ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅弥 著 第三文明社
完全にこの記事はどちらかというと創価学会員、あるいは元創価、正宗の人向け。あるいはこの書籍を読んだ人向けです。出来るだけ詳細に書くつもりですが、全く創価のことを知らない一般の人を考慮して書かないのでご容赦願います。
まずはちょっとした感想から。
釈迦の時代に近い経文を取り上げているから経文否定ではないのですが、”ヘタをすると法華経否定、創価否定、日蓮否定とも受け取れかねないこの書籍がよく創価学会系の第三文明社から発刊できたな。(笑)”というのが正直な感想だ。 友岡雅弥さん、創価学会に危険分子扱いされて殺されていませんか?ブラックジョークですが。。。(笑)(^^;)
この書籍を買う少し前から、経文自体に信憑性や経文の存在価値や意義には疑問を持つようになっていました。創価のTさんとお話しした時にも「どちらかというと経文(法華経の文底など)は否定的です。」(主旨)というのが私の意見であり、その時点で「人を感動させる」「人を納得させる」「素直に信じることが出来る」という意味で存在価値や意義疑問を抱いていました。理由は後述します。
この書籍を読んでますます法華経など釈迦から離れた経文に否定的になったかもしれない。。。。。
なお、反論は結構ですが、今回は本尊論、(出来れば法華経の”肯定あるいは否定”論、日蓮も。。。)これらは私自身出来るだけ避けて記事を書くつもりなのでそうした反論もご遠慮願いたい。
なお、私のブログで再三再四、出てくる結果オーライ主義、善意の解釈、ナイーブは同等の物と考えています。場合によって物事の先にあるか?後に出てくるか?立場や人の違いだけで、様々な場面に出てくるけれども、同質の物と考えています。
●バラモンとプンニカーおばさんの体験談。
バラモンが水の中に入って悪業を流す修行をしています。日本で言うなら寒中水泳とか滝に打たれるのと同じですね。そこへプンニカーというおばさんがやってきます。
「バラモンさん、どうして水の中に入っているの?手足も震えているじゃないですか?」
「これは有名な水浴びの修行であり、水浴びの修行で悪業を流す事が出来て天国に生まれ変わる事が出来るのだ。」
「そりゃあ、おかしいですよ。水で悪業が流れるなら、良い業も流れてしまうことになります。人殺しや強盗をした人も水浴びをすればいいの?善業も流してしまうなら、善にも悪にも関係ないあなたは人生の外にいる人になっちゃうよ? 水で悪業が流れるなら、カエルやヘビ、水の中にいる生物が天国にウヨウヨいる事になりますよ?」
ここで友岡氏は、”善悪”、”自分の人生の外にいる人”、”軽さの力”を説明しています。
「バラモンさん、もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」
なお、上記の文章は引用ではなく主旨です。(笑)今更、またもtabu○あたりにごちゃごちゃ言われても時間の無駄ですので主旨として書いています。興味のある(元)学会員さんは誰かに借りるなどして読んでみて下さい。
●人に伝達できること、分かりやすいこと、納得できることが経文
ここで、上記の文章が経文であることの意味を考えたいと思います。
友岡氏は「プンニカーおばさんは金持ちの女性達から鞭を打たれて水汲みをさせられていた。」(主旨)とやや感動的?感傷的?に書いていますが、これはホントかどうか分かりませんね。但し、当時のインドは差別社会だったので、階級が高くないことは事実でしょう。
このプンニカーおばさんはサーバァッティ(舎衛国)の金持ちの元で働いていた水くみをしていた人のようです。釈迦の教えに出会い、後に信者になったようです。上記のバラモンとの会話が信者になる前なのか信者になった後なのかどうかは友岡氏の本からはよく分かりません。おそらくは釈迦の信者になった後だと思うのですが、どうなんでしょうかね?
さて、こうした友岡氏が引用した「経文」を読んで皆さんはどう感じたでしょうか?
あなたに分かりやすく、納得できるように伝わったのではないでしょうか?これが釈迦弟子の女性の体験談集を集めた「テーリー・ガーター」だそうです。なので経文といえるでしょう。また、どんな言語で書いてあるのか不明ですが、こうして友岡氏に説明できるから
「伝達する」「説明する」「納得できる」ということに 「成功しているのですから、経文」 でしょう。
●では、経文って何でしょうか?
