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読書日記

いろいろな本のレビュー

帰艦セズ 吉村 昭 文春文庫

2023-11-25 15:49:56 | Weblog
 本書は短編集で七編の作品で構成されている。いずれも存在感のある人間の諸相が描かれており、読みごたえがある。私は前から吉村氏の小説の愛読者で、大体の作品は読んだと思う。いずれも綿密な調査に基づいて書かれており、浮ついたところがない。本書の作品は太平洋戦争に従軍した兵士の人間模様を描いたものが多いが、改めて戦争の理不尽さが浮かび上がってくる。

 タイトルになっている『帰艦セズ』は橋爪という男が、戦時中に小樽の山中で死んだ巡洋艦・阿武隈の機関兵・成瀬時夫の消息を追いかけるという話。橋爪も成瀬も逃亡兵だったことが味噌で、当時の軍隊の常識からいえば銃殺相当の犯罪者であるが、橋爪は何とか終戦まで生き延びた。成瀬は巡洋艦・阿武隈の機関兵であったが、小樽に停泊中に外出したが、帰艦するときに官給品の弁当箱を紛失してしまい、懸命に探したが見つからず、乗っていた巡洋艦に戻れず、そのまま小樽の山の中に隠れ住み、ひとり飢えて死んだのだった。弁当箱が人間の命と等価だったのである。官給品は天皇陛下から与えられたものであるから、これを失くせば軍法会議にかけられ重罪が課せられる。そのため成瀬は帰艦できなかったのである。この真相を家族に伝えることの是非も大きな問題としてとらえられている。橋爪が息子の死の真相を母親に告げた時の母親の当惑ぶりが目に浮かぶ。事実を知らせないほうが良かったのではないかと橋爪は悩むのだ。

 戦争の悲劇がここにある。勝ち目のない戦争をアメリカに対して仕掛けた日本は、精神力で勝てと国民を鼓舞したが、それが軍隊にも浸透して弁当箱が一兵士の命と等価であるというゆがんだ思考を作り上げた。兵隊は武士と同じで死んで当たり前という非常にゆがんだ思想を作り上げた。太平洋のあちこちの島で繰り広げられた玉砕戦法をはじめ、神風特攻隊など人命軽視の風はここに極まった感がある。この大日本帝国の軍人が、配属将校となって旧制中学に赴任した話が、第四話の「果物籠」である。

 これは吉村氏の体験に基づいていると思われるが、彼が中学生の時、配属将校として赴任してきた井波中尉が厳しい軍事教練で生徒たちを震え上がらせるという話。中尉は生徒に妥協することなく教練を続け離任するが、戦後同窓会に招待される。その時もあの教育は間違っていなかったと反省するところがない。井波中尉にとってあれは間違っていたといえば、自分のアイデンティティーがなくなるので、できなかったのであろう。これが正しいと信じる、一種の宗教のようなものだ。その後、生徒たちに井波の訃報が入る。心臓麻痺で亡くなったのだ。そして生徒の代表が果物籠を持って弔問に駆けつけるという話。大日本帝国を支えた元軍人のあっけない死。何かむなしさだけが残る。

 他の五編も佳作ぞろいで、吉村氏の力量がいかんなく発揮されている。一読をお勧めする。

中国共産党支配の原理 羽田野 主 日本経済新聞出版

2023-11-07 09:01:13 | Weblog
 副題は「巨大組織の未来と不安」で、著者の新聞記者としての活動の中での知見をもとに書かれている。私は本書に先立って『中国共産党 その百年』(石川禎浩 筑摩選書)と『中国共産党 暗黒の百年史』(石平 飛鳥新社)を読んでみた。前者はアカデミズムの中での著作で、あからさまな反共産党の記述は少ない。これに反して、後者は反共産党の言説で満ち溢れている。これは石平氏の履歴を見れば納得できる。彼は北京大学卒業後、民主化運動に傾倒し、来日後日本に帰化して反中国共産党の立場を明確にして、評論活動を行っている。共産党の暗黒の活動と毛沢東をはじめとする幹部の真の姿を暴露して、党の伝説化・神聖化に待ったをかけているという点において貴重だ。特に第五章の『周恩来、美化された「悪魔の化身」の正体』は類書ではあまりお目にかかれないもので、大変面白かった。

 因みに現外相の王毅は周恩来の秘書の娘と結婚しており、その縁で外交部に就職してとんとん拍子に出世した。彼は北京第二外国語大学の出身で、この大学は毛沢東の命令で通訳を養成するために創設された。彼の妻はこの大学の同級生である。大学の格からいうと外交部への就職は難しかったが、先述の縁故で入れたのだろう。コネが幅を利かすという共産党の特質がはしなくも出た感じだ。王毅は日本語科の出身で、日本語はペラペラだ。強硬発言を繰り返して習近平に気に入られ、この度70歳を超えたにもかかわらず政治局員になった。でも今後どうなるかわからない。習近平の気分で、失脚する可能性もある。権力の一極集中は部下を疑心暗鬼に追い込んで、忖度がはびこって政治が硬直化する。習近平はそれをわかっていて、自分から改めることができない。独裁政治の最悪の側面が出ていると思う。

