ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

謝罪…

2016-06-01 10:19:18 | 日記・エッセイ・コラム
謝罪するとかしないとか、
喧しいことだ。
謝罪はするものであって、
させるものではない。
・・・・・
見せかけの謝罪はどこまでも政治的営みでしかない。
それを求めるのは、もって自分を優位に立たせようとする意である。
本当の謝罪はそうではないだろう。
謝罪とは字義の通り罪を謝することである。
謝する相手が人であればそれは礼でしかない。
礼を通すのはもちろん大事である。
それは社会の潤滑油としては大いに意義がある。
でも謝罪は礼儀とは違う。
謝する相手は本来創造主・造物主(つまり神)なのである。
これは祈りである。
神と向き合えば全きものになる。
それが本当の謝罪である。
それを知らねばならない。
祈りなき謝罪は空虚で無意味だと。
・・・・・
アメリカの大統領は宣誓式で聖書に手を置くという。
本当に信仰心があるかは分からない。
でも形の上では信仰があるように見せる。
祈りが大事であることは分かっているのだ。
とはいえ心底は見ることができない。
でも行為には何気に伝わるものがある。
いつも言うことだが、
現実の行為には、
言葉とともに色・音・匂やその他あらゆる情報が、
あるのである。
それは伝わるのだ。
ときに演技もあろうが、なお現実は演技を越える。
そこにわざわざ来てそして犠牲者に黙祷を捧げる。
それは祈りである。
祈りにケチを付けることはない。
祈りは祈りなのだから。
・・・・・
アメリカでも喧しい。
大統領候補のトランプは謝罪は不要だと言っている。
その意は、
事に謝罪をするのはいいのだが、
政治的にはしてはいけない、
ということだろう。
本当にまったく不要なら、
「不要だ」
と言う必要もない。
そこは微妙なのである。
腐っても鯛、
アメリカには祈りがある、
そこは救いだ。
おっと、
これは何もアメリカが腐ってると言ってる訳ではない、
あくまで例えである。