ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

王の道

2018-05-14 13:35:59 | 日記・エッセイ・コラム
場に生きる日本人は言葉をそのように使ってきた。
俗に日本語は主語が表示されないことが多いと言われる。
明治以降の日本人はそれを主語の省略だと言う。
学校教育ではそう指導してきた。
欧米の知識を取り入れた時、そこを誤解してしまったのだ。
主題(場)に言及するのを旨とする日本語は、
主語を表示しないのは当然で、
主語を入れれば場が霞んで特定の行動のみが強調されるが、
それは欧米の個人主義にはふさわしいが、
日本語にはそぐわないのである。
ゆえに私などという人称が出てきても、
それは主語ではなく場の一部として敢えて明示するだけで、
だからこそ表示されないことが多いのだ。
人称は時に助長でしかなくなるのが日本語である。
勿論場ではなく人を強調するときは、
そのように表現する方法はある。
ついでだが、
だから昨今の英語教育の推進は危険であり、
先ず日本語(国語)をしっかり学ぶことだ。
そして、違いを知ったうえで外国語を学べばいい。
・・・・・
日本は天皇が知ろしめす王国である。
だが所謂ピラミッド型社会ではない。
天皇は三角形の頂点に坐すのではない。
円環(輪)の中心に坐すのである。
上下関係ではなく、平明な輪(和)の世界である。
その中心に坐すということだ。
それが日本(という場)である。
私が在るのは、私一人の力ではない。
場が在ってこそである。
そんな当たり前を旨としているのだ。
だから自分を大事にするとは、場を大事にすることでもある。
場とは父母兄弟友達他すべての人々であり、
山川草木など自然のすべてである。
だから日本では我(が)が突出するのを嫌う。
我は所詮場あってのものだから。
勿論我は当然にあるもので、それ自体悪いものではない。
我の出し方が問われるだけである。
自己主張が苦手な訳である。
・・・・・
天皇は頂点ではなく、中心の在られる。
だから命令はしない、示すのみである。
それは歌で、それはお言葉で、そして行動で。
あくまで示すのみである。
その根底にあるのは祈りです。
場にある国民ひとり一人の幸せを祈るのです。
祈り続けるのです。
だからである。
戦前も今も日本に覇道はない。
どこまでも王道なのです。
天皇に私はない、いつでも天皇である。
すごいことだ。
尋常の技ではない。
こんなことは普通の人にはさせられない。
金や地位・名誉、徳などで計れるものではないのだ。
昨今は女性天皇とか女系天皇とかで喧しいことだが、
まことに胡乱なことである。
天皇の所以は男系・男子による万世一系である。
男系の女性も過去にはあるが、これはあくまで一時しのぎである。
天皇の本意は祈り続けることです。
ここが肝要である。
女性にはできないのだ。
もっと大事なことがあるから。
それは命を繋ぐことである。
この大事をないがしろにしては祈りも意味がなくなる。
だから男性なのである。
女性が立つ場合は、その大事から遠ざかざるを得ない。
一時しのぎの所以である。
・・・・・
勘違いしないでほしい。
これは男が上で女が下と言うことではない。
勿論その逆でもないが。
どこまでも対等なのだ。
天皇と言われるのは確かに一人だけだが、
天皇が在るのは皇后あってのものである。
両者そろってこそである。
知っての通り、陛下と呼ばれるのはお二人おられる。
天皇陛下と皇后陛下である。
ここに意味があるのです。