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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

変わらぬ思い

2025-03-10 08:50:08 | 日記・エッセイ・コラム
これはこのところずっと変らない。
今の世界の「癌」はすべて言葉から来ている。
心魂が現実に感応して発したオト、それが言葉となる。
それは意思疎通の道具ともなるが、
そもその初めは先ずは自分に帰る。
それが何度も何度も繰り返される。
そして終に念として脳に定着する。
それが言葉であるとは既に言った。
やがてそれが広く皆に共有される。
そして言語となる。
てかその初めには想いの繰り返しがあり、
それが人の脳内に憑りつくのである。
ゆえ憑りつかれてるとはしかり、
言葉とは本来そういうもの。
これは癌にも似ている。
それも含めて私で、
それが私です。
・・・・・
このことを繰り返し言っている。
それも性懲りもなくである。
これからも言い続けていく、
ともかくもそれを知ろうと。
それはそれとして、
言葉は文となりまた新たな世界を開く。
語彙を越えてさらに大きな世界を開くのです。
それが物語である。
物語は終わらない。
ネバーエンディングストーリーである。
神の事の場が永遠であるように、
人の事の場もネバーエンディングストーリーなのだ、
神話に始まり歴史・伝統・文化となり。
文化とは言い得て妙、文が化けるのである。
それはヒトの生き方の総体を表わしており、
言葉と生きていく人間のその有様のすべて、
それをひと言で文化という。
それは歴史と伝統により築かれるもの、
そしてそれは未来を照らす灯りとなる、
しかしてそれを文明という。
しても日本語は良く出来ている。
敢えて文にせずとも言葉一つひとつに現われている。
そこに漢字も大きな役割を担っている。
漢字の起源は知らない、
でも漢字は今や日本の文字であるとハッキリ言える。
日本語は音に意(イ)あり字に意(イ)ありのスーパー言語。
てか自画自賛は横に置いてここで厄介をひとつ。
それは神話に続くものでそれを宗教と言う。
これが厄介の初めです。
宗教とはその字義から見ればその質はあきらか。
宗の教とは教の宗でもある。
特定の言葉(教義)を宗(胸)にするのである。
それもときに徹底的に。
事の場の物語は終わらないのに、
その物語を終わらせようとする。
さすれば教義が尚一層心魂に憑りつく。
しても言葉は心魂の振るえがイになったもの。
もともと憑りついているのです。
でも振るえがある限りは大丈夫。
てか振るえをなぜか止めたがる。
止めたら行き場がなくなるのに。
宗教にはその悪癖があるのです。
ときに宗教はヒトを破滅に導く。
それが問題なのである。
だから私は宗教を嫌う。
ちなみに心魂の振るえが意(イ)を呼ぶのは、
それは神の事の場を捉えようとするからです。
ときにそこで神と出会うのです。
その振るえを敢えてイで著わせばそれは「信仰」とでも。
これは宗教以前にあるもので物語の初めにある。
それをより嚙み砕いて言えば「仰ぎ祈り願う」であろう。
てかこれ皆手前勝手な言葉遊びにて候、
ダンダダンのチンチチン!(浄化音)
・・・・・
言葉は物語になる。
物語となって力を発揮する。
物語とは「もの」ではない。
物語は「かたり」であり、それは言葉であり、「こと」なのです。
これは「ものごと」に似ている。
たしかに物事と物語は似ている。
その字義・字様・字順ともども。
物事は「もの」と「こと」だが、
事の物ではなく物の事と表わす。
日本語は後の方に重きを置くが、
ならこれはすぐれて事であると。
であるが物語はまったき「こと」である。
すぐれて、ではなく、まったき、である。
そこは違うのです。
ところでまた想う、
聖書では神の第一声は「光あれ」である。
ここにも意味があろうかと。
言葉は神の振るえ(それは波動)である。
光はまさに振るえ(それは波動)である。
そしてその光はすべての物事の基となる。
それを想うのです。
先ず事の場があり、次に事の波がある。
それは事端となり、それは言葉となる。
そこに物語があり、そこは物事の世界。
それにしても、
日本語は良く出来ている、
おもしろくもおもしろい、
うん!

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