556.仏教各派と祈祷師の勧請/祈祷から日蓮遺文を考察する
●「勧請祈祷の成立には能力者または勧請僧/祈祷僧の存在が重要」
ここまで書けば気がついている読者が数人はいると思います。
☆大きな問題点「勧請祈祷の成立には能力者または勧請/祈祷僧の存在が重要」と私は考えています。
この三十年以上の間、kさんを除いて日蓮門下僧や在家信者で誰もこれを指摘した創価員、法華講員との出会いはありませんでした。
私は仏教各派が出した全ての創価学会批判や日蓮正宗批判の書籍を読んでいルわけではありませんし正宗以外の日蓮宗、真言、天台など各宗派のお坊さん全員にアンケートや意見交換した訳ではありません。しかし上記の結論しかないと考えています。
●日蓮は本当に勧請/祈祷の超能力を持っていたのか?
日蓮は密教系統の勧請/祈祷の儀礼を行なった後か、行ないながら本尊を書いたのでしょうか?
私はなんとなく弱いインスピレーション(感応力)があって、不明瞭な儀式のまま書いた可能性があると考えています。
一番最初の曼荼羅本尊である佐渡始顕と日蓮晩年の日蓮宗宗定臨滅度時曼荼羅本尊が同じ勧請/祈祷の儀礼だったのか、諸天善神である各々の神仏を勧請しつつ書いたのでしょうか?
本尊を書く以前に、諸天善神である各々の神仏を1尊1尊(仏様菩薩様の数え方)、1柱1柱(神道の天照大神など神様の数え方)を勧請し幸せを振りまく結果があったのでしょうか?
「幸せを振りまく結果」があれば勧請/祈祷出来たとみていいのでしょう。
そんな日蓮さんの事実があれば直弟子や孫弟子の記録がないと変です。
記録があれば本尊の数や諸天善神の数からして空海さんを超える大偉業です。
すぐに天皇の御付きの護持僧になれたと思います。でもこうした結果も記録もありません。
神仏を呼べた勧請/祈祷の元祖は日蓮であり、神仏を呼べるのは日蓮以前にない、などと言う人はおかしいでしょう。
不動愛染感見記の記録しかありませんから勧請は不動愛染しかないと思います。
●大事なポイントは?
勧請/祈祷の能力があれば「神仏がする幸せへのお計らい、導き(ナイショ)」がある
祈祷の結果は「神仏がする幸せへのお計らい、導き(ナイショ)」なので幸せを振りまくのは当然です。
幸せを振りまく結果があれば、不毛な議論や破門や絶縁はする必要が全くありません。五老僧の退転だの、五一の相対だの、お前の教理教学が違うだの、そんな結論にはならないと考えています。これらは私には馬鹿馬鹿しいです。
これは私の体験からくる考えです。
勧請/祈祷の能力があれば「神仏がする幸せへのお計らい、導き」がある。
神仏のおっしゃる幸せへの導きなどには逆らえない、信者にとって逆らう道理がない、と言う方が近いでしょうか?
●重視すべきは坊さんの役職ではなく言葉や態度、勧請/祈祷の能力でしょう。
祈祷できないどころか重視すらしない又は教えない坊さんに「逆らうな!」とか正宗系信者に言われてもアホとしか思えません。
後述予定ですが、第一次、第二次宗門問題で創価学会は「神仏と勧請/祈祷、能力者、本尊」で正宗の一部を味方につけることも批判することも出来なかったから、全て失敗したともいえるでしょう。
戦中戦後に護持僧祈祷僧がいたのですから、伝統講でもない何も知らない在家信者集団の末端信者とか教団執行部とかの方針やあり方などの批判や提言を、正宗トップが聞くわけないでしょう。
どっちもどっち両者どちらの思い上がりも甚だしいと思います。
日蓮正宗が神仏の存在を教えることができず、勧請/祈祷も教えず、勧請/祈祷の能力者も教えないのも言うまでもなく大失敗です。
ここまで読めば、日蓮から阿部日顕まで私がクソ坊主呼ばわりすることが、なんとなくわかりますかね?
ネットで在家信者がちょっと教理教学を勉強したくらいで「俺の言うことは正しい!俺に逆らうな」とか発狂している人々を見ると、どうしようもないアホかと思います。
●祈祷の形式や道具は?
例えば、日蓮さんは道具を持っていたのでしょうか?
金剛杵・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵が人間の勧請/祈祷能力の強さを決めるものでないと思いますが、ないと天皇、公家、政治家に「この人(日蓮さん)は本当に勧請/祈祷できる人なのかな?」と思われるのでは?
