ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

悪魔のいない世界

2017-01-02 17:05:16 | 日記・エッセイ・コラム
欧米には悪魔がいる。
というか、悪魔という概念がある。
概念があるということは、
心の中にその概念、つまり悪魔がいるということです。
概念(言葉)とはそういうものです。
なぜそんなものを創ったのだろう。
それは一神教ゆえのことだと思う。
自分の信じる神だけを神とすれば、他は否定せざるを得ない。
唯一とはそういうことです。
だから他の神らしきものは認められない。
否定するより他ないのである。
そこに悪魔が誕生する。
神に反逆するものとして。
・・・・・
日本にも悪魔という言葉はある。
これは明治以降に創られたのかも知れない。
勝手にそう思っている。
そもそも日本には悪魔のいる場所はない。
神様しかいないのだから。
この世界を創ったのは神であり、すべては神の手の中にある。
豊穣をもたらすのも神であり、災厄をもたらすのも神である。
神社では数々の(名前の)神が祀られている。
例えば、天照大神など。
でも普通は固有名詞では呼ばない。
一般名詞で言うことがほとんどだ。
神様、という言葉で。
もう少し具体的に言うこともある。
水の神とか風の神とか。
それに悪神もいる。
疫病神とか死神なども。
つまり、すべてが神の技なのである。
良きにつけ悪しきにつけ、すべて神様のなさることなのだ。
そこに悪魔はいない。
一般的にはこれを多神教と言っている。
でも私は超一神教と言う。
何でも超を付ける流行り言葉のように。
でもピッタリだと思う。
・・・・・
欧米流の一神教は二元論的発想になる。
善か悪か、などのように。
そして好き嫌いを通り越して、否定の論理に陥る。
否定の論理はときに狂気を呼ぶ。
まことに殺伐とした世界である。
日本のような超一神教の世界では、
好き嫌いはあっても、否定はない。
融通がきくのである。
だから曖昧でもある。
そこがよく分からないと言われる所以だが。
でもそれこそ真骨頂である。
その曖昧なものを曖昧なまま追い求めるのです。
それが道となる。
高みへ続く道となる。
そこに教はなく、道があるのみ。
教ではなく、道なのです。
・・・・・
正月を祝いましょう。
ともかく大いに祝いましょう。
素晴らしい一年になるように。
数多の神に包まれて。