祈りである。
これは、もう、とうぜん、もちろん、祈りである。
改元のことです。
これは節目であり、区切りである。
時と謂う曖昧なものに節目を付け、区切りを付けるのです。
そして心魂を一新する。
心中に新しい風が吹き、行動に変化を及ぼす。
良き時代を期して。
これこそが「まつりごと」である。
時代を創る「まつりごと」である。
元号があるのはまことに素晴らしい。
今回は特にそう思うのです。
奉祝の中で行えるから。
・・・・・
元号は概ね漢字2文字である。
考えてみれば漢字はもとは外国(漢というシナ王朝)の文字である。
それを使っているのです。
勿論元号だけにではない。
そも文字がなかったので借用したのだ。
固有の文字が有ったと言う人もいるが、
今のところ私はそれを確認していない。
まあ便利に使っているのだ。
ところで、漢字は字画が多いので本当は書くには厄介である。
それでも喜んで使っている。
形から意味が取れるのが良いのだろう。
今でいうならアナログとでも謂うのか。
見た瞬間に心に響くのです。
当時はデジタルという発想はなかったろうし。
それに、そこからひらがなとカタカナを創ったのです。
音を表わす文字として。
そして今の漢字かな混じり文です。
これがまた凄いのです。
デジタルではないので文字を追わなくても意味が取れる。
行全体を一目見て概ね意味が取れるのです。
優れものなのである。
欠点は覚える文字数が多いことです。
それがまた知力を鍛えることになる。
まあ好循環です。
・・・・・
ところで、
漢字の成り立ちを研究している人がいる。
日本では白川静という先生が有名である。
説文解字という著作を残している。
同題の本がその昔のシナでも書かれている。
それが最も古い研究本かも知れない。
だが当時のシナでは甲骨文字が知られていなかった。
白川先生はその甲骨文字から出発している。
だから先のシナのものとは少し様子が違う。
そも甲骨文字は占いから発生している。
難しい問題が起これば、それを神に問うたのである。
亀の甲やシカの骨などを焼いて。
その割れ方を見て、神のお告げとしたのだ。
そして問題の解決にあたった。
これはまさに祈りである。
その一連の有様が儀式である。
祈りの儀式である。
それを研究した先生は、
漢字の成り立ちはすべて祈りの儀式に由来すると、
そう捉えたのである。
つまり漢字とは祈りの呪具であったのだ。
私はその説に納得してしまった。
だからのこの件である。
元号とは祈りなのです。
まったき祈りなのです。
・・・・・
ちなみに、日本では漢字を大事にしている。
書道も結構盛んである。
そも画数の多い文字なのだが、
それを慎重に簡略化している。
もとの雰囲気を壊さないようにしているのだ。
さらに大事にしている国がある。
台湾である。
ところで、本家のシナはどうもいけない。
元の字が分かりづらいものが多いのです。
記号(デジタル)化し過ぎのようである。
それにひらがなカタカナのないシナでは、
記号化すれば読みづらいのだ。
読めない私が言うのも何だが。
だから今のシナの漢字には祈りが感じられない。
本来祈りの呪具だったのに。
昔のシナはもとより祈りの国だった。
今はその欠片もない。
自分を顧みることを忘れて、他人を押し退けるばかり。
それを中華思想とか言っている。
おまけに(宗教を否定する)共産主義である。
もう完全に干からびている。
でもそこに住んでる人達にはそれが分からない。
それで良しとしている。
哀れである。
・・・・・
他人のことはほっとこう。
忠告しても文句を言われるだけである。
にしても元号のある日本は素晴らしい。
祈りが満ちている。
祈りが満ち満ちている
有難いことである。
まことにまことに。
これは、もう、とうぜん、もちろん、祈りである。
改元のことです。
これは節目であり、区切りである。
時と謂う曖昧なものに節目を付け、区切りを付けるのです。
そして心魂を一新する。
心中に新しい風が吹き、行動に変化を及ぼす。
良き時代を期して。
これこそが「まつりごと」である。
時代を創る「まつりごと」である。
元号があるのはまことに素晴らしい。
今回は特にそう思うのです。
奉祝の中で行えるから。
・・・・・
元号は概ね漢字2文字である。
考えてみれば漢字はもとは外国(漢というシナ王朝)の文字である。
それを使っているのです。
勿論元号だけにではない。
そも文字がなかったので借用したのだ。
固有の文字が有ったと言う人もいるが、
今のところ私はそれを確認していない。
まあ便利に使っているのだ。
ところで、漢字は字画が多いので本当は書くには厄介である。
それでも喜んで使っている。
形から意味が取れるのが良いのだろう。
今でいうならアナログとでも謂うのか。
見た瞬間に心に響くのです。
当時はデジタルという発想はなかったろうし。
それに、そこからひらがなとカタカナを創ったのです。
音を表わす文字として。
そして今の漢字かな混じり文です。
これがまた凄いのです。
デジタルではないので文字を追わなくても意味が取れる。
行全体を一目見て概ね意味が取れるのです。
優れものなのである。
欠点は覚える文字数が多いことです。
それがまた知力を鍛えることになる。
まあ好循環です。
・・・・・
ところで、
漢字の成り立ちを研究している人がいる。
日本では白川静という先生が有名である。
説文解字という著作を残している。
同題の本がその昔のシナでも書かれている。
それが最も古い研究本かも知れない。
だが当時のシナでは甲骨文字が知られていなかった。
白川先生はその甲骨文字から出発している。
だから先のシナのものとは少し様子が違う。
そも甲骨文字は占いから発生している。
難しい問題が起これば、それを神に問うたのである。
亀の甲やシカの骨などを焼いて。
その割れ方を見て、神のお告げとしたのだ。
そして問題の解決にあたった。
これはまさに祈りである。
その一連の有様が儀式である。
祈りの儀式である。
それを研究した先生は、
漢字の成り立ちはすべて祈りの儀式に由来すると、
そう捉えたのである。
つまり漢字とは祈りの呪具であったのだ。
私はその説に納得してしまった。
だからのこの件である。
元号とは祈りなのです。
まったき祈りなのです。
・・・・・
ちなみに、日本では漢字を大事にしている。
書道も結構盛んである。
そも画数の多い文字なのだが、
それを慎重に簡略化している。
もとの雰囲気を壊さないようにしているのだ。
さらに大事にしている国がある。
台湾である。
ところで、本家のシナはどうもいけない。
元の字が分かりづらいものが多いのです。
記号(デジタル)化し過ぎのようである。
それにひらがなカタカナのないシナでは、
記号化すれば読みづらいのだ。
読めない私が言うのも何だが。
だから今のシナの漢字には祈りが感じられない。
本来祈りの呪具だったのに。
昔のシナはもとより祈りの国だった。
今はその欠片もない。
自分を顧みることを忘れて、他人を押し退けるばかり。
それを中華思想とか言っている。
おまけに(宗教を否定する)共産主義である。
もう完全に干からびている。
でもそこに住んでる人達にはそれが分からない。
それで良しとしている。
哀れである。
・・・・・
他人のことはほっとこう。
忠告しても文句を言われるだけである。
にしても元号のある日本は素晴らしい。
祈りが満ちている。
祈りが満ち満ちている
有難いことである。
まことにまことに。