 今の中国共産党は本書でも指摘されているが、結党目的の共産主義の実現はすでに失われ、政権党として君臨することが自己目的化している。体制の維持に汲々とする姿は北朝鮮と変わらない。先日元総理の李克強氏が心臓発作で亡くなったことが判明した時、死因をめぐって様々な憶測が飛び交ったが、それこそ今の共産党に対する市民の評価が表れたものと言えよう。もしかして習近平が暗殺したのではないか云々。李克強氏の旧家に菊の花を手向ける多くの人々の画像は圧倒的だったが、彼を悼む集会等は当局によって禁止されているようだ。天安門事件の轍を踏まないという強い意志を感じる。

 14億の民を一人の独裁者で治めることは所詮無理な話で、彼を取り巻く官僚制と軍と公安の助けが必要だ。独裁者はこれらに日々眼を配り、味方につけておかなければならない、あとは市民生活における自治組織の活用だ。日本における隣組、自治会のようなものが必要になる。本書によれば、中国では「社区」というものがその役割を担っているとのこと。北京市内には3000前後の社区があり、郊外に行くと一回り小さい小区が無数にある。住民によって選ばれた「居民委員会」が社区の運営にあたる。新型コロナウイルスのような問題が起きるとどのような対策をとるべきかを話し合う。そして「居民委員会」を統括するのが「共産党社区委員会」だ。共産党にとって社区は末端組織で、人民を「指導」する最前線となっている。このような人民統制組織は非常に強固で、個人の自由な意見表明は難しくなる。密告等も奨励されたりしたら人民は黙るしかない。加えて定期的に行われるであろうマルクスレーニン主義の学習会に出席を強要されたりしたら本当に嫌になってしまうだろう。利権団体の共産党が、マルクスレーニン主義とは笑わせる。

 この社区の責任者にどのような人物が選ばれるのかということはレポートされていないが、黒社会のやくざ者が選ばれたりしたら大変だ。田舎に行くとやくざと警察が癒着していることが多く、これが中国の暗部になっている。最近も鄭州というところで、レストランに入った女性が地元のやくざに暴行を加えられたにもかかわらず、地元の警察が動かなかったという事例があって批判が殺到した。私もSNSの画像をニュースで見たが、近代国家とは思えない状況が展開していた。都市部と農村部の落差は大きい。このアメーバのような人民統制組織がある限り、共産党の崩壊は難しいのではないかというのが素朴な感想である。

 

ハンチバック 市川詐沙央 文藝春秋社

2023-10-19 10:23:13 | Weblog
 本書は第169回芥川賞受賞作で、作者の市川氏の経歴が話題になった。彼女は、1979年生まれの44歳で、筋疾患先天性ミオパチーという難病(小説のタイトルはこれに由来する)により、人工呼吸器を使用しているために発話に体力を使い、リスクもあるとのことだ。朝日新聞のインタビュー記事によると、病気は幼い時から判明していたが、14歳のとき体調不良のため入院して以来、療養生活という名の引きこもり状態になった。このままではという思いがあり、自分にできることは小説を書くことだと考え作家を目指したとのことである。同時に早稲田大学の通信課程に入り、卒業している。最初は純文学は書けず断念し、女性向けのライトノベルやSF、フアンタジーの賞に20年間応募を続けた。この度本書で、文学界新人賞と芥川賞を受賞した。文章はエッジが利いていて、適度のユーモアもあり、作者の聡明さが窺われる。これは私小説ですかとの問いに、自分と重なるのは30%と答えている。

 小説の主人公井沢釈華は作者と同じ病気で、両親が終の棲家として残してくれたワンルームマンションを一棟丸ごと改造したグループホームで暮らしている。背骨が極度に湾曲しているために常に息苦しく、読書もままならない。「息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたびに私は『本当の息苦しさも知らない癖に』と思う。こいつらは30年前のパルスオキシメーターがどんな形状だったかも知らない癖に」とイラつく。また「このグループホームの土地建物は私が所有していて、他にも数棟のマンションから管理会社を通して家賃収入があった。親から相続した億単位の現金資産はあちこちの銀行に手つかずで残っている。私には相続人がいないため、死後はすべて国庫行になる。(中略)生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりとも溜飲を下げてくれるもではないか?」と健常者にカウンターを浴びせる。この資産の話は30%に入っているのだろうかと興味が湧いた。というのも私は彼女の経歴を知って、少しでも印税が入ればと思って本書を購入したからだ。彼女が知ったら「薄ぺっらい同情なんかするんじゃねーよ。こちとらと金持ってらー」と啖呵を切られそうな気がする。本当なら林家三平じゃないが「どうもすみません」と言うしかない。

