欧米には悪魔がいる。
というか、悪魔という概念がある。
概念があるということは、
心の中にその概念、つまり悪魔がいるということです。
概念(言葉)とはそういうものです。
なぜそんなものを創ったのだろう。
それは一神教ゆえのことだと思う。
自分の信じる神だけを神とすれば、他は否定せざるを得ない。
唯一とはそういうことです。
だから他の神らしきものは認められない。
否定するより他ないのである。
そこに悪魔が誕生する。
神に反逆するものとして。
・・・・・
日本にも悪魔という言葉はある。
これは明治以降に創られたのかも知れない。
勝手にそう思っている。
そもそも日本には悪魔のいる場所はない。
神様しかいないのだから。
この世界を創ったのは神であり、すべては神の手の中にある。
豊穣をもたらすのも神であり、災厄をもたらすのも神である。
神社では数々の(名前の)神が祀られている。
例えば、天照大神など。
でも普通は固有名詞では呼ばない。
一般名詞で言うことがほとんどだ。
神様、という言葉で。
もう少し具体的に言うこともある。
水の神とか風の神とか。
それに悪神もいる。
疫病神とか死神なども。
つまり、すべてが神の技なのである。
良きにつけ悪しきにつけ、すべて神様のなさることなのだ。
そこに悪魔はいない。
一般的にはこれを多神教と言っている。
でも私は超一神教と言う。
何でも超を付ける流行り言葉のように。
でもピッタリだと思う。
・・・・・
欧米流の一神教は二元論的発想になる。
善か悪か、などのように。
そして好き嫌いを通り越して、否定の論理に陥る。
否定の論理はときに狂気を呼ぶ。
まことに殺伐とした世界である。
日本のような超一神教の世界では、
好き嫌いはあっても、否定はない。
融通がきくのである。
だから曖昧でもある。
そこがよく分からないと言われる所以だが。
でもそれこそ真骨頂である。
その曖昧なものを曖昧なまま追い求めるのです。
それが道となる。
高みへ続く道となる。
そこに教はなく、道があるのみ。
教ではなく、道なのです。
・・・・・
正月を祝いましょう。
ともかく大いに祝いましょう。
素晴らしい一年になるように。
数多の神に包まれて。
というか、悪魔という概念がある。
概念があるということは、
心の中にその概念、つまり悪魔がいるということです。
概念(言葉)とはそういうものです。
なぜそんなものを創ったのだろう。
それは一神教ゆえのことだと思う。
自分の信じる神だけを神とすれば、他は否定せざるを得ない。
唯一とはそういうことです。
だから他の神らしきものは認められない。
否定するより他ないのである。
そこに悪魔が誕生する。
神に反逆するものとして。
・・・・・
日本にも悪魔という言葉はある。
これは明治以降に創られたのかも知れない。
勝手にそう思っている。
そもそも日本には悪魔のいる場所はない。
神様しかいないのだから。
この世界を創ったのは神であり、すべては神の手の中にある。
豊穣をもたらすのも神であり、災厄をもたらすのも神である。
神社では数々の(名前の)神が祀られている。
例えば、天照大神など。
でも普通は固有名詞では呼ばない。
一般名詞で言うことがほとんどだ。
神様、という言葉で。
もう少し具体的に言うこともある。
水の神とか風の神とか。
それに悪神もいる。
疫病神とか死神なども。
つまり、すべてが神の技なのである。
良きにつけ悪しきにつけ、すべて神様のなさることなのだ。
そこに悪魔はいない。
一般的にはこれを多神教と言っている。
でも私は超一神教と言う。
何でも超を付ける流行り言葉のように。
でもピッタリだと思う。
・・・・・
欧米流の一神教は二元論的発想になる。
善か悪か、などのように。
そして好き嫌いを通り越して、否定の論理に陥る。
否定の論理はときに狂気を呼ぶ。
まことに殺伐とした世界である。
日本のような超一神教の世界では、
好き嫌いはあっても、否定はない。
融通がきくのである。
だから曖昧でもある。
そこがよく分からないと言われる所以だが。
でもそれこそ真骨頂である。
その曖昧なものを曖昧なまま追い求めるのです。
それが道となる。
高みへ続く道となる。
そこに教はなく、道があるのみ。
教ではなく、道なのです。
・・・・・
正月を祝いましょう。
ともかく大いに祝いましょう。
素晴らしい一年になるように。
数多の神に包まれて。