シナ人とリベラル人士はその根が同じだ、
と言ってきた。
その理由はこれまでにも記したと思うが、
念の為再度触れることとする。
でもである。
「理屈と膏薬はどこにでも付く」と言うがごとく、
どうとでも言えるです。
今回はその一つを述べようと…。
これまでは、
「祈りを持っているかどうか」で分けていたが、
これが根本だとは思っているが、
その顕れは色々でありましょう。
その一つを。
・・・・・
その根とは、個人主義である、それも超の付く。
人間は社会的動物だとは以前から言われている。
単体では至極ひ弱で、それでは自然界で生きていけない。
なので集団で生きることにした。
だから、そう言われるのである。
それはつまり、
集団は個人のため、個人は集団のため、
集団在っての個人であり、個人は集団に欠かせない、
そういう切り離せない関係です。
それが社会的動物の本義だろう。
最近は(リベラル界隈では特に)、
個人の自立ということがよく言われるが、
集団を無視した自立など意味不明であり、
集団在ってこその自立であり、
それは集団にとって意味ある存在になる、
ということです。
その集団とは、
第一に親子兄弟夫婦などの家族であり、
家族の集まりである部族であり、
部族の集まりである民族であり、
そして民族が国民国家をつくる、
その国家の集まりが世界である。
それら集団に貢献することこそ自立の本懐です。
言わずもがな、
自分の都合で一方的に他者を蔑ろにするのは論外ですし、
集団を考慮しない、理念だけの自立も意味なし、
である。
・・・・・
シナの個人主義は他人を信用しない。
生き延びることだけが焦点となる、そんな苛烈な状況が頻発する間に、
互いを信用できない、そんな社会(集団)になってしまった。
毛沢東は言った、
「我が民は掬っても掬っても、手から零れる砂のようだ」と。
そんな不毛の大地に咲いた花が中華です。
これが宿痾だとは以前に言った通りです。
この個人主義はまったき利己主義で、だから超の字を付けるのです。
欧米の個人主義はそれとは違う。
欧米の個人主義は信仰に由来している。
絶対神を想定し、その前ではすべての者が平等であり皆兄弟だと。
個人主義ではあっても横の繫がり(集団)を意識する。
なのになぜ超の字を付けるのか。
それは信仰から離れたからです。
一部ではあるが信仰から離れた者らがいたのです。
ニーチェが言った「神は死んだ」とはこのことか。
それに欧米人は言葉に重きを置く。
それがときに観念的に過ぎるのだ。
特に二元論を持ち出し、善悪を付けようとする。
単純で一見分かりやすいが、排除の論理となる。
だからです。
個人主義を良しとすれば、集団(全体)主義を否定する。
集団と個人が両立できない。
集団と個人を両立させない。
これがリベラル的思考であり、だからそこに超の字を付ける。
超の付いた個人主義は破滅的かつ破壊的であり、
まったき毒となる。
この毒を播いている大元は当然のこと承知の上です。
個人を掬っても掬っても零れ落ちる状態にするため。
それが現下の世界です。
・・・・・
ちなみに、信仰の為にヨーロッパを捨て、
アメリカへ渡った人たちは根っこに信仰をもっていただろう。
所謂清教徒(ピューリタン)らである。
感謝祭を文字通り感謝して祝っている、そんなアメリカ人だ。
中に見せかけの者も混じっていたろう。
それに第一次世界大戦後のパリでの講和会議で、
日本が提出した人種平等法案に賛同した人たち、
実際はそのような人が多数を占めていたのです。
彼らは信仰の下にあった。
結局は詭弁で否決されたのだが。
欧米人は腹黒いと云うが、
純粋に信仰に生きてる人たちはそうではない。
ともかく、それを知っていよう。
ちなみに、ちなみに、
福沢諭吉は脱亜入欧と言ったが、
その脱亜とは中華世界を指しており、
入欧とは信仰を持った欧米世界では、
あったろう。
と言ってきた。