  主人公釈華は十畳ほどの部屋から某有名私大の通信課程に通い、しがないコタツ記事を書いては収入の全額を寄付し、18禁TL小説をサイトに投稿し、零細アカウントで「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」と呟く。この項について本文では、貧しい小学校の同級生たちについて「あの子たちのレベルでいい。子供ができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。私はあの子たちに追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった」と書いている。障害者の視点でこのように性的な問題をはっきり述べたのは今まで無かったのではないか。これも健常者に対するカウンターである。障害者にとって一番大事な問題を隠蔽してきたことへの抗議だ。ところがある日、グループホームのヘルパー田中にツイッターのアカウントを知られていたことが発覚する。そこで田中とのやり取りがあって、田中との性行為が展開されるのだが、その部分は割愛。

 この63ページの小説は作者によると「自分としてはせいぜいオートフイクション。重なるのは30%という感覚です」ということだが、障害者の本音をぶちまけたという点で斬新で、物語としても破綻がない。芥川賞の本家、芥川龍之介の作品に通じるエスプリがある。芥川龍之介は短編の名手であるから、芥川賞はこの流れに沿って選ばれていることを改めて確認できた。冗漫な新聞小説ではだめなことははっきりしている。

木挽町のあだ討ち 永井紗耶子 新潮社

2023-09-28 13:26:18 | Weblog
 本書は第169回直木賞作で、今回は垣根涼介氏の『極楽征夷大将軍』とのW受賞である。垣根氏のはまだ未読だが、本書はいかにも娯楽小説という感じで直木賞にふさわしい。読んでいて作為が見え見えという作品は多いが、本書はその作為を意識させないところが良かった。逆に言うと、構成と主題が明確だということだと思う。初出は『小説新潮』に6回掲載されたもので、新聞小説ではないことがポイントである。新聞小説の場合は大体一年間ダラダラと掲載されるので、一日掲載分の原稿では山が作りにくく、細かい細工は読者に忘れられてしまい、これは面白いという作品はなかなかないのが現状だ。

 因みに最近、白石一文氏の『神秘』(講談社文庫)を読んだが、これももとは新聞小説(毎日新聞連載)で長編である。壮大なスケールで描いているのはさすがだが、やはり冗漫さは新聞小説の宿命として残っている。主人公は末期のすい臓がん患者の編集者で、彼がふと電話で知った、不治の病を治すという女性を探すために神戸に移住して、その女性とゆかりの人物に出会って、最後には本人にも出会って同棲するという驚愕のストーリーだ。自分の妻(女医)との出会いと離婚、それを縦軸にしてそれをめぐる人物が横軸に配されて錯綜するが、最後は予定調和的に幕を閉じる。錯綜する人間関係をあらかじめ設定することで、この小説の構成はほぼ終わっているが、これを作り上げた作者の力量は大いに評価されてよいと思うが、これが直木賞や芥川賞の対象になるかと言えば、なかなか難しいのではないか。主人公が末期のがん患者であるにもかかわらず、元気に動き回るさまはなんかリアリティーがないように感じた。

 振り返って夏目漱石の作品も朝日新聞に連載されたものだが、新聞小説のダラダラ感がなくてすっきりまとまっているのはやはり彼の力量のなせる業であろう。一日の分量が今より多かったということもあるであろう。それにしても早く次が読みたいという気持ちを起こさせるのはすごい。

 本書はタイトル通りあだ討ちの話であるが、その「真実」を探るというのがテーマである。あだ討ちの関係者と、彼らを取り巻く芝居小屋の人間の物語を紡ぐことで、あだ討ちの真相が明らかになっていく様は見事というしかない。あだ討ちは殺し殺されという悲惨な結末になるのが普通だが、このあだ討ちはそうではない。実際は読んでからのお楽しみだが、著者の江戸文化に対する蘊蓄も随所に披瀝されていて面白い。本書は267ページで、これぐらいの量であるからエッジも効かせることができるのであろう。今回の芥川賞受賞作『ハンチバック』(市川沙央 文藝春秋)はこれより短い93ページであった。新聞小説はいつまで続くのか。

アイヒマンと日本人 山崎雅弘 祥伝社新書

2023-09-14 13:57:19 | Weblog
 アドルフ・アイヒマンは1939年国家保安本部ゲシュタポ局ユダヤ人課課長となって以降、多くのユダヤ人を強制収容所に送り込み、絶滅計画を実行したが、戦後は数年間ドイツ国内に潜伏した後、アルゼンチンに逃れた。イスラエルの諜報工作機関モサドはアルデンチンに向かい、1960年5月11日に自宅前で拉致しイスラエルに連行した。翌年4月にアイヒマン裁判が始まり12月に死刑を宣告され、1962年6月1日に処刑された。56歳であった。本書はアイヒマンの人生をたどり、アイヒマン裁判の問題点を指摘したものであるが、新書の割には中身が濃い感じがした。これは巻末の主要参考文献を読むとなるほどと納得させられる。これだけの資料にあたれば内容も深くなるというものである。