金剛杵・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵
日蓮宗の祈祷の動画や画像、書籍を見るとお坊さんは手に密教の道具を持っています。鎌倉時代からそうだったのか私は知りません。
創価学会の一部の人なのか全員なのかわかりませんが、密教を邪宗とか不動愛染感見記を偽書とか言っていますが私はありえないと思います。むしろ密教を肯定すべきで日蓮さんの修行と勉学が足りなかった結果から今の誤解があるのでしょう。
他宗祈祷師はTPOに応じ中心となる信仰対象の勧請も他も勧請できる人です。手に持つ道具や服装は儀式の種類やTPOに応じ変わります。
2023/12/04 追記修正
●「勧請祈祷の成立には能力者または勧請僧/祈祷僧の存在が重要」
ここまで書けば気がついている読者が数人はいると思います。
☆大きな問題点「勧請祈祷の成立には能力者または勧請/祈祷僧の存在が重要」と私は考えています。
この三十年以上の間、kさんを除いて日蓮門下僧や在家信者で誰もこれを指摘した創価員、法華講員との出会いはありませんでした。
私は仏教各派が出した全ての創価学会批判や日蓮正宗批判の書籍を読んでいルわけではありませんし正宗以外の日蓮宗、真言、天台など各宗派のお坊さん全員にアンケートや意見交換した訳ではありません。しかし上記の結論しかないと考えています。
●日蓮は本当に勧請/祈祷の超能力を持っていたのか?
日蓮は密教系統の勧請/祈祷の儀礼を行なった後か、行ないながら本尊を書いたのでしょうか?
私はなんとなく弱いインスピレーション(感応力)があって、不明瞭な儀式のまま書いた可能性があると考えています。
一番最初の曼荼羅本尊である佐渡始顕と日蓮晩年の日蓮宗宗定臨滅度時曼荼羅本尊が同じ勧請/祈祷の儀礼だったのか、諸天善神である各々の神仏を勧請しつつ書いたのでしょうか?
本尊を書く以前に、諸天善神である各々の神仏を1尊1尊(仏様菩薩様の数え方)、1柱1柱(神道の天照大神など神様の数え方)を勧請し幸せを振りまく結果があったのでしょうか?
「幸せを振りまく結果」があれば勧請/祈祷出来たとみていいのでしょう。
そんな日蓮さんの事実があれば直弟子や孫弟子の記録がないと変です。
記録があれば本尊の数や諸天善神の数からして空海さんを超える大偉業です。
すぐに天皇の御付きの護持僧になれたと思います。でもこうした結果も記録もありません。
神仏を呼べた勧請/祈祷の元祖は日蓮であり、神仏を呼べるのは日蓮以前にない、などと言う人はおかしいでしょう。
不動愛染感見記の記録しかありませんから勧請は不動愛染しかないと思います。
●大事なポイントは?
勧請/祈祷の能力があれば「神仏がする幸せへのお計らい、導き(ナイショ)」がある
祈祷の結果は「神仏がする幸せへのお計らい、導き(ナイショ)」なので幸せを振りまくのは当然です。
幸せを振りまく結果があれば、不毛な議論や破門や絶縁はする必要が全くありません。五老僧の退転だの、五一の相対だの、お前の教理教学が違うだの、そんな結論にはならないと考えています。これらは私には馬鹿馬鹿しいです。
これは私の体験からくる考えです。
勧請/祈祷の能力があれば「神仏がする幸せへのお計らい、導き」がある。
神仏のおっしゃる幸せへの導きなどには逆らえない、信者にとって逆らう道理がない、と言う方が近いでしょうか?
●重視すべきは坊さんの役職ではなく言葉や態度、勧請/祈祷の能力でしょう。
祈祷できないどころか重視すらしない又は教えない坊さんに「逆らうな!」とか正宗系信者に言われてもアホとしか思えません。
後述予定ですが、第一次、第二次宗門問題で創価学会は「神仏と勧請/祈祷、能力者、本尊」で正宗の一部を味方につけることも批判することも出来なかったから、全て失敗したともいえるでしょう。
戦中戦後に護持僧祈祷僧がいたのですから、伝統講でもない何も知らない在家信者集団の末端信者とか教団執行部とかの方針やあり方などの批判や提言を、正宗トップが聞くわけないでしょう。
どっちもどっち両者どちらの思い上がりも甚だしいと思います。
日蓮正宗が神仏の存在を教えることができず、勧請/祈祷も教えず、勧請/祈祷の能力者も教えないのも言うまでもなく大失敗です。
ここまで読めば、日蓮から阿部日顕まで私がクソ坊主呼ばわりすることが、なんとなくわかりますかね?
ネットで在家信者がちょっと教理教学を勉強したくらいで「俺の言うことは正しい!俺に逆らうな」とか発狂している人々を見ると、どうしようもないアホかと思います。
●祈祷の形式や道具は?
例えば、日蓮さんは道具を持っていたのでしょうか?
金剛杵・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵が人間の勧請/祈祷能力の強さを決めるものでないと思いますが、ないと天皇、公家、政治家に「この人(日蓮さん)は本当に勧請/祈祷できる人なのかな?」と思われるのでは?
金剛杵・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵
日蓮宗の祈祷の動画や画像、書籍を見るとお坊さんは手に密教の道具を持っています。鎌倉時代からそうだったのか私は知りません。
創価学会の一部の人なのか全員なのかわかりませんが、密教を邪宗とか不動愛染感見記を偽書とか言っていますが私はありえないと思います。むしろ密教を肯定すべきで日蓮さんの修行と勉学が足りなかった結果から今の誤解があるのでしょう。
他宗祈祷師はTPOに応じ中心となる信仰対象の勧請も他も勧請できる人です。手に持つ道具や服装は儀式の種類やTPOに応じ変わります。
2023/12/04 追記修正