これはこのところずっと変らない。
今の世界の「癌」はすべて言葉から来ている。
心魂が現実に感応して発したオト、それが言葉となる。
それは意思疎通の道具ともなるが、
そもその初めは先ずは自分に帰る。
それが何度も何度も繰り返される。
そして終に念として脳に定着する。
それが言葉であるとは既に言った。
やがてそれが広く皆に共有される。
そして言語となる。
てかその初めには想いの繰り返しがあり、
それが人の脳内に憑りつくのである。
ゆえ憑りつかれてるとはしかり、
言葉とは本来そういうもの。
これは癌にも似ている。
それも含めて私で、
それが私です。
・・・・・
このことを繰り返し言っている。
それも性懲りもなくである。
これからも言い続けていく、
ともかくもそれを知ろうと。
それはそれとして、
言葉は文となりまた新たな世界を開く。
語彙を越えてさらに大きな世界を開くのです。
それが物語である。
物語は終わらない。
ネバーエンディングストーリーである。
神の事の場が永遠であるように、
人の事の場もネバーエンディングストーリーなのだ、
神話に始まり歴史・伝統・文化となり。
文化とは言い得て妙、文が化けるのである。
それはヒトの生き方の総体を表わしており、
言葉と生きていく人間のその有様のすべて、
それをひと言で文化という。
それは歴史と伝統により築かれるもの、
そしてそれは未来を照らす灯りとなる、
しかしてそれを文明という。
しても日本語は良く出来ている。
敢えて文にせずとも言葉一つひとつに現われている。
そこに漢字も大きな役割を担っている。
漢字の起源は知らない、
でも漢字は今や日本の文字であるとハッキリ言える。
日本語は音に意(イ)あり字に意(イ)ありのスーパー言語。
てか自画自賛は横に置いてここで厄介をひとつ。
それは神話に続くものでそれを宗教と言う。
これが厄介の初めです。
宗教とはその字義から見ればその質はあきらか。
宗の教とは教の宗でもある。
特定の言葉(教義)を宗(胸)にするのである。
それもときに徹底的に。
事の場の物語は終わらないのに、
その物語を終わらせようとする。
さすれば教義が尚一層心魂に憑りつく。
しても言葉は心魂の振るえがイになったもの。
もともと憑りついているのです。
でも振るえがある限りは大丈夫。
てか振るえをなぜか止めたがる。
止めたら行き場がなくなるのに。
宗教にはその悪癖があるのです。
ときに宗教はヒトを破滅に導く。
それが問題なのである。
だから私は宗教を嫌う。
ちなみに心魂の振るえが意(イ)を呼ぶのは、
それは神の事の場を捉えようとするからです。
ときにそこで神と出会うのです。
その振るえを敢えてイで著わせばそれは「信仰」とでも。
これは宗教以前にあるもので物語の初めにある。
それをより嚙み砕いて言えば「仰ぎ祈り願う」であろう。
てかこれ皆手前勝手な言葉遊びにて候、
ダンダダンのチンチチン!(浄化音)
・・・・・
言葉は物語になる。
物語となって力を発揮する。
物語とは「もの」ではない。
物語は「かたり」であり、それは言葉であり、「こと」なのです。
これは「ものごと」に似ている。
たしかに物事と物語は似ている。
その字義・字様・字順ともども。
物事は「もの」と「こと」だが、
事の物ではなく物の事と表わす。
日本語は後の方に重きを置くが、
ならこれはすぐれて事であると。
であるが物語はまったき「こと」である。
すぐれて、ではなく、まったき、である。
そこは違うのです。
ところでまた想う、
聖書では神の第一声は「光あれ」である。
ここにも意味があろうかと。
言葉は神の振るえ(それは波動)である。
光はまさに振るえ(それは波動)である。
そしてその光はすべての物事の基となる。
それを想うのです。
先ず事の場があり、次に事の波がある。
それは事端となり、それは言葉となる。
そこに物語があり、そこは物事の世界。
それにしても、
日本語は良く出来ている、
おもしろくもおもしろい、
うん!