 ナチスの幹部がアルゼンチンに逃亡する事例が多かったのは、当時アルゼンチンがアメリカとの関係が悪く、ドイツと仲が良かったことに由来するという指摘があったが、私はこの事実を知らなかったので勉強になった。ドイツ降伏後戦犯として行方を追われていたが、モサドに捕まって連行されるまでの15年間の生活が細かく記されていて興味深かった。特にアルゼンチンでの住居の移動の地図や、最後に住んでいたブエノスアイレスの自宅付近での拉致の詳細な地図は労作と言える。
 
 ユダヤ人絶滅政策は、1942年1月20日に行われたヴァンゼー会議で議論された。中身は①移送、②強制収容と労働、③計画的殺害の三点であった。ハイドリヒをトップとして高官15名と秘書1名、そこにアイヒマンもいた。いわばこの絶滅計画の中枢にいたのである。ところがアイヒマンは裁判で私は上官の命令を忠実に実行しただけで、罪はないという趣旨の弁明を繰り返した。軍隊においては上官の命令は絶対で拒否できないという趣旨である。この裁判を傍聴したユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントはアイヒマンを極悪人ではなくごく普通の役人で、彼の仕業を「悪の凡庸さ」がなしたものと表現した。このレポは『イスラエルのアイヒマン』(みすず書房)で読むことができる。これに対してユダヤ人の中から反対の意見が続出し、大きな問題となった。ジェノサイドの主犯が極悪非道な人間ではなく平凡な役人だったというのは納得がいかなかったのであろう。しかし逆に言うとアーレントの指摘は、平凡な市民が悪事の一翼を担う可能性があるということを物語っている。

 このアーレントの指摘を裏付ける心理実験がアイヒマン裁判の後、アメリカで行われた。イェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラムによる、人間の服従心理に関する実験、通称「アイヒマン実験」である。心理実験という触れ込みでアルバイトを募り、その人たちを先生役にし、別の応募者を装った俳優を学習者役に仕立てて実験室に入れる。学習者の手首には電極が繋がれ、記憶力の問題を出して間違ったら電流が流れるスイッチを押すことを伝える。電流の強度は30段階に分かれていて、間違うたびに一段階、強度を上げていく。最も強い電流でも安全で心配はいらないと説明する。ミルグラムが注目したのは、個々の応募者が「どの時点で実験の継続という指示に逆らうか」というものだった。「道徳による明確な訴え(もうやめてくれという学習者の苦悶の叫びへの罪悪感)の中で、人々がどのように権威に反抗するかを調べること」がこの実験の狙いだったのだ。

 結果は予想に反して応募者40人中、26人(65%)が学習者の悲鳴や抗議にも関わらず実験を再度まで継続し、最大電圧のスイッチを押したのだ。普通の個人がとんでもない段階まで実験者の指示に従い続けたのだ。これをアイヒマン裁判につなげると、アイヒマンは「サディスト的な化け物」ではなく、「机に向かって仕事をするだけの凡庸な官僚に近い者」だというアーレントの指摘は的を得ていることになる。「悪の凡庸さ」というのは的を得ている。

 ドイツではこの反省を踏まえて、ドイツ連邦軍の各軍人は「上官の命令には従わな刈ればならない」が、「自身及び第三者の人間の尊厳を侵害する命令」や「国内法及び国際刑法により犯罪となる命令、「職務上の目的のために下されたものではない命令」である場合は、上位者の命令に「従わない」態度を選んでも、不服従の罪には問われないと明記されている。さすがドイツというべき内容で、人権意識の成熟度が違う。アイヒマンの上からの命令に従っただけだという弁明はやはり人権意識の放棄ととるべきだろう。ヒトラーの命令に反抗することは困難を伴うが、それでも唯々諾々ではなく面従腹背の意識をもって一つでも意を唱える行動をすべきであった。

 この「上からの命令問題」は軍隊、警察のみならず、民間の会社でも話題になっている。大手中古車販売店の幹部の理不尽な命令で、どれだけの社員、顧客が涙を飲んだか。内部告発もあったが、それが表に出ることはなかった。つるんでいた損保会社も同類だったことがさらに問題を大きくした。しかし「天網恢恢疎にして漏らさず」の言葉通り、この会社も破産の危機に直面している。おごれるもの久しからずという言葉はは真理に近い。小さな成功体験は人間を傲慢にする。経営者はこの中古車販売会社の失敗を他山の石として、この言葉を肝に銘ずべきだ。

