ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

そこに山があるから

2019-09-23 16:03:37 | 日記・エッセイ・コラム
いつのことか分からない、
誰の言葉なのか知らない。
取材でもあったのだろう、
高名な登山家が問われた、
「苦しい思いをして、なぜ山に登るのか」。
答えて曰く、
「そこに山があるから」。
有名な言葉である。
分かったようで分からない答えだ。
でも妙に納得してしまう。
・・・・・
虫たち(生物)は現実を生きる。
目の前の現実をひたすら生きる。
しかも自らも現実の一部として。
つまり現実(世界・宇宙)と一体なのだ。
それを疑わない。
言葉を持たない虫たちは、それゆえ疑わない。
どこまでもまんまに生きる。
人間も現実を生きる。
そこは変わらない。
でも言葉を持ってしまった。
「我」を持ってしまった。
だから我と目の前の世界との間に線を引く。
それゆえ現実から遊離する。
あたかも現実の外にいるかのように。
そして現実ではなく、
脳内で再構成した現実、つまり仮想を生きるのだ。
これが所謂楽園からの追放である、
と私は思っている。
その因は勿論禁断の木の実を食べたからです。
智慧の実とも謂われる。
そこで想う、あのかじられたリンゴのロゴとは。
アッポウ・ペン、アッポウ・ペン?
・・・・・
旧約聖書(創世記)によれば、
この世界は神が創ったと。
はじめに天と地とを創造された。
そのあと光などが創られていくのだが、
それは神の言葉によってである。
すなわち言葉が力なのだ。
新約聖書(ヨハネの福音書)によれば、
言葉は神(そのもの)だと。
「初めに言葉があった、
 言葉は神とともにあった、
 言葉は神であった」。
その言葉を人間は手に入れたのだ、
禁忌を犯して。
これが原罪の起源なのだ。
だから言葉は取扱注意なのである。
だから言葉は現実に添わなければならない。
それでも罪は免れられないだろう。
でも少しは救いがある。
それなのに言葉は往々にして一人歩きする。
そして現実から離れてしまう。
現実から離れれば、言葉は必ず嘘になる。
胆に命じよう、
神の言葉は現実であり、
人の言葉は虚構である、と。
その事を覚悟しよう。
・・・・・
必死の思いで山に登り、
苦労して頂上にたどり着いたとき、
目の前には大自然が広がっている。
圧倒的な大自然が。
そのとき悟る。
自分が大自然とともにあることを。
人間が如何にちっぽけなものかと。
ときに只の生物(虫たち)に戻る。
それが悟りである。
でも下界へ戻ればすぐ忘れる。
言葉が溢れているから。
だからまた山に登る。
そこに山があるから、と。

コメントを投稿