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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

私の定義

2017-12-04 11:05:25 | 日記・エッセイ・コラム
私は左派とリベラルは一括りにしている。
左派・リベラルと謂って。
人によっては左派とリベラルは違うもので、
言葉としては勿論違うのだが、定義そのものが違うというのだ。
辞書で調べてはいないが、それはそうだろうと思う。
でも私は一括りにしている。
私の定義ではそうです。
・・・・・
くどいほど言っていることがある。
言葉より前に現実がある。
現実があって言葉がある。
言葉は現実を切り裂く道具である。
言葉だけなら、それは空想であり、妄想でしかない。
人は現実を生きる。
現実に囚われるのは当然のことです。
言葉に囚われれば、
その言葉が現実を反映しているなら理はあるが、
空想・妄想なら理などなく、
言葉(概念)の奴隷となるしかない。
言葉の奴隷となれば、現実を見失うのは必定。
そうなれば壊れてしまう。
その時、壊れるのは現実ではない。
現実など壊れようもなく、
壊れるのは人(自分)です。
・・・・・
空想・妄想でも端からそう宣言するなら、
それは問題ない。
それをフィクションという。
それはそれで楽しめる。
だが事実だと主張すれば問題である。
勿論例外もある。
それは科学だ。
科学とは本来は自然科学を謂う。
自然科学が素晴らしいのは、
仮説(空想・妄想)はあくまでも仮説であって、
現実(実験・観察)によって証を得なければ認められないのだ。
すなわち必ず現実に寄り添う。
そこに嘘はない。
科学は信用できるのです。
・・・・・
左派・リベラルに対する私の定義は、
現実から乖離した言葉(空想・妄想)を頑なに主張する者、
としている。
主張が問題なのである。
自分が正しいと。
主張ではなく、正しいかどうかはともかく、
自分はこう思うと言うだけなら、それは問題ない。
思いは人それぞれ、そこは自由だから。
頑なに主張するのが問題なのだ。
世間ではリベラルと言われていても、
そこをわきまえているなら、
私はその人をリベラルとは言わない。
左派・リベラルの逆は保守であるのだが、
世間で保守と言われていても、
頑なに主張するなら、
私はむしろ左派・リベラルと言う。
・・・・・
右派という言葉もあるのだが、私は右派・保守とは言わない。
それは一括りにしないのだ。
右派も往々にして頑なな主張をする。
まあ極端な右派のことですが。
だから普通は左派・リベラルと言っているのだが、
時には左派・リベラル・右派と括ったほうが、
いいと思うこともあります。
なお、
私は保守である、真正保守である。
手前味噌ですが。

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