この本を全部読み終えた時に感じたのですが、経文といっても上記の様な女性の体験談も有れば男性の体験談もあります。経文の中には釈迦が質問した物も有れば、弟子が質問した文章があるのは間違いないようです。つまり、会話であることに間違いはないかと。(もちろん会話だけでなく、概念や戒律もあると思います。)
また、友岡氏が経文をこの書籍で解説するにあたり、出来るだけ会話として扱っています。友岡氏は著作の中で説明しているのは上記の経文だけではありません。この著作の副題にもあるとおりの非常にわかりやすく”宗教とは本来こうあるべき”というのを言いたくて書いているわけですから当然と言えば当然なのですが、どの説明も会話的になされています。
さて、会話って何でしょうかね?創価学会の人はご存じの通り、対話でもあるはずです。ネットには対話という言葉がふさわしいでしょう。
ここでピンと来たあなたは宗教者かも?(笑)そう、インターネットもリアルの会話も経文と言い換えることが出来ます。なぜなら、友岡氏は経文を分かりやすく、この本で翻訳なり、解説してあなたに理解させています。つまり、その逆の事も経文でしょう。
経文の成り立ちと我々の理解。
日常で起こった会話で相手を説得する。 → 「テーリー・ガーター」 → 翻訳されてなんとか経になる。 → 友岡氏が翻訳 → 我々が感動したり納得したりして理解する。
これで経文が成り立つ???
日常の出来事で我々が感動したり納得したりして理解する。 → ネットや聖教新聞上に残る → 後世に残る?記憶や印象など生命に残る?後の人が読む → 経文と変わりないでしょ?
プンニカーおばさんのいうことは 「相手にとって不幸になることを注意してあげる」ということでは無いでしょうか?もう少し言うならば「くどくどと長々と納得のいくように注意してあげる」ということでしょうかね?
つまり、ネットにしろリアルにしろ、会話は経文でしょう。文字として残るか残らないかの違いだけです。むしろ、仏法者であるならば、三世の生命、九識論などからすれば、貴方の言動は相手の生命に残ってゆくことでしょう。
●問題のあると思われる罵倒。
ネットにしろリアルにしろ、聖教新聞にしろ、創価学会の退転者や反逆者など誰に対しても罵倒がありますが、確かに創価学会の敵というのは存在します。過去記事に書いてきたとおりです。しかし、末端でなく、トップになればなるほど罵倒が多いですね。こうした仏教の根本的な原理からすれば、罵倒がいかに注意深く行わないといけないかよく分かりますね。
ますます、トップ同士が公開討論、公開説得などを行う必要があるでしょう。
はったり特急である人との対話でちょっとだけ驚いたのですが「注意するなんて限度を超えてる」っていう発言でしたが、それでも場合によって自分の身の回りの人だけでも注意はすべきと言うことでしょうね。
私もこうした仏教本来から逸脱した創価学会には入信してはいけないよ、と言っておきます。
つまり、信徒をレイプするような日蓮正宗の僧侶は罵倒されても当然でしょう。竹入氏や日顕氏が罵倒されるべきかどうかは非常に興味深いところです。もう一度、最初から説得しても何の問題やデメリットもないどころか、宗教者は本来そうあるべきでしょう。むしろこのまま注意も法論も対話も何もないと、説得できなかった、それどころか「何もない」という証拠、説得しなかったという経文が残りますよ?
末端信者だけに説得を任せ、トップは何もしないと言うのも一つの経文(証拠)でしょう。罵倒もね。
http://www.youtube.com/watch?v=nMZxILLmFRs
どっちもどっち。いい加減にして欲しいと思いませんか?>創価、正宗の人
●アンチ創価と創価
またプンニカーおばさんは釈迦の弟子になったとはいえ、女人成仏を初めて説いたとされる?法華経成立以前かどうか分かりません。この辺は非常にあいまいなので分かりませんが 「テーリー・ガーター」のプンニカーおばさんの事は釈迦の弟子とバラモンの対話である可能性は非常に高いと思うのですが、下手をすれば、弟子になる以前かもしれませんよ?
