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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

神の言葉

2017-01-15 17:06:35 | 日記・エッセイ・コラム
神から言葉を預った者を預言者という。
聖書はその預言者のことを多く記している。
だから、そこには神の言葉が記されている。
その行動とともに。
旧約聖書で有名なのはノアやモーセである。
他にイザヤなどもいる。
新約聖書はイエスのことが記されている。
でもイエスは預言者なのか…。
イエスは神であり、人として扱ってはいないが。
よく分からない。
イスラム教最大の預言者はムハンマドである。
彼が遺したものをクルアーンという。
イスラム教の聖典である。
聖書とクルアーンとではどのような差異があるのだろう。
これもよく分からない。
どちらにしても神の言葉であり、ともに不磨の大典である。
人が勝手に変えることはできない。
・・・・・
でも疑問がある。
聖書やクルアーンを疑ってる訳ではないが、
素朴な疑問である。
本当に神の言葉なのか。
私には考えられないことである。
でも、そういうこともあるのだろう。
一般的には神の啓示とか謂われるようなものが。
それはそうかも知れない。
そういう特別な人がいても可笑しくない。
ともかく納得しておこう。
もう一つ疑問がある。
それが神の言葉としても、
神の言葉が神の言葉のまま提示されているのか、
ということである。
そんなことはないだろう。
それなら普通の者に分かる筈がない。
何しろ神の言葉なのだから。
人の言葉に直して提示されてるのだろう。
そういうことだと思う。
・・・・・
そこで次の疑問がある。
神の言葉は疑えない。
それが人の言葉ならどうだろう。
それなら嘘もあるかも知れない。
誤解や曲解なら尚更である。
直接聞いた預言者ならまだしも。
その後に続く凡人では…。
だから注意しなくてはならない。
よほど注意し、
謙虚に謙虚を重ね、
なお慎重に。
常に問い続けなければならない。
現下のようにその解釈でいろんな流派に分かれ、
その上、いがみ合ってる姿は論外である。
そこに、神の言葉などあるとは思えない。