●水を媒体として神仏の力を宿す勧請/祈祷の形式は真言密教だけでなく各宗派に存在する。
日蓮正宗の御秘符(注1)で水を使う。水を媒体として神仏の力を宿す勧請/祈祷の形式は真言密教だけでなく日本の各宗教に存在します。
1.医療行為として清浄な水を使う。
2.病人などに飲ませるために祈祷した水を与える。
3.他
先祖信仰で水が備えられるケースと備えられないケースの2つは除外します。
本記事や勧請/祈祷では2のケースがテーマになります。
真言でも天台でも密教を邪宗呼ばわり亡国のレッテル貼りするのは日蓮さんが異常としか私は思えません。
仏教各派で祈祷用途で水が祭壇や仏壇に備えられます。
●日蓮が御符を認め清い水で母の口に含ませた事例
ご母堂の蘇生について 高橋俊隆
日朗さんの文章も残っているそうなので一部始終は事実んだと思います。日朗遺文を私は読んだことがありませんが伝承が奇跡を含む事実かは私もよくわかりません。
祈祷なのか単なる末期の水なのか不明瞭だと思います。
現代医学のように病名はわかりません。
●日蓮遺文は思いやりか?祈祷による幸せの実証があるのか?
単なる思いやりなら問題ないが、絶対とか英語のMUST(しなければいけない)とか強制、脅迫、喧嘩に使われる場合は問題になると思われる遺文があります。
諸法実相鈔(昭和定本)
剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。
祈祷鈔(昭和定本)
仏説なればいづれも一往は祈となるべし。但法華経をもていのらむ祈は必祈となるべし。
大地はさゝばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出(い)づるとも、法華経の行者の、祈(いのり)のかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部(はちぶ)等、二聖(にしよう)・二天・十羅刹(じゆうらせつ)等、千に一も来りてまほり給はぬ事侍らば、上(かみ)は釈迦諸仏をあなづり奉り、下(しも)は九界をたぼらかす失(とが)あり。
聖人御難事(昭和定本)
よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。
前の記事でも取り上げた遺文です。
困った時は「よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」
祈りが叶わない時は「よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」
このように解釈することができてしまいます。必ず祈りは叶う遺文と矛盾しています。
経王殿御返事(昭和定本)
いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。
(中略)但し御信心によるべし。つるぎなんども、すすまざる人のためには用事なし。法華経の剣は信心のけなげ(勇)なる人こそ用事なれ。鬼にかなぼうなるべし。日蓮がたましひをすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ。
この遺文も創価員時代の私は好きでしたけど、なんの根拠もない思いやりか日蓮さんの妄想だと考えています。
「但し御信心によるべし」は勧請/祈祷を教えない教団トップには信者を騙し信仰心や教団活動を煽るもってこいの言葉だと思います。
●僧侶の祈祷、祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願など
坊さんのする祈祷を調べると、例えば個人の病気治療や悩み相談だけでなく、国家においては祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願などがあります。
100回勧請/祈祷して100回勧請と祈祷の成就できる日蓮さんだったと私は考えていません。
祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願など人の不幸や悩み事が何かあるたびに日蓮さん自身が勧請/祈祷すれば、評価はうなぎのぼりだったのは間違いありません。