それだけではありません。法華経非仏説の可能性が高いというのが、現在の仏教界の見解です。が、しかし法華経をある意味(日蓮、創価)において肯定すればする程に、「テーリー・ガーター」を否定しその女性たちを否定することになります。プンニカーおばさんは成仏できなくても注意したこと(経文に載るような素晴らしい行動の事)になります。法華経非仏説としても仏説としてもプンニカーおばさんが法華経の女人成仏を知っていて安心しながら?バラモンに注意したとは考えにくいのです。
つまり、もしかすると、一般人だったプンニカーおばさんとバラモンの会話が仏教の経文として残っている可能性があります。
この辺は友岡氏に聞いてみないと何とも言えませんね。ネットには一般人の創価の人と別れた苦しみのHPやBBS、ブログがあります。一般人の人が有る意味、経文を書いているとも言えます。つまり、創価学会が変わらない限り、一般の人から嫌われ続け、ネットに一般人は一般人の会話つまり、経文(証拠)が残ってゆくことになります。
なのでアンチにせよ創価にせよ、ブログやHPを消さないで残しておく事に意味がありますし、アンチ創価ブログが創価によって問題になり消されたら、それはそれで別にブログを立ち上げるべきでしょう。色々言いたい事や不満が出てくるはずです。
バラモンの言葉も間違った行為なのかもしれませんが、少なくとも経文の一部になって現代に残っているわけです。創価の人もアンチもリアルでもネットでも経文や証拠を残していることになります。
プンニカーおばさんが仏弟子である時の体験かどうかは不明です。しかしどちらにせよ、アンチ創価と創価で対話できないのは非常に問題だと言えますね。日蓮正宗と創価でどうして対話できないのでしょうか?
●では、このバラモンの言葉とはどんなモノでしょうか?
本来経文は、高い教えだけが残ると思われがちですが、バラモンの水浴びは愚かな行為であり、こうした不幸や悲劇があるからこそ、経文に残っているわけでしょう。ということは、現代でアンチ創価の批判や悲鳴や苦しみが経文として残っていることは不自然では無いのでは? もちろんやや極論であることには違いありませんが。
上記にあげたバラモンの言葉は「創価学会に入信しない人とは結婚したくない、出来ない」「邪宗の人と結婚すると不幸になるという教えだ」と同じ事だと思います。「私はこれをしないと天国に行けない。」ということでしょう。また、当人の不幸と言う意味で同じでしょ?
結婚と入信で問題が起こると、「個人と組織どちらの問題か?」と議論になります。個人の問題だ!などと言い放つならば、困っている人に、「一般人と創価学会員で結婚出来、信仰が違っていても常識的にやっていけます。入信を強制するのは間違っています。ご供養や子供の入会はよく相談してお互いが納得して決めて下さい。非常識は駄目です。」と言ってあげて下さいよ?>にっしーさん、gizmoさん、にいさん、他の創価の人。
「創価の私(にっしーさん、gizmoさん、にいさん)がそう言ったと相手に伝えて下さい、」って言えませんかね?説得できませんかね?今日も又、私の所に結婚と入信で悩んでいる女性のメールが来ましたよ? とある個人(一般人)の問題を知っている創価個人(にっしーさん、gizmoさん、にいさん)の問題として同苦して頂きたいところです。 誰にも納得がいかないことをするのはおかしいでしょう?納得いかない=経文じゃない。でしょ?当然、本人が納得いかないのに結婚の際に創価を強制退会も間違っています。
なので、どこかのアンチブログを攻撃したり、罵倒したりする前に、ご自分の身を正してネットにしろリアルにしろ周りの人に好かれることをなさっては如何でしょうか?>創価の皆さん
友岡氏もプンニカーおばさんのことを一番大好きな話、大好きなおばちゃん、といっていますよ?
