場に生きる日本人は言葉をそのように使ってきた。
俗に日本語は主語が表示されないことが多いと言われる。
明治以降の日本人はそれを主語の省略だと言う。
学校教育ではそう指導してきた。
欧米の知識を取り入れた時、そこを誤解してしまったのだ。
主題(場)に言及するのを旨とする日本語は、
主語を表示しないのは当然で、
主語を入れれば場が霞んで特定の行動のみが強調されるが、
それは欧米の個人主義にはふさわしいが、
日本語にはそぐわないのである。
ゆえに私などという人称が出てきても、
それは主語ではなく場の一部として敢えて明示するだけで、
だからこそ表示されないことが多いのだ。
人称は時に助長でしかなくなるのが日本語である。
勿論場ではなく人を強調するときは、
そのように表現する方法はある。
ついでだが、
だから昨今の英語教育の推進は危険であり、
先ず日本語(国語)をしっかり学ぶことだ。
そして、違いを知ったうえで外国語を学べばいい。
・・・・・
日本は天皇が知ろしめす王国である。
だが所謂ピラミッド型社会ではない。
天皇は三角形の頂点に坐すのではない。
円環(輪)の中心に坐すのである。
上下関係ではなく、平明な輪(和)の世界である。
その中心に坐すということだ。
それが日本(という場)である。
私が在るのは、私一人の力ではない。
場が在ってこそである。
そんな当たり前を旨としているのだ。
だから自分を大事にするとは、場を大事にすることでもある。
場とは父母兄弟友達他すべての人々であり、
山川草木など自然のすべてである。
だから日本では我(が)が突出するのを嫌う。
我は所詮場あってのものだから。
勿論我は当然にあるもので、それ自体悪いものではない。
我の出し方が問われるだけである。
自己主張が苦手な訳である。
・・・・・
天皇は頂点ではなく、中心の在られる。
だから命令はしない、示すのみである。
それは歌で、それはお言葉で、そして行動で。
あくまで示すのみである。
その根底にあるのは祈りです。
場にある国民ひとり一人の幸せを祈るのです。
祈り続けるのです。
だからである。
戦前も今も日本に覇道はない。
どこまでも王道なのです。
天皇に私はない、いつでも天皇である。
すごいことだ。
尋常の技ではない。
こんなことは普通の人にはさせられない。
金や地位・名誉、徳などで計れるものではないのだ。
昨今は女性天皇とか女系天皇とかで喧しいことだが、
まことに胡乱なことである。
天皇の所以は男系・男子による万世一系である。
男系の女性も過去にはあるが、これはあくまで一時しのぎである。
天皇の本意は祈り続けることです。
ここが肝要である。
女性にはできないのだ。
もっと大事なことがあるから。
それは命を繋ぐことである。
この大事をないがしろにしては祈りも意味がなくなる。
だから男性なのである。
女性が立つ場合は、その大事から遠ざかざるを得ない。
一時しのぎの所以である。
・・・・・
勘違いしないでほしい。
これは男が上で女が下と言うことではない。
勿論その逆でもないが。
どこまでも対等なのだ。
天皇と言われるのは確かに一人だけだが、
天皇が在るのは皇后あってのものである。
両者そろってこそである。
知っての通り、陛下と呼ばれるのはお二人おられる。
天皇陛下と皇后陛下である。
ここに意味があるのです。
俗に日本語は主語が表示されないことが多いと言われる。
明治以降の日本人はそれを主語の省略だと言う。
学校教育ではそう指導してきた。
欧米の知識を取り入れた時、そこを誤解してしまったのだ。
主題(場)に言及するのを旨とする日本語は、
主語を表示しないのは当然で、
主語を入れれば場が霞んで特定の行動のみが強調されるが、
それは欧米の個人主義にはふさわしいが、
日本語にはそぐわないのである。
ゆえに私などという人称が出てきても、
それは主語ではなく場の一部として敢えて明示するだけで、
だからこそ表示されないことが多いのだ。
人称は時に助長でしかなくなるのが日本語である。
勿論場ではなく人を強調するときは、
そのように表現する方法はある。
ついでだが、
だから昨今の英語教育の推進は危険であり、
先ず日本語(国語)をしっかり学ぶことだ。
そして、違いを知ったうえで外国語を学べばいい。
・・・・・
日本は天皇が知ろしめす王国である。
だが所謂ピラミッド型社会ではない。
天皇は三角形の頂点に坐すのではない。
円環(輪)の中心に坐すのである。
上下関係ではなく、平明な輪(和)の世界である。
その中心に坐すということだ。
それが日本(という場)である。
私が在るのは、私一人の力ではない。
場が在ってこそである。
そんな当たり前を旨としているのだ。
だから自分を大事にするとは、場を大事にすることでもある。
場とは父母兄弟友達他すべての人々であり、
山川草木など自然のすべてである。
だから日本では我(が)が突出するのを嫌う。
我は所詮場あってのものだから。
勿論我は当然にあるもので、それ自体悪いものではない。
我の出し方が問われるだけである。
自己主張が苦手な訳である。
・・・・・
天皇は頂点ではなく、中心の在られる。
だから命令はしない、示すのみである。
それは歌で、それはお言葉で、そして行動で。
あくまで示すのみである。
その根底にあるのは祈りです。
場にある国民ひとり一人の幸せを祈るのです。
祈り続けるのです。
だからである。
戦前も今も日本に覇道はない。
どこまでも王道なのです。
天皇に私はない、いつでも天皇である。
すごいことだ。
尋常の技ではない。
こんなことは普通の人にはさせられない。
金や地位・名誉、徳などで計れるものではないのだ。
昨今は女性天皇とか女系天皇とかで喧しいことだが、
まことに胡乱なことである。
天皇の所以は男系・男子による万世一系である。
男系の女性も過去にはあるが、これはあくまで一時しのぎである。
天皇の本意は祈り続けることです。
ここが肝要である。
女性にはできないのだ。
もっと大事なことがあるから。
それは命を繋ぐことである。
この大事をないがしろにしては祈りも意味がなくなる。
だから男性なのである。
女性が立つ場合は、その大事から遠ざかざるを得ない。
一時しのぎの所以である。
・・・・・
勘違いしないでほしい。
これは男が上で女が下と言うことではない。
勿論その逆でもないが。
どこまでも対等なのだ。
天皇と言われるのは確かに一人だけだが、
天皇が在るのは皇后あってのものである。
両者そろってこそである。
知っての通り、陛下と呼ばれるのはお二人おられる。
天皇陛下と皇后陛下である。
ここに意味があるのです。