ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

同根のわけ

2019-09-09 12:34:37 | 日記・エッセイ・コラム
シナ人とリベラル人士はその根が同じだ、
と言ってきた。
その理由はこれまでにも記したと思うが、
念の為再度触れることとする。
でもである。
「理屈と膏薬はどこにでも付く」と言うがごとく、
どうとでも言えるです。
今回はその一つを述べようと…。
これまでは、
「祈りを持っているかどうか」で分けていたが、
これが根本だとは思っているが、
その顕れは色々でありましょう。
その一つを。
・・・・・
その根とは、個人主義である、それも超の付く。
人間は社会的動物だとは以前から言われている。
単体では至極ひ弱で、それでは自然界で生きていけない。
なので集団で生きることにした。
だから、そう言われるのである。
それはつまり、
集団は個人のため、個人は集団のため、
集団在っての個人であり、個人は集団に欠かせない、
そういう切り離せない関係です。
それが社会的動物の本義だろう。
最近は(リベラル界隈では特に)、
個人の自立ということがよく言われるが、
集団を無視した自立など意味不明であり、
集団在ってこその自立であり、
それは集団にとって意味ある存在になる、
ということです。
その集団とは、
第一に親子兄弟夫婦などの家族であり、
家族の集まりである部族であり、
部族の集まりである民族であり、
そして民族が国民国家をつくる、
その国家の集まりが世界である。
それら集団に貢献することこそ自立の本懐です。
言わずもがな、
自分の都合で一方的に他者を蔑ろにするのは論外ですし、
集団を考慮しない、理念だけの自立も意味なし、
である。
・・・・・
シナの個人主義は他人を信用しない。
生き延びることだけが焦点となる、そんな苛烈な状況が頻発する間に、
互いを信用できない、そんな社会(集団)になってしまった。
毛沢東は言った、
「我が民は掬っても掬っても、手から零れる砂のようだ」と。
そんな不毛の大地に咲いた花が中華です。
これが宿痾だとは以前に言った通りです。
この個人主義はまったき利己主義で、だから超の字を付けるのです。
欧米の個人主義はそれとは違う。
欧米の個人主義は信仰に由来している。
絶対神を想定し、その前ではすべての者が平等であり皆兄弟だと。
個人主義ではあっても横の繫がり(集団)を意識する。
なのになぜ超の字を付けるのか。
それは信仰から離れたからです。
一部ではあるが信仰から離れた者らがいたのです。
ニーチェが言った「神は死んだ」とはこのことか。
それに欧米人は言葉に重きを置く。
それがときに観念的に過ぎるのだ。
特に二元論を持ち出し、善悪を付けようとする。
単純で一見分かりやすいが、排除の論理となる。
だからです。
個人主義を良しとすれば、集団(全体)主義を否定する。
集団と個人が両立できない。
集団と個人を両立させない。
これがリベラル的思考であり、だからそこに超の字を付ける。
超の付いた個人主義は破滅的かつ破壊的であり、
まったき毒となる。
この毒を播いている大元は当然のこと承知の上です。
個人を掬っても掬っても零れ落ちる状態にするため。
それが現下の世界です。
・・・・・
ちなみに、信仰の為にヨーロッパを捨て、
アメリカへ渡った人たちは根っこに信仰をもっていただろう。
所謂清教徒(ピューリタン)らである。
感謝祭を文字通り感謝して祝っている、そんなアメリカ人だ。
中に見せかけの者も混じっていたろう。
それに第一次世界大戦後のパリでの講和会議で、
日本が提出した人種平等法案に賛同した人たち、
実際はそのような人が多数を占めていたのです。
彼らは信仰の下にあった。
結局は詭弁で否決されたのだが。
欧米人は腹黒いと云うが、
純粋に信仰に生きてる人たちはそうではない。
ともかく、それを知っていよう。
ちなみに、ちなみに、
福沢諭吉は脱亜入欧と言ったが、
その脱亜とは中華世界を指しており、
入欧とは信仰を持った欧米世界では、
あったろう。

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