本人の問題であり、組織に問題ないというならば、創価の一個人としてネットで「注意しない」のは問題ではないのでしょうか?組織の問題じゃない、というのはあまりにも冷たく感じます。
ただし、にっしーさんも犬のメメさん所の議論では問題があることは認めて私に同意して下さっています。もう一歩先の議論とお考え下さい。>ALL
やれやれ、まだ続きます。その2かな?何時まで続くか私にも不明。(笑)又、次もプンニカーおばさんの話です。P16かP23まででこの調子というか長文か。やれやれ。(^_^;)
以上
完全にこの記事はどちらかというと創価学会員、あるいは元創価、正宗の人向け。あるいはこの書籍を読んだ人向けです。出来るだけ詳細に書くつもりですが、全く創価のことを知らない一般の人を考慮して書かないのでご容赦願います。
まずはちょっとした感想から。
釈迦の時代に近い経文を取り上げているから経文否定ではないのですが、”ヘタをすると法華経否定、創価否定、日蓮否定とも受け取れかねないこの書籍がよく創価学会系の第三文明社から発刊できたな。(笑)”というのが正直な感想だ。 友岡雅弥さん、創価学会に危険分子扱いされて殺されていませんか?ブラックジョークですが。。。(笑)(^^;)
この書籍を買う少し前から、経文自体に信憑性や経文の存在価値や意義には疑問を持つようになっていました。創価のTさんとお話しした時にも「どちらかというと経文(法華経の文底など)は否定的です。」(主旨)というのが私の意見であり、その時点で「人を感動させる」「人を納得させる」「素直に信じることが出来る」という意味で存在価値や意義疑問を抱いていました。理由は後述します。
この書籍を読んでますます法華経など釈迦から離れた経文に否定的になったかもしれない。。。。。
なお、反論は結構ですが、今回は本尊論、(出来れば法華経の”肯定あるいは否定”論、日蓮も。。。)これらは私自身出来るだけ避けて記事を書くつもりなのでそうした反論もご遠慮願いたい。
なお、私のブログで再三再四、出てくる結果オーライ主義、善意の解釈、ナイーブは同等の物と考えています。場合によって物事の先にあるか?後に出てくるか?立場や人の違いだけで、様々な場面に出てくるけれども、同質の物と考えています。
●バラモンとプンニカーおばさんの体験談。
バラモンが水の中に入って悪業を流す修行をしています。日本で言うなら寒中水泳とか滝に打たれるのと同じですね。そこへプンニカーというおばさんがやってきます。
「バラモンさん、どうして水の中に入っているの?手足も震えているじゃないですか?」
「これは有名な水浴びの修行であり、水浴びの修行で悪業を流す事が出来て天国に生まれ変わる事が出来るのだ。」
「そりゃあ、おかしいですよ。水で悪業が流れるなら、良い業も流れてしまうことになります。人殺しや強盗をした人も水浴びをすればいいの?善業も流してしまうなら、善にも悪にも関係ないあなたは人生の外にいる人になっちゃうよ? 水で悪業が流れるなら、カエルやヘビ、水の中にいる生物が天国にウヨウヨいる事になりますよ?」
ここで友岡氏は、”善悪”、”自分の人生の外にいる人”、”軽さの力”を説明しています。
「バラモンさん、もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」
なお、上記の文章は引用ではなく主旨です。(笑)今更、またもtabu○あたりにごちゃごちゃ言われても時間の無駄ですので主旨として書いています。興味のある(元)学会員さんは誰かに借りるなどして読んでみて下さい。
●人に伝達できること、分かりやすいこと、納得できることが経文
ここで、上記の文章が経文であることの意味を考えたいと思います。
友岡氏は「プンニカーおばさんは金持ちの女性達から鞭を打たれて水汲みをさせられていた。」(主旨)とやや感動的?感傷的?に書いていますが、これはホントかどうか分かりませんね。但し、当時のインドは差別社会だったので、階級が高くないことは事実でしょう。
このプンニカーおばさんはサーバァッティ(舎衛国)の金持ちの元で働いていた水くみをしていた人のようです。釈迦の教えに出会い、後に信者になったようです。上記のバラモンとの会話が信者になる前なのか信者になった後なのかどうかは友岡氏の本からはよく分かりません。おそらくは釈迦の信者になった後だと思うのですが、どうなんでしょうかね?
さて、こうした友岡氏が引用した「経文」を読んで皆さんはどう感じたでしょうか?
あなたに分かりやすく、納得できるように伝わったのではないでしょうか?これが釈迦弟子の女性の体験談集を集めた「テーリー・ガーター」だそうです。なので経文といえるでしょう。また、どんな言語で書いてあるのか不明ですが、こうして友岡氏に説明できるから
「伝達する」「説明する」「納得できる」ということに 「成功しているのですから、経文」 でしょう。
●では、経文って何でしょうか?
