ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ひとの一生

2022-08-08 08:36:29 | 日記・エッセイ・コラム
ひとの一生とはどんなものだろう。
おぎゃ~と声を上げ生まれてきて、
少し成長し赤ちゃんが稚児になる。
そして少年少女になり青年になり、
成人になり熟年になり老人になる。
そして終にはもといた場所に帰る。
しかしてその場は、
ときに生きていた場に同じ、
様子が変わるだけ。
・・・・・
この「ひとの一生」は「人類の一生」にも通ずる。
あの恐竜らも滅びたように、
人類もいつの日にか滅びる。
このことは考えたくないが、
たぶん逃れられないだろう。
でも生命の永遠性はゆるがない。
この大宇宙の中で保たれる。
このこと疑う余地なし。
そこで想うのです、
人類の一生はひとの一生に同じだと。
ヒトが言葉を持ったのは、
赤ちゃんが言葉を覚えるに同じと。
分からないのはその切っ掛けだけ。
赤ちゃんは周りの人々の言動が切っ掛けだが、
ヒトはそこがまったく分からない。
でも状況は似てると。
ときにその言葉に嘘はない。
つねに現実を投影している。
同時に情操も膨らまされる。
しかして人間の骨格が出来上がる。
それが三才頃だと。
日本では三才の稚児には神が宿るとか。
ときに未だ神に近しと言うことだろう。
これは人類でいえば神話時代だろうか。
しかして子供は言葉を持てば、
やがて嘘を覚える。
その嘘は嘘と言うより方便かと、
そこに悪意は余りない。
そしてやがて覚えてしまう、
本当の嘘を。
だからである、
ここに幼児教育の重要性があり、
それに情操教育の重要性も。
言葉を「まこと」とするために。
「三つ子の魂百まで」である。
・・・・・
ここに綾がある。
先にも言ったが、
日本では三才の稚児には神が宿ると。
そしてときの思いを大切にかかえる。
欧米では、
ときに獣でしかないと。
言葉を持って、
それも自分を画する言葉を持ってこそと、
つまり自我を持って初めて人間になると。
だから主張が日常に。
だから策略や駆け引きが得意に。
そこに方便が入るのは当然だが、
それが嘘に変わるのもまた当然。
それでも根には信仰という盾が。
それもこれも文化となる。
最期はどうだろう。
日本では歳を重ねれば神に近づくと、
そして最期は神に還ると。
なら欧米では?
ときに最後の審判を受けるとか。
ならどこまでも人のままなのか。
最初が獣なら最後も獣か、
そうは考えてなさそうだ。
どこまでも人なのだろう。
まあよく分からない。
ちなみに、
シナ・朝鮮はどうだろう。
初めは皆赤ちゃんである。
そこから大人になる。
そこは違わない。
言葉を覚える過程も同じだろう。
でもそこに神話がない。
神話が醸しだす想い入れが。
そしてどこまでも即物的である。
それ苛烈な現実を生きてきたからか。
しかして最期は如何に。
虚(無)にかえるのか。
虚に生きた結果として。
ゆえにか、
人間存在への共振共鳴に欠けている、
生命全般への共振共鳴に欠けている、
それを持っているようには見えないのだ。
それが中華思想の本質なのか。
なら余り関りたくない。
・・・・・
私は世界を知らない。
ほんの少し知っているだけ。
あくまでその限りでのこと。
想えば日本人の心根は神話にある。
そこでは、
神世と人世は繋がっている、
切れ目がないのです。
天皇家の祖先は神様だし。
氏神を祀ってるのも同じ。
それに人だけでなく、ときに他のものらも。
すべからく霊を祀っているのです。
私の言葉で謂えばそれは存在の波動とでも。
しかしてヨハネの言葉にあやかれば、
それは実に神そのものだと。
だからかこの日本を、
柿本人麻呂は「言霊の幸はふ国」と言い、
北畠親房は「大日本は神国なり」と記し、
アインシュタインには、
「人類に日本という国を作っておいてくれたことを神に感謝する」
と言わしめ、
また歴史家トインビーは、
「神話を忘れた民族は100年以内に滅ぶ」と言ったとか、
ことほど左様にである。
左様に、
左様に、

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