 

囚われの山 伊東潤 中央公論新社・その他

2023-08-22 09:00:21 | Weblog
 「夏休みは読書」というのは学校生活で染みついた習慣だが、これは読書感想文が原因になっている。今は感想文のひな型がネットに出ているので、それを丸写しにする生徒が後を絶たない。よく書けているなと思ったら疑ったほうが良い。間違ってコンクールに出そうものなら、選んだ教員の恥になるので要注意だ。よってこの時代では感想文の宿題は廃止したほうが良い。出版業界からすると嫌な話だが。因みにバーナード・マラマッドの小説に「夏の読書」というのがある。ニューヨークの下町に住む19歳のジョージ少年が近所のカタンザラ氏に夏の間に100冊の本を読んで教養をつけると豪語したもののそれがなかなかできなくて、、、、、という展開なのだが、なかなかいい小説だ。このように夏と読書は親和性があるのだ。

 夏は文庫本が大量に出版されて書店の売り場はにぎわっている。多いのは2~3年前のハードカバーの旧版を文庫にしたものだ。よく見ないと丸まるの新刊かと間違ってしまう。『囚われの山』もその中の一つで、1902年(明治35年)1月に八甲田山での日本陸軍の雪中訓練で参加者210名中199人が死亡するという、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故を扱ったものだ。この事件については夙に『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫 1978)があり映画にもなった。本書はこの事件の謎を推理小説にしたもので、結構よくできていると思う。文庫本は表紙の絵が素晴らしくて販売に寄与していると思ったが、私は図書館で旧版を読んだ。もとは「中央公論」に一年間連載されたものだが、新聞小説の冗漫さがないところが良かった。

 新聞小説のダラダラ感が目に付いたのが、『灯台からの響き』(宮本輝・新潮文庫)だ。これも旧版を文庫化したものだが、買って読んだ。今は亡き妻が30年前に高校生から受け取ったはがきの謎を解明すべく全国を駆け回るという話であったが、新聞小説特有の冗漫な感じが否めない。新聞一日分に山あり谷ありの中身を入れるのは困難で、どうしても一週間のスパンで見ていく必要があるのだが、この小説の場合、結論が単純なので一年間持たせるのは大変だったろうと思う。よって主人公の身辺雑記的な記述が多くなり、冗漫になるのだ。芥川賞作家であるが、いつも高水準の作品を生み出すのは難しいという気がした。

 最後は同じく芥川賞作家、吉田修一の『湖の女たち』(新潮社)について見てみよう。これも『囚われの山』同様、旧版で読んだが、芥川賞選考委員だけあって壮大なスケールで描くミステリーという感じだ。琵琶湖に近い介護用老施設で、百歳の男が殺された。事件を追う刑事と、施設で働く女。二人はどろどろの関係に突入する。一方、週刊誌記者は、死んだ男の過去に導かれ、旧満州・ハルピンにたどり着き、731部隊に、、、、。「欲望も涙も罪もすべて、湖が吞み込んでいく」という惹句が最後の結論で、人間のはかない営為は自然の中に消えていくという文学的な収斂の仕方がすごい。介護施設における殺人、警察の腐敗の実体、昨今の男女関係の事情、旧満州における日本軍の犯罪、これだけの内容を盛り込んで一編の作品にまとめるとはさすがである。ただ介護施設の女性が、捜査担当の刑事に強引に手籠めにされる体の描写は生理的にいやだと感じる読者がいるのではないか。それでもストーリーテラーとしての才能はすごいと感じた。

 夏の読書は小説とばかり、今は白石一文の『秘密』(講談社文庫)を読んでいる。それにしてもこの酷暑、皆さんご自愛ください。

チャンバラ 佐藤賢一 中央公論新社

2023-08-08 09:13:21 | Weblog
 本書は宮本武蔵の決闘場面を十回に渡って描いたもの。そのうち一つは父の新免無二のものである。中身は題の「チャンバラ」が示す通り、殺陣の台本のようで今まで見なかったものだ。氏の作品は『小説フランス革命』をはじめとして西欧の歴史小説が主流だったが、ここにきて日本の歴史もの、それも宮本武蔵の決闘場面に特化している点が大変興味深い。決闘相手は順に、有馬喜兵衛、秋山新左エ門、吉岡清十郎、吉岡伝七郎、吉岡一門、宍戸又兵衛、佐々木小次郎、新免無二で、中に吉弘加兵衛と井上九郎右衛門のものが入っている。