この本を全部読み終えた時に感じたのですが、経文といっても上記の様な女性の体験談も有れば男性の体験談もあります。経文の中には釈迦が質問した物も有れば、弟子が質問した文章があるのは間違いないようです。つまり、会話であることに間違いはないかと。(もちろん会話だけでなく、概念や戒律もあると思います。)
また、友岡氏が経文をこの書籍で解説するにあたり、出来るだけ会話として扱っています。友岡氏は著作の中で説明しているのは上記の経文だけではありません。この著作の副題にもあるとおりの非常にわかりやすく”宗教とは本来こうあるべき”というのを言いたくて書いているわけですから当然と言えば当然なのですが、どの説明も会話的になされています。
さて、会話って何でしょうかね?創価学会の人はご存じの通り、対話でもあるはずです。ネットには対話という言葉がふさわしいでしょう。
ここでピンと来たあなたは宗教者かも?(笑)そう、インターネットもリアルの会話も経文と言い換えることが出来ます。なぜなら、友岡氏は経文を分かりやすく、この本で翻訳なり、解説してあなたに理解させています。つまり、その逆の事も経文でしょう。
経文の成り立ちと我々の理解。
日常で起こった会話で相手を説得する。 → 「テーリー・ガーター」 → 翻訳されてなんとか経になる。 → 友岡氏が翻訳 → 我々が感動したり納得したりして理解する。
これで経文が成り立つ???
日常の出来事で我々が感動したり納得したりして理解する。 → ネットや聖教新聞上に残る → 後世に残る?記憶や印象など生命に残る?後の人が読む → 経文と変わりないでしょ?
プンニカーおばさんのいうことは 「相手にとって不幸になることを注意してあげる」ということでは無いでしょうか?もう少し言うならば「くどくどと長々と納得のいくように注意してあげる」ということでしょうかね?
つまり、ネットにしろリアルにしろ、会話は経文でしょう。文字として残るか残らないかの違いだけです。むしろ、仏法者であるならば、三世の生命、九識論などからすれば、貴方の言動は相手の生命に残ってゆくことでしょう。
●問題のあると思われる罵倒。
ネットにしろリアルにしろ、聖教新聞にしろ、創価学会の退転者や反逆者など誰に対しても罵倒がありますが、確かに創価学会の敵というのは存在します。過去記事に書いてきたとおりです。しかし、末端でなく、トップになればなるほど罵倒が多いですね。こうした仏教の根本的な原理からすれば、罵倒がいかに注意深く行わないといけないかよく分かりますね。
ますます、トップ同士が公開討論、公開説得などを行う必要があるでしょう。
はったり特急である人との対話でちょっとだけ驚いたのですが「注意するなんて限度を超えてる」っていう発言でしたが、それでも場合によって自分の身の回りの人だけでも注意はすべきと言うことでしょうね。
私もこうした仏教本来から逸脱した創価学会には入信してはいけないよ、と言っておきます。
つまり、信徒をレイプするような日蓮正宗の僧侶は罵倒されても当然でしょう。竹入氏や日顕氏が罵倒されるべきかどうかは非常に興味深いところです。もう一度、最初から説得しても何の問題やデメリットもないどころか、宗教者は本来そうあるべきでしょう。むしろこのまま注意も法論も対話も何もないと、説得できなかった、それどころか「何もない」という証拠、説得しなかったという経文が残りますよ?
末端信者だけに説得を任せ、トップは何もしないと言うのも一つの経文(証拠)でしょう。罵倒もね。
http://www.youtube.com/watch?v=nMZxILLmFRs
どっちもどっち。いい加減にして欲しいと思いませんか?>創価、正宗の人
●アンチ創価と創価
またプンニカーおばさんは釈迦の弟子になったとはいえ、女人成仏を初めて説いたとされる?法華経成立以前かどうか分かりません。この辺は非常にあいまいなので分かりませんが 「テーリー・ガーター」のプンニカーおばさんの事は釈迦の弟子とバラモンの対話である可能性は非常に高いと思うのですが、下手をすれば、弟子になる以前かもしれませんよ?
それだけではありません。法華経非仏説の可能性が高いというのが、現在の仏教界の見解です。が、しかし法華経をある意味(日蓮、創価)において肯定すればする程に、「テーリー・ガーター」を否定しその女性たちを否定することになります。プンニカーおばさんは成仏できなくても注意したこと(経文に載るような素晴らしい行動の事)になります。法華経非仏説としても仏説としてもプンニカーおばさんが法華経の女人成仏を知っていて安心しながら?バラモンに注意したとは考えにくいのです。
つまり、もしかすると、一般人だったプンニカーおばさんとバラモンの会話が仏教の経文として残っている可能性があります。
この辺は友岡氏に聞いてみないと何とも言えませんね。ネットには一般人の創価の人と別れた苦しみのHPやBBS、ブログがあります。一般人の人が有る意味、経文を書いているとも言えます。つまり、創価学会が変わらない限り、一般の人から嫌われ続け、ネットに一般人は一般人の会話つまり、経文(証拠)が残ってゆくことになります。
なのでアンチにせよ創価にせよ、ブログやHPを消さないで残しておく事に意味がありますし、アンチ創価ブログが創価によって問題になり消されたら、それはそれで別にブログを立ち上げるべきでしょう。色々言いたい事や不満が出てくるはずです。
バラモンの言葉も間違った行為なのかもしれませんが、少なくとも経文の一部になって現代に残っているわけです。創価の人もアンチもリアルでもネットでも経文や証拠を残していることになります。
プンニカーおばさんが仏弟子である時の体験かどうかは不明です。しかしどちらにせよ、アンチ創価と創価で対話できないのは非常に問題だと言えますね。日蓮正宗と創価でどうして対話できないのでしょうか?
