさにアンビリーバブル。側室の立場からは慶喜の要求をはねつけることは難しかったと思われるが、毎晩毎晩交代で相手をさせられたらかなわない。慶喜はそれも頓着しなかったのであろう。「妖怪」の本質はここにありと言えそうだ。

 古来独裁者にこのような人間は多いが、慶喜の場合30代半ばで野に下って権力を放棄したので、そのエネルギーを趣味と女性にぶつけるしかなかった。これは国にとって良かったのか悪かった」のか、それはわからない。

オーウエルの薔薇 レベッカ・ソルニット 岩波書店

2023-02-11 11:18:51 | Weblog
 ジョージ・オーウエルは、『アニマルフアーム』や『1984』で有名なイギリスの作家だが、彼の庭師的な側面を取り上げて、「薔薇を植えるオーウエル」というイメージを従来の「オーウエル像」に対置させたものだ。詳細な伝記ではなく、「薔薇」に関する話題や、スターリン支配下における遺伝学論争(植物の)などを交えてオーウエルの周辺を彩っている。作者は、オーウエルが1936年に植えた薔薇を、2017年にウオリントン村のオーウエルの旧宅を訪ねて確認した。そのうえで彼の著作の再読にかかって「もう一つのオーウエル」を見つけたという次第。

 1940年にオーウエルは「仕事以外での私の最大の関心事は庭いじり(ガーデンニング)、特に野菜の栽培である」とアンケートに答えており、実際熱心に実践した。このことに関して著者は、「嘘と虚妄の時代にあって、庭は成長の過程と時の推移、物理学、気象学、水文学(すいもんがく)、生物学といったものからなる王国を自ら学ぶための一つの手立てなのである」あるいは、「食用植物を育てることは一つの試金石になりうるし、言葉の中をさまよい歩いたあとで、正気に返り、自意識の方途にもなりうる」と、作家活動にとっての効用を述べている。オーウエルの著作のディストピアの陰鬱な世界に対峙するのがガーデニングの世界であるという指摘は興味深い。日常生活の細々とした事象に喜びを覚え、それを表明するオーウエルの姿が彷彿とされる。

 著者はさらに進んで、英国の庭が「非政治的空間」ではないことを述べる。イングリッシュガーデンの構造は、綿密な設計の上に配置され管理されたものであり、それをめでる人々の特権ーーそれは共有地の囲い込みの歴史や植民地支配で得られた富に支えられていた。このような庭に立ちそれを絵画にとどめたのがオーウエルの高祖父チャールズ。ブレアである。彼は奴隷労働からなるジャマイカの砂糖プランテーションで財を成した。著者はオーウエル自身が無縁でなかった英国の庭と風景をめぐる因果な歴史も描いて見せる。植民地支配者の末裔であるという慙愧の念はオーウエルの創作活動の原点ともいえるが、彼は『ビルマの日々』の中で主人公のビルマ在住のチーク材商人にこう語らせている。「われわれインド在住の白人連中は、自分たちが泥棒で、つべこべ言わずに泥棒稼業を続けて行くんだと認めさえすれば何とか我慢できるものになるのだが」と。この負い目が後の全体主義批判のエネルギーになっていることは間違いない。

 『アニマルフアーム』や『1984』は全体主義、具体的にはスターリニズム批判であるが、その要点は事実と虚構の区別、真と偽の区別をわかりやすく説明したことにあると著者はいう。さらにオーウエルが成し遂げたたぐいまれな仕事は、ほかの誰もしなかったような仕方で、全体主義が自由と人権にとってのみならず、言語と意識にとって脅威であることを名指し記述したことだという。『1984』のニュースピークの話はまさにこのことを指摘している。本書はオーウエルが愛したガーデニングとオーウエルがもっとも批判した全体主義が不思議な糸で結ばれていることをさりげなく描いて、「オーウエル賛歌」となっている。

 ソ連崩壊後、全体主義国家でいま注視すべきは中国で、『1984』の世界が現実に起こっている。オーウエルが言った事実と虚構の区別、真と偽の区別がつかなくなって国民は混乱の極みに陥っているのだ。このような時代だからこそ「オーウエルを読む」ということが重要だと言えるだろう。