今の世界の「癌」はすべて言葉から来ている。
心魂が現実に感応して発したオト、それが言葉となる。
それは意思疎通の道具ともなるが、
そもその初めは先ずは自分に帰る。
それが何度も何度も繰り返される。
そして終に念として脳に定着する。
それが言葉であるとは既に言った。
やがてそれが広く皆に共有される。
そして言語となる。
てかその初めには想いの繰り返しがあり、
それが人の脳内に憑りつくのである。
ゆえ憑りつかれてるとはしかり、
言葉とは本来そういうもの。
これは癌にも似ている。
それも含めて私で、
それが私です。
・・・・・
このことを繰り返し言っている。
それも性懲りもなくである。
これからも言い続けていく、
ともかくもそれを知ろうと。
それはそれとして、
言葉は文となりまた新たな世界を開く。
語彙を越えてさらに大きな世界を開くのです。
それが物語である。
物語は終わらない。
ネバーエンディングストーリーである。
神の事の場が永遠であるように、
人の事の場もネバーエンディングストーリーなのだ、
神話に始まり歴史・伝統・文化となり。
文化とは言い得て妙、文が化けるのである。
それはヒトの生き方の総体を表わしており、
言葉と生きていく人間のその有様のすべて、
それをひと言で文化という。
それは歴史と伝統により築かれるもの、
そしてそれは未来を照らす灯りとなる、
しかしてそれを文明という。
しても日本語は良く出来ている。
敢えて文にせずとも言葉一つひとつに現われている。
そこに漢字も大きな役割を担っている。
漢字の起源は知らない、
でも漢字は今や日本の文字であるとハッキリ言える。
日本語は音に意(イ)あり字に意(イ)ありのスーパー言語。
てか自画自賛は横に置いてここで厄介をひとつ。
それは神話に続くものでそれを宗教と言う。
これが厄介の初めです。
宗教とはその字義から見ればその質はあきらか。
宗の教とは教の宗でもある。
特定の言葉(教義)を宗(胸)にするのである。
それもときに徹底的に。
事の場の物語は終わらないのに、
その物語を終わらせようとする。
さすれば教義が尚一層心魂に憑りつく。
しても言葉は心魂の振るえがイになったもの。
もともと憑りついているのです。
でも振るえがある限りは大丈夫。
てか振るえをなぜか止めたがる。
止めたら行き場がなくなるのに。
宗教にはその悪癖があるのです。
ときに宗教はヒトを破滅に導く。
それが問題なのである。
だから私は宗教を嫌う。
ちなみに心魂の振るえが意(イ)を呼ぶのは、
それは神の事の場を捉えようとするからです。
ときにそこで神と出会うのです。
その振るえを敢えてイで著わせばそれは「信仰」とでも。
これは宗教以前にあるもので物語の初めにある。
それをより嚙み砕いて言えば「仰ぎ祈り願う」であろう。
てかこれ皆手前勝手な言葉遊びにて候、
ダンダダンのチンチチン!(浄化音)
・・・・・
言葉は物語になる。
物語となって力を発揮する。
物語とは「もの」ではない。
物語は「かたり」であり、それは言葉であり、「こと」なのです。
これは「ものごと」に似ている。
たしかに物事と物語は似ている。
その字義・字様・字順ともども。
物事は「もの」と「こと」だが、
事の物ではなく物の事と表わす。
日本語は後の方に重きを置くが、
ならこれはすぐれて事であると。
であるが物語はまったき「こと」である。
すぐれて、ではなく、まったき、である。
そこは違うのです。
ところでまた想う、
聖書では神の第一声は「光あれ」である。
ここにも意味があろうかと。
言葉は神の振るえ(それは波動)である。
光はまさに振るえ(それは波動)である。
そしてその光はすべての物事の基となる。
それを想うのです。
先ず事の場があり、次に事の波がある。
それは事端となり、それは言葉となる。
そこに物語があり、そこは物事の世界。
それにしても、
日本語は良く出来ている、
おもしろくもおもしろい、
うん!
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