●では、このバラモンの言葉とはどんなモノでしょうか?
本来経文は、高い教えだけが残ると思われがちですが、バラモンの水浴びは愚かな行為であり、こうした不幸や悲劇があるからこそ、経文に残っているわけでしょう。ということは、現代でアンチ創価の批判や悲鳴や苦しみが経文として残っていることは不自然では無いのでは? もちろんやや極論であることには違いありませんが。
上記にあげたバラモンの言葉は「創価学会に入信しない人とは結婚したくない、出来ない」「邪宗の人と結婚すると不幸になるという教えだ」と同じ事だと思います。「私はこれをしないと天国に行けない。」ということでしょう。また、当人の不幸と言う意味で同じでしょ?
結婚と入信で問題が起こると、「個人と組織どちらの問題か?」と議論になります。個人の問題だ!などと言い放つならば、困っている人に、「一般人と創価学会員で結婚出来、信仰が違っていても常識的にやっていけます。入信を強制するのは間違っています。ご供養や子供の入会はよく相談してお互いが納得して決めて下さい。非常識は駄目です。」と言ってあげて下さいよ?>にっしーさん、gizmoさん、にいさん、他の創価の人。
「創価の私(にっしーさん、gizmoさん、にいさん)がそう言ったと相手に伝えて下さい、」って言えませんかね?説得できませんかね?今日も又、私の所に結婚と入信で悩んでいる女性のメールが来ましたよ? とある個人(一般人)の問題を知っている創価個人(にっしーさん、gizmoさん、にいさん)の問題として同苦して頂きたいところです。 誰にも納得がいかないことをするのはおかしいでしょう?納得いかない=経文じゃない。でしょ?当然、本人が納得いかないのに結婚の際に創価を強制退会も間違っています。
なので、どこかのアンチブログを攻撃したり、罵倒したりする前に、ご自分の身を正してネットにしろリアルにしろ周りの人に好かれることをなさっては如何でしょうか?>創価の皆さん
友岡氏もプンニカーおばさんのことを一番大好きな話、大好きなおばちゃん、といっていますよ?
本人の問題であり、組織に問題ないというならば、創価の一個人としてネットで「注意しない」のは問題ではないのでしょうか?組織の問題じゃない、というのはあまりにも冷たく感じます。
ただし、にっしーさんも犬のメメさん所の議論では問題があることは認めて私に同意して下さっています。もう一歩先の議論とお考え下さい。>ALL
やれやれ、まだ続きます。その2かな?何時まで続くか私にも不明。(笑)又、次もプンニカーおばさんの話です。P16かP23まででこの調子というか長文か。やれやれ。(^_^;)
以上
だからパーリ語仏典と言っても実際には様々な言葉で説かれていたとされています。(インドは言語(方言?)が一杯だったらしいし)
そりゃそうですよね みんなに分からなければ教える意味ないですからね。
層化みたいにいつまでも後生大事に遺文を古文のまま教えてても意味わからんて
全現代語訳せんのかね
>釈bookさん
>釈迦は民衆が分かりやすい言葉で教えを説いた
でしょうね。そうでないと民衆が理解して弟子になりませんから。
>パーリ語仏典と言っても実際には様々な言葉で説かれていた
おぉ。釈bookさんも結構詳しいですね。
>(インドは言語(方言?)が一杯だったらしいし
>そりゃそうですよね みんなに分からなければ教える意味ないですからね。
全く同感です。
>意味わからんて全現代語訳せんのかね
一応、事実を書いておきますが、御書の翻訳は既に終わっていて、過去に5,6センチの百科事典みたいなモノが何十冊?何百冊?も出ています。
御書は海外版もあって英語だけでなく、他の言語にも訳されています。
どの程度、正確に翻訳されているのかは知りません。日本の文化でアメリカにはない風習や言語があります。
「鳥と虫とは鳴けども 涙落ちず 日蓮泣かねども 涙ひまなし」
とかを翻訳するのに苦労したとか聖教新聞か何かで読んだ覚えがあります。
別記事でのNeilさんやHeckさんがよくご存じかもしれませんが、heckさんはもう来てくれないだろうな。。。。
というわけで、最近、はったり特急などで問題として取り上げられ、創価と日蓮正宗の間で教義が違うのは 「大問題」であり、こんな宗教団体に入信する事は非常に危険ですよ?>ALL ということです。
これは 感想 その2かその3、その4のどこに書くか不明ですが、ある程度は言及する予定です。
 ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ /___/|
( ´・ω・`) .| ∧_∧ !/!