 吉岡一門との闘いは、一乗下り松の決闘と言われるのもので、100人相手にこれを制したことで有名である。武蔵はあらかじめ下見をして敵の背後から襲い切りまくった。映画「用心棒」で三船が演じた殺陣のようで痛快極まりない。武蔵はこのように戦略を立てて闘った。これでなくては連戦連勝とはいかないであろう。なかでも宍戸又兵衛は鎖鎌の使い手で、これは厄介な相手である。分銅をブンブン回して相手の刀に絡みつかせ、それを引き寄せて持っている鎌で殺すという恐ろしい戦法である。著者はこれをまるで映画のように描いて見せる。なかなかの力量だ。著者に剣道の心得があるのか、あるいは殺陣の先生の指導を受けたのかもしれない。全般的に剣の素人では書けない描写がたくさんあった。

 宮本武蔵と言えば佐々木小次郎との巌流島の決闘になるが、この編には、小説的潤色が施されていて面白く読めた。武蔵の恋人に雪という女性がいて、将来は結婚という予定だったが成立せず、二人は別れるがその時、雪は妊娠しており、その後佐々木小次郎と結婚する。小次郎は生まれた男の子(小太郎)を大事にするという度量を見せていた。そのうえでの決闘である。また小次郎は小倉藩の剣術指南役であったが、小倉藩を支配する細川家にとって不安定要素だったので、決闘を排除の好機とみていたという裏事情が語られる。その中での決闘である。それまでして命のやり取りをする必要があるのかという問題が浮かび上がる。これが武士道か剣の道か。

 その疑問は最終章、「宮本武蔵と新免無二」で最高潮に達する。なんと親子で決闘するのだ。この決闘に勝利した武蔵は己の兵法を打ち立てることを決意する。「今度こそ本物を立てるのだ。それこそ万人に誇れるもの、後の世にまで遺せるものを立てるのだ。ーーーしかし、、、、、」と。しかし以下の、、、、、が余韻を含む。その後、武蔵は13歳になった小次郎の遺子小太郎に遭って、真剣勝負を挑まれる。因果は巡り巡って、、、、。剣に命をかけるとは、これを人生と言って良いのだろうか。江戸時代初期のまだ戦国の遺風の中での武士の生き方は甚だ不可解なものとして現代人に訴えかける。剣が哲学になる前の人殺しの道具として存在感があった時代である。まさに戦場の中の生と言ってよい。この緊張感は現代人にはない。

レッド・ルーレット 私が陥った中国バブルの罠 デスモンド・シャム 草思社

2023-07-17 10:05:07 | Weblog
 今中国共産党は岐路に立たされている。コロナ禍による経済不況とそれに伴う就職難、人民の生活は厳しいの一点。にもかかわらず独裁者習近平に対する忖度による誤った外交・内政がさらに人民に塗炭の苦しみを強いる。その人民の不満をそらすために、中国は福島原発処理水の海洋放出に対して、「汚染水」と呼んで反対し政治問題化すべく、A.S.E.A.N.会議で取り上げさせようとしたが失敗した。このA.S.E.A.N.に出席したのが元外相で現政治局員の王毅だ。相変わらず強気の発言で、「汚染水」を飲料水にして飲んだらどうだとしょうもないことを言っている。この男本来なら引退する年齢(70歳)だが、戦狼外交の旗手として活躍したことが習近平に気に入られて政治局員になった。忖度の成果が出たわけである。A.S.E.A.N.には本来なら外相が出席するのだが、外相の秦剛はこの二週間余り消息が不明だ。台湾のメディアは不倫問題で取り調べを受けていると報道したが、中国外交部は体調不良と報じるのみで、詳しい説明はない。この前まで元気そうな姿が報じられていたが、一体どうしたのだろう。一説に習近平の逆鱗に触れたという観測もある。だんだんと北朝鮮化しているではないか。

 本書の著者デスモンド・シャムは1968年上海生まれ。親は教員で9歳の時香港に移住し、その後アメリカのウイスコンシン大学で金融と会計学を学び、1993年に卒業、香港に戻って株式仲買人となる。その後妻となるホイットニー・デュアンと出会い、共同で都市事業開発に乗り出す。二人は、改革開放の好景気に乗って、北京空港の物流センターや北京中心部の再開発などの事業を成功させ、莫大な資産を築く。現在はホイットニーと離婚し、一人息子とイギリスに在住。以上が巻末の著者略歴である。因みに元妻は2017年北京の事務所から拉致され拘束され、いまだに消息不明とある。習近平の腐敗一掃の渦中に放り出されたのだ。著者もこの影響でイギリス移住を余儀なくされた。本書は中国におけるサクセスストーリーであると同時に転落のストーリーでもある。この原動力になったのが中国共産党の政治体制である。