就職活動のために書いたと説がある立正安国論を書く必要もなければ、あの文章内容にならず「私、日蓮は仏を見ました。勧請/祈祷できます。勧請/祈祷をやって見せます。」
幸せの結果が得られれば天皇陛下が採用し誰もが信じたでしょう。
祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願などは力ある祈祷師の仕事です。
在家信者の仕事ではありませんし、こうした困りごとや悩みごとを祈っても構わないと思います。しかし、在家信者が修行や知識もなしに"俺は勧請/祈祷できる"と考えたらダメだと思います。
曼荼羅になんとなく諸天善神の文字を記載して「はいこれが勧請/祈祷ですよ」てのが私は異常なんだと思います。弟子僧侶や信者への思いやりのお守りやお札程度と捉えるなら問題ないと思います。
●勧請/祈祷僧を教えず、創価学会が教えてきたこと
本尊に魔が入っている
大石寺は魔の山だ
創価学会を否定した天魔日顕
本尊の優劣
信者に対する呆れた誹謗中傷。信心が足りない、お題目が足りないなど。
創価学会だけでなく日蓮正宗でも次のような感じの指導があります。
御本尊様に御題目を真剣に唱えれば祈りが必ず叶います。
しかし御本尊様への絶対的な確信がなければ祈りは叶いません。
少しでも気持ちに不信や疑い怠慢があると絶対に叶いません。
絶対とか言ってる時点でダメだと思います。
「強情な信仰で功徳を頂きなさい、あなたは信心や題目が足りません」と在家信者に言うケースはあっても、創価学会本部職員や正宗の坊さんが「お金を受け取っている僧侶や職員が功徳を積みなさい」と言われたら都合が悪いことは再三再四、過去記事で指摘してきました。
なぜ功徳を積まないのか坊さんにアンケートとります!とか論文書きます!とかあるはずありません。坊さんの収入が減るだけですからね。
勧請/祈祷の能力も同じです。日蓮の馬鹿さ加減や低脳がバレる論文や意見交換や議論があるはずがありません。
坊さんは勧請/祈祷の説明はしたくないでしょう。
「但し御信心によるべし。」とだけ言って在家信者にお布施させる方が楽です。
信者の悩み事や相談事、願い事は日蓮さんか坊さんが勧請/祈祷を行い、その結果を信者が受け取るのが望ましいと考えます。
原始仏教でもお釈迦さんの功徳は絶大だから、その功徳の一部を回向したり信者が受け取りなさい、とした思想は一応ですがあります。
在家信者が祈って願いを叶えた、それはそれでいいことだとは思いますが、偶然か勧請/祈祷かは誰にもわかりません。
●注釈
(注1)
日蓮正宗のかたに質問いたします。今でも御秘符はあるのですか?むかしか... - Yahoo!知恵袋
池田大作の御秘符の教えは長年の間にわたり間違っていたそうです。
いつ間違え初めていつ訂正されたのか私は知りません。
第二次宗門問題以後も、食紅で誰かが本尊を書きそれを水に溶かして創価員に与えた、という噂はありました。事実かわかりませんが食品衛生法違反や坊さんでない宗教的問題があると考えます。
長くなりすぎたので後で色々加筆訂正するかもしれません。
次回の内容は未定。
2023/11/23 23:54:38
から
2023/11/24 00:04:08
に変更
日蓮正宗の御秘符(注1)で水を使う。水を媒体として神仏の力を宿す勧請/祈祷の形式は真言密教だけでなく日本の各宗教に存在します。
1.医療行為として清浄な水を使う。
2.病人などに飲ませるために祈祷した水を与える。
3.他
先祖信仰で水が備えられるケースと備えられないケースの2つは除外します。
本記事や勧請/祈祷では2のケースがテーマになります。
真言でも天台でも密教を邪宗呼ばわり亡国のレッテル貼りするのは日蓮さんが異常としか私は思えません。
仏教各派で祈祷用途で水が祭壇や仏壇に備えられます。
●日蓮が御符を認め清い水で母の口に含ませた事例
ご母堂の蘇生について 高橋俊隆
日朗さんの文章も残っているそうなので一部始終は事実んだと思います。日朗遺文を私は読んだことがありませんが伝承が奇跡を含む事実かは私もよくわかりません。
祈祷なのか単なる末期の水なのか不明瞭だと思います。
現代医学のように病名はわかりません。
●日蓮遺文は思いやりか?祈祷による幸せの実証があるのか?