/ \ |(´Д` )|/|
.__| |____| |______..| ///ヽ|/|
||\/___/| /| .| /./ | | _____
||\|..∧_∧ .|/.| (⌒\|__./ ./|/|/____/.|
||. | ( ) |/.| ~\_____ノ |.| || ∧_∧ |/|
|/ //|/.| \|.!/!!( )... | /.|
|| // ..|/.| \.!/ // ヽl/|
|| // | |二⌒) /|.|...|// | ll/|
|.|// .| | ヽ\∧_∧ (⌒\|__./ /.!
2chでこちらを知り、読ませて頂いていました。
最初に読んだ時、一瞬自分が書いたのではないかと思うほど、全く同じ思いが綴られており
いくつか読んで行っても同じ。笑ってしまいました。
なのに、どこが最初に読んだところなのか、覚えておらずですみません。
この本も読み、友岡さんは厭味で書かれた?と思ったほどです。
まだ籍はあるのですが、この本を読んで正しさをわからせたがった会員。
この本を読み、益々離れようと思ったこちらの思い。
読み手の洗脳状態の所以でしょうか?
始めに書きましたように、同じ思いというのは、読み進むうちに多少は違うことも
当然ありました。しかしバリ活で離れていく人が、よく似た思いをもっているのは
当たり前なんですよね。
それにしても恐いくらいでしたよ。笑ってましたが。ずっとうなづいていましたから。
・・・と、今後も来訪させて頂くことがあると思いますので、どうぞよろしくお願いします。
こんばんは。
>2chでこちらを知り、読ませて頂いていました。
>自分が書いたのではないかと思うほど、全く同じ思い
>いくつか読んで行っても同じ。笑ってしまいました。
そうでしたか。これは私のブログの事ですね?有り難うございます。
現役の学会員さんにそういって頂ければ私のブログも意味があると思います。
>覚えておらずですみません。
いえいえ。
>この本も読み、友岡さんは厭味で書かれた?と思ったほどです。
同感です。(笑)(^_^;)(^_^;A
>同じ思いというのは、読み進むうちに多少は違うことも当然ありました。
是非、違いなどを書いてください。
参考になるかもしれません。私とあなただけでなくこれを読んでいる人にね。。。。。。
これはブログ?でいいのかな????
>バリ活で離れていく人が、よく似た思いをもっているのは当たり前
はったり特急によくいらっしゃるナウシカさんが言っていましたが、
「真面目に頑張っていた活動家が退会するしないは別として不満や文句や違和感があり、はったりに来たり未活になってゆく」(主旨)
と言っていました。私もナウシカさんやもぐさんに同意しますよ。
http://blog.kansai.com/asakura
http://orange.ap.teacup.com/kouzou/
>ずっとうなづいていましたから。
これはブログ?本?どちらでしょうか?この記事の感想の事かな?是非、詳しく教えて頂きたいモノです。何かあれば方針変更や記事を追加しますから。
>いくつか読んで行っても同じ。笑ってしまいました。
>恐いくらいでしたよ。笑ってましたが。
これは嫌みの部分かな????(笑)、創価瓦解さんや釈Bookさんのようにはギャグは出来ませんが、ながーい目で見てやってくださいね。(^_^;A
まぁ、なんというか、笑ってしまいますよね。目的と手段を完全にはき違えているというか、これは信仰じゃないな。と思います。宗教ビジネスですよね。。。。
呆れるというか笑うというか、、、、ねぇ?
>どうぞよろしくお願いします。
こちらこそ。