 まず著者の出自であるが、両親は中国が貧しい頃に育ち、特に父は国に信用されない身分の家の子供だったとある。これは元農民だったという意味なのかよくわからないが、節約してコツコツと貯蓄し、一生懸命働くことでようやく中産階級に入れたようだ。まさに階級社会、共産党の幹部の子供は優遇されるのも納得できる。このような社会でビジネスで成功するには極上のライフスタイルを演出することが大切というのが著者と妻の持論だった。著者曰く、「中国で最大級の取引をしたいなら、力のない人間だと思われてはいけない。誰が無力な相手と一緒に仕事をしたがるだろうか?見栄を張るのもゲームの一部なのだ。妻はいつも挑発的な態度をとっていたが、これは卑しい出自のせいである。どこかに、自分が見下されているのではないかという不安があるのだ。彼女は『世の中を見返す』ために戦っていた。妻にとって、車や宝石や美術品は世界に立ち向かう勇気を与えてくれるものであり、人々の冷笑に対する防御壁だった」と。共産党の厳しい階層性が人民を苦しめるという実例として腑に落ちる話である。学歴競争をはじめこの国の生存競争は厳しい。その不満をどう和らげていくか、体制批判に向かわないようにする方策を提示するのが政権の課題だ。

 人を見返すために成功する、その手段として必要なのは誰と「関係」(グワンシ)を結んでいくかということである。そのコネと金を使って階段を上っていく様子が詳細に書かれている。高級官吏から下っ端の役人まで、とにかく彼らは自分の権力をフルに使って収賄する。コネ社会と言われるゆえんである。本書では、これが政治局員レベルで行われていることを詳述している。例に上がっているのは温家宝元首相の妻と著者の妻の「関係」である。著者の妻は温家宝の妻と懇意で、彼女の助けを借りて許認可を融通してもらい、お互いウインウインの関係を築いたことが書かれている。温家宝については在任中から家族が蓄財に励んでいるといううわさが絶えなかったが、本当だった。温家宝自身は蓄財に直接かかわらなかったようだが、これを見ても共産党幹部の腐敗は底なしだ。習近平は腐敗一掃キャンペーンを掲げて違反者を牢屋にぶち込んでいるが、これは政敵打倒の方便に過ぎないと喝破している。これで習近平は3期目を実現したのだ。彼の一族も不正蓄財をやっていることは間違いない。それがばれるのがヤバいので権力の座から降りられないのだという見立ても成り立つ。その習近平がマルクス・レーニン主義をしっかり学習させよと言っているが、噴飯物である。本人がマルクスやレーニンの書物を読んだかどうかは疑わしいのだから。

 この異形の大国相手に外交を展開するにはそれなりの有識者を集めて戦略を練ることが必要だ。とにかく相手に見下されないようにしなければ。相手は見下すのが得意なのだから。その点で垂秀夫中国大使の毅然とした態度・発言は立派だ。林外相も見習ってほしいものだ。

茗荷谷の猫 木内昇 文春文庫

2023-07-08 14:13:43 | Weblog
 本書は幕末から昭和にかけて生きた名もなき市井の人々を描いた九編の短編からなる小説集だ。舞台が、巣鴨、品川、茗荷谷、市谷、本郷、浅草、池袋、池之端、千駄ヶ谷で、江戸~東京の風物詩という感じ。本書の腰巻に第八編の「手のひら」が2011年のセンター試験の追試問題に出題されて、過去問を解いた受験生を感動させたと宣伝しているので読んでみた。

 時代は昭和三十年代の東京、夫と二人暮らしの佳代子は田舎から上京してくる母と二年ぶりの再会を果たし、銀座、浅草、日本橋を案内する話。田舎の親を東京に呼んで案内するという話はたくさんあり、特に珍しくはない。たいてい親の都会慣れしない言葉や動作が、呼んだ息子や娘の羞恥心を表面化させるという設定だ。黒島伝治の小説や、小津安二郎の「東京物語」などを例として挙げることができる。子供もほんの少し前まで田舎者だったが、二、三年の都会生活ですっかり田舎者を上から目線で見るようになるのが面白い。

 センター試験追試の問題は、娘の佳代子と母のやり取りを心理的に分析して正しい選択肢を選ばせるという趣向である。田舎者の母と元田舎者の娘の心理的葛藤を読み取るわけだが、基本はわかりやすいので、逆に設問の仕方が難しい。第一問は、東京見物の前日、娘の家で娘の夫と食事しているときに、母がカエルの鳴くようなゲップをしたことについて。「母は愕然とした様子で口を押え、それから黙ってうつむいた」とあるが、この時の母の内面についての説明で最も適当なものを選べというもの。正解は「食事中にゲップをするという若い頃には決してしなかったはずの不作法が自分のことながら信じられず、娘夫婦の手前いたたまれなさを感じている」で、これはまあできるだろう。

 第二問は、母親がちびた下駄を履いていたので、新しいのを買い替えてあげようという娘の申し出を勿体ないと断り、甘味処で休みましょうという申し出も断ってしまい、一人で娘の昔話に興じる記述に続く「ちびた下駄の音がからからと空疎だった」についての設問。この「下駄の音」に対して佳代子はどのような感慨を抱いているかを選ばせるもの。これは難しい。正解は「人々の価値観のずれや老いをあらわにしてしまう東京に響く下駄の音に寂しさを覚え、東京を案内して母親を喜ばせようとする自分の思いが届かず、屈託なく昔話をする母の気持ちとの食い違いをかみしめている」である。「からからと空疎」をどうとるかがポイントか。