単なる思いやりなら問題ないが、絶対とか英語のMUST(しなければいけない)とか強制、脅迫、喧嘩に使われる場合は問題になると思われる遺文があります。
諸法実相鈔(昭和定本)
剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。
祈祷鈔(昭和定本)
仏説なればいづれも一往は祈となるべし。但法華経をもていのらむ祈は必祈となるべし。
大地はさゝばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出(い)づるとも、法華経の行者の、祈(いのり)のかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部(はちぶ)等、二聖(にしよう)・二天・十羅刹(じゆうらせつ)等、千に一も来りてまほり給はぬ事侍らば、上(かみ)は釈迦諸仏をあなづり奉り、下(しも)は九界をたぼらかす失(とが)あり。
聖人御難事(昭和定本)
よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。
前の記事でも取り上げた遺文です。
困った時は「よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」
祈りが叶わない時は「よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」
このように解釈することができてしまいます。必ず祈りは叶う遺文と矛盾しています。
経王殿御返事(昭和定本)
いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。
(中略)但し御信心によるべし。つるぎなんども、すすまざる人のためには用事なし。法華経の剣は信心のけなげ(勇)なる人こそ用事なれ。鬼にかなぼうなるべし。日蓮がたましひをすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ。
この遺文も創価員時代の私は好きでしたけど、なんの根拠もない思いやりか日蓮さんの妄想だと考えています。
「但し御信心によるべし」は勧請/祈祷を教えない教団トップには信者を騙し信仰心や教団活動を煽るもってこいの言葉だと思います。
●僧侶の祈祷、祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願など
坊さんのする祈祷を調べると、例えば個人の病気治療や悩み相談だけでなく、国家においては祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願などがあります。
100回勧請/祈祷して100回勧請と祈祷の成就できる日蓮さんだったと私は考えていません。
祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願など人の不幸や悩み事が何かあるたびに日蓮さん自身が勧請/祈祷すれば、評価はうなぎのぼりだったのは間違いありません。
就職活動のために書いたと説がある立正安国論を書く必要もなければ、あの文章内容にならず「私、日蓮は仏を見ました。勧請/祈祷できます。勧請/祈祷をやって見せます。」
幸せの結果が得られれば天皇陛下が採用し誰もが信じたでしょう。
祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願などは力ある祈祷師の仕事です。
在家信者の仕事ではありませんし、こうした困りごとや悩みごとを祈っても構わないと思います。しかし、在家信者が修行や知識もなしに"俺は勧請/祈祷できる"と考えたらダメだと思います。
曼荼羅になんとなく諸天善神の文字を記載して「はいこれが勧請/祈祷ですよ」てのが私は異常なんだと思います。弟子僧侶や信者への思いやりのお守りやお札程度と捉えるなら問題ないと思います。
●勧請/祈祷僧を教えず、創価学会が教えてきたこと
本尊に魔が入っている
大石寺は魔の山だ
創価学会を否定した天魔日顕
本尊の優劣
信者に対する呆れた誹謗中傷。信心が足りない、お題目が足りないなど。
創価学会だけでなく日蓮正宗でも次のような感じの指導があります。
御本尊様に御題目を真剣に唱えれば祈りが必ず叶います。
しかし御本尊様への絶対的な確信がなければ祈りは叶いません。
少しでも気持ちに不信や疑い怠慢があると絶対に叶いません。
絶対とか言ってる時点でダメだと思います。
「強情な信仰で功徳を頂きなさい、あなたは信心や題目が足りません」と在家信者に言うケースはあっても、創価学会本部職員や正宗の坊さんが「お金を受け取っている僧侶や職員が功徳を積みなさい」と言われたら都合が悪いことは再三再四、過去記事で指摘してきました。
なぜ功徳を積まないのか坊さんにアンケートとります!とか論文書きます!とかあるはずありません。坊さんの収入が減るだけですからね。
勧請/祈祷の能力も同じです。日蓮の馬鹿さ加減や低脳がバレる論文や意見交換や議論があるはずがありません。
坊さんは勧請/祈祷の説明はしたくないでしょう。
「但し御信心によるべし。」とだけ言って在家信者にお布施させる方が楽です。
信者の悩み事や相談事、願い事は日蓮さんか坊さんが勧請/祈祷を行い、その結果を信者が受け取るのが望ましいと考えます。
原始仏教でもお釈迦さんの功徳は絶大だから、その功徳の一部を回向したり信者が受け取りなさい、とした思想は一応ですがあります。
在家信者が祈って願いを叶えた、それはそれでいいことだとは思いますが、偶然か勧請/祈祷かは誰にもわかりません。
●注釈
(注1)
日蓮正宗のかたに質問いたします。今でも御秘符はあるのですか?むかしか... - Yahoo!知恵袋
池田大作の御秘符の教えは長年の間にわたり間違っていたそうです。
いつ間違え初めていつ訂正されたのか私は知りません。
第二次宗門問題以後も、食紅で誰かが本尊を書きそれを水に溶かして創価員に与えた、という噂はありました。事実かわかりませんが食品衛生法違反や坊さんでない宗教的問題があると考えます。
長くなりすぎたので後で色々加筆訂正するかもしれません。
次回の内容は未定。
2023/11/23 23:54:38
から
2023/11/24 00:04:08
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