謝罪するとかしないとか、
喧しいことだ。
謝罪はするものであって、
させるものではない。
・・・・・
見せかけの謝罪はどこまでも政治的営みでしかない。
それを求めるのは、もって自分を優位に立たせようとする意である。
本当の謝罪はそうではないだろう。
謝罪とは字義の通り罪を謝することである。
謝する相手が人であればそれは礼でしかない。
礼を通すのはもちろん大事である。
それは社会の潤滑油としては大いに意義がある。
でも謝罪は礼儀とは違う。
謝する相手は本来創造主・造物主(つまり神)なのである。
これは祈りである。
神と向き合えば全きものになる。
それが本当の謝罪である。
それを知らねばならない。
祈りなき謝罪は空虚で無意味だと。
・・・・・
アメリカの大統領は宣誓式で聖書に手を置くという。
本当に信仰心があるかは分からない。
でも形の上では信仰があるように見せる。
祈りが大事であることは分かっているのだ。
とはいえ心底は見ることができない。
でも行為には何気に伝わるものがある。
いつも言うことだが、
現実の行為には、
言葉とともに色・音・匂やその他あらゆる情報が、
あるのである。
それは伝わるのだ。
ときに演技もあろうが、なお現実は演技を越える。
そこにわざわざ来てそして犠牲者に黙祷を捧げる。
それは祈りである。
祈りにケチを付けることはない。
祈りは祈りなのだから。
・・・・・
アメリカでも喧しい。
大統領候補のトランプは謝罪は不要だと言っている。
その意は、
事に謝罪をするのはいいのだが、
政治的にはしてはいけない、
ということだろう。
本当にまったく不要なら、
「不要だ」
と言う必要もない。
そこは微妙なのである。
腐っても鯛、
アメリカには祈りがある、
そこは救いだ。
おっと、
これは何もアメリカが腐ってると言ってる訳ではない、
あくまで例えである。
喧しいことだ。
謝罪はするものであって、
させるものではない。
・・・・・
見せかけの謝罪はどこまでも政治的営みでしかない。
それを求めるのは、もって自分を優位に立たせようとする意である。
本当の謝罪はそうではないだろう。
謝罪とは字義の通り罪を謝することである。
謝する相手が人であればそれは礼でしかない。
礼を通すのはもちろん大事である。
それは社会の潤滑油としては大いに意義がある。
でも謝罪は礼儀とは違う。
謝する相手は本来創造主・造物主(つまり神)なのである。
これは祈りである。
神と向き合えば全きものになる。
それが本当の謝罪である。
それを知らねばならない。
祈りなき謝罪は空虚で無意味だと。
・・・・・
アメリカの大統領は宣誓式で聖書に手を置くという。
本当に信仰心があるかは分からない。
でも形の上では信仰があるように見せる。
祈りが大事であることは分かっているのだ。
とはいえ心底は見ることができない。
でも行為には何気に伝わるものがある。
いつも言うことだが、
現実の行為には、
言葉とともに色・音・匂やその他あらゆる情報が、
あるのである。
それは伝わるのだ。
ときに演技もあろうが、なお現実は演技を越える。
そこにわざわざ来てそして犠牲者に黙祷を捧げる。
それは祈りである。
祈りにケチを付けることはない。
祈りは祈りなのだから。
・・・・・
アメリカでも喧しい。
大統領候補のトランプは謝罪は不要だと言っている。
その意は、
事に謝罪をするのはいいのだが、
政治的にはしてはいけない、
ということだろう。
本当にまったく不要なら、
「不要だ」
と言う必要もない。
そこは微妙なのである。
腐っても鯛、
アメリカには祈りがある、
そこは救いだ。
おっと、
これは何もアメリカが腐ってると言ってる訳ではない、
あくまで例えである。