 第三問は、翌日上野公園の不忍池に行く場面。母は外食は勿体ないからと、おにぎりと日水のソーセージを二本包んで出かけたが、途中で通行人にぶつかり、ソーセージがポロリと風呂敷包みから落ちてしまった。これで佳代子の怒りが爆発、「そんなちびた下駄履いてちゃダメじゃない!こんなところでおにぎりなんか、みっともないんだわ」 佳代子は大声で泣きだしたかった。この小説の山場である。ここで「母を責める言葉が、止まらなかった」の部分について、佳代子の内面にの説明として適当なものを選べ、という設問。正解は「母をもてなそうとする思いが空回りしてしまい、意思疎通がうまくいかない状況へのいらだちを募らせる一方、佳代子は都会で暮らす歳月の中で変わってしまった自分と置いた母との関係を適切に結びなおすことができず、この事態に対応するすべを見いだせないまま混乱した感情を抑えられないでいる」で見事にこの小説の主題を言い当てている。

 あとは割愛するが、センター試験の作問は相当の技量が求められるが、よくできていると思う。廃止されたのは残念というしかない。

ヘヴン 川上未映子 講談社文庫

2023-06-22 14:27:56 | Weblog
 川上未映子は今や日本を代表する作家だといえる。2021年の『夏物語』(文藝春秋)、2023年の『黄色い家』(中央公論新社)は長編ながら一気に読ませる面白さをもっている。それは『夏物語』のように大阪の京橋をモデルにした下町感覚が文章に投影されているからだろうと勝手に推測している。今回の『ヘヴン』は2022年英国「ブッカー賞」ノミネート作品で、受賞はならなかったが、2012年の初版時に芸術選奨文部科学大臣新人賞と紫式部文学賞のダブル受賞を果たしている。扱っているテーマは「いじめ」の問題だ。

 いじめは人間以外の動物にもまま見られる現象で、ニワトリや犬の仲間が有名だ。オオカミなどは階級社会を形成していて上下関係が厳しく規定されている。下層の個体は「アンダードッグ」と言われ、いじめの対象になる。これを抜け出すのは容易ではなく、何年間か耐えて次のが来てやっと抜け出せる。アフリカのサバンナに生息する野生の犬・リカオンやハイエナもメスをリーダーとして階層社会を形成して生活しており、下層の個体に対するいじめは存在する。ひどい場合にはこれを殺して食べてしまう例も報告されている。

 これらの野生の動物を見ると、「いじめ」ることは本能的にインプットされており、それをしてはいけないという風には思っていない。彼らにはいじめに対する善悪の判断はないということだ。厳しい生存競争を生き抜くためには必要なものという位置づけなのだろう。しかし人間社会ではこれを善悪の問題としてとらえて議論することが求められる。曰く、いじめはあってはならないと。しかし、いじめはなかなかなくならない。野生動物と同様に。この難しい問題を扱ったのが、本書である。

 主人公の「僕」は中学生でいじめを受けている、同級生の女子生徒「コジマ」も同様にいじめられている。なぜいじめられるのか、身体的には「僕」は斜視であること、「コジマ」は汚い服装であることがあげられる。このように他と違う外見は異端として攻撃を受けやすいことは理解できる。その中で二人はいじめられることを通して心を通じ合っていくことが本書の核心部分である。ここに救いがあるという作り方をしている。二人は学校に被害を訴えることはしていない。いじめのボスは二ノ宮という男子生徒で、理不尽な所業を子分と繰り返すが、その語り口は子供のそれでなくて大人のものだ。ある時「僕」は二ノ宮の子分の「百瀬」という男子生徒に、どうしてこのようなことをするのかと聞く。すると百瀬は「別に深い意味はない」と答える。この場面を読んでいて、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の場面を思い出した。イワンとアリョーシャのキリスト教をめぐる対話の場面である。ここに作者のいじめに対する考察が集約されている。

 「僕」と「コジマ」は最後に二ノ宮から雨降る公園で、セックスしろと脅されるが、この時の「コジマ」の対応が鬼気迫るもので、まさにキリストの降臨という感じだ。これで二ノ宮は気圧されて逃げていく。二人はその後学校に報告し、「僕」は斜視の手術を受ける決心をする。これでいじめがなくなるかどうかはわからない。しかしやらないよりはましかも知れない。野生動物のように善悪の判断なしに攻撃して来る者に対しては、こちらも遠慮せずやり返すというのが基本で、毅然として対応することが必要だ。「動物的攻撃には動物的反撃を」これが案外生き抜く術になるかも知れない。