その理由はこれまでにも記したと思うが、
念の為再度触れることとする。
でもである。
「理屈と膏薬はどこにでも付く」と言うがごとく、
どうとでも言えるです。
今回はその一つを述べようと…。
これまでは、
「祈りを持っているかどうか」で分けていたが、
これが根本だとは思っているが、
その顕れは色々でありましょう。
その一つを。
・・・・・
その根とは、個人主義である、それも超の付く。
人間は社会的動物だとは以前から言われている。
単体では至極ひ弱で、それでは自然界で生きていけない。
なので集団で生きることにした。
だから、そう言われるのである。
それはつまり、
集団は個人のため、個人は集団のため、
集団在っての個人であり、個人は集団に欠かせない、
そういう切り離せない関係です。
それが社会的動物の本義だろう。
最近は(リベラル界隈では特に)、
個人の自立ということがよく言われるが、
集団を無視した自立など意味不明であり、
集団在ってこその自立であり、
それは集団にとって意味ある存在になる、
ということです。
その集団とは、
第一に親子兄弟夫婦などの家族であり、
家族の集まりである部族であり、
部族の集まりである民族であり、
そして民族が国民国家をつくる、
その国家の集まりが世界である。
それら集団に貢献することこそ自立の本懐です。
言わずもがな、
自分の都合で一方的に他者を蔑ろにするのは論外ですし、
集団を考慮しない、理念だけの自立も意味なし、
である。
・・・・・
シナの個人主義は他人を信用しない。
生き延びることだけが焦点となる、そんな苛烈な状況が頻発する間に、
互いを信用できない、そんな社会(集団)になってしまった。
毛沢東は言った、
「我が民は掬っても掬っても、手から零れる砂のようだ」と。
そんな不毛の大地に咲いた花が中華です。
これが宿痾だとは以前に言った通りです。
この個人主義はまったき利己主義で、だから超の字を付けるのです。
欧米の個人主義はそれとは違う。
欧米の個人主義は信仰に由来している。
絶対神を想定し、その前ではすべての者が平等であり皆兄弟だと。
個人主義ではあっても横の繫がり(集団)を意識する。
なのになぜ超の字を付けるのか。
それは信仰から離れたからです。
一部ではあるが信仰から離れた者らがいたのです。
ニーチェが言った「神は死んだ」とはこのことか。
それに欧米人は言葉に重きを置く。
それがときに観念的に過ぎるのだ。
特に二元論を持ち出し、善悪を付けようとする。
単純で一見分かりやすいが、排除の論理となる。
だからです。
個人主義を良しとすれば、集団(全体)主義を否定する。
集団と個人が両立できない。
集団と個人を両立させない。
これがリベラル的思考であり、だからそこに超の字を付ける。
超の付いた個人主義は破滅的かつ破壊的であり、
まったき毒となる。
この毒を播いている大元は当然のこと承知の上です。
個人を掬っても掬っても零れ落ちる状態にするため。
それが現下の世界です。
・・・・・
ちなみに、信仰の為にヨーロッパを捨て、
アメリカへ渡った人たちは根っこに信仰をもっていただろう。
所謂清教徒(ピューリタン)らである。
感謝祭を文字通り感謝して祝っている、そんなアメリカ人だ。
中に見せかけの者も混じっていたろう。
それに第一次世界大戦後のパリでの講和会議で、
日本が提出した人種平等法案に賛同した人たち、
実際はそのような人が多数を占めていたのです。
彼らは信仰の下にあった。
結局は詭弁で否決されたのだが。
欧米人は腹黒いと云うが、
純粋に信仰に生きてる人たちはそうではない。
ともかく、それを知っていよう。
ちなみに、ちなみに、
福沢諭吉は脱亜入欧と言ったが、
その脱亜とは中華世界を指しており、
入欧とは信仰を持った欧米世界では、
あったろう。
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