創価学会の信仰に功徳はあるか?

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554.勧請師/祈祷師の言葉

2023年11月11日 00時32分42秒 | 他宗の勧請/祈祷
554.勧請師/祈祷師の言葉

●今現在の私の結論は今後も変わらないと思います。

 勧請/祈祷シリーズの他宗祈祷師Cさんに出会ってから知ったこと、気がついたこと、学んだことは様々にあります。それらの体験は出会いからすぐだった場合もあれば数ヶ月、半年、一年くらい一年以上経ってからなど様々な時期で異なっています。
他宗祈祷師の言葉や祈祷の結果と、準じる能力の方々からも影響を受け、今現在の私の結論があります。この数年間、思考や読書をして今後も変わらないと思うので書いてます。

●勧請/祈祷の説明をすると、

 日蓮遺文から読み取れる日蓮自身の祈り方や他人である信者の祈らせ方は、勧請/祈祷の観点から私が考察すると、勧請師/祈祷師の言葉ではないと考えています。

ブログ記事なので前提条件というか、教団や信仰として当たり前なので念のため書いておきます。
他宗祈祷師Cさんの教団においても信仰対象に頭を下げて手を合わせ唱え言をします。
唱え言は短いものもあれば長いものもあります。
他宗祈祷師Cさんがいない場合はそれを真似、他宗祈祷師Cさんと一緒に唱えることがあるわけです。

ですが能力のない私や他の信者さんが勧請/祈祷はできません。
神仏の存在を知りできるだけ祈祷師(Cさん)に教えられたとおりにしたい、ただそれだけです。自分一人で手を合わせる場合は信仰対象にお伝え出来たらいいと思う、ただそれだけです。
私に勧請出来ている意識や確信はありません。
過去記事に触れましたが他宗祈祷師Cさんが勧請されている状況を教えて頂くことは度々ありました。

創価など正宗系は「日蓮大聖人の御確信」とか「先生の大確信」とか確信という言葉が好きでよく見かけます。それらは勧請/祈祷の確信ではなく教理教学を指している場合が多いです。

●他宗祈祷師Cさんの教団の唱え言まとめ

他宗祈祷師Cさんの教団においては次の通りです。

信者も信仰対象に頭を下げ手を合わせ、他宗祈祷師Cさんと同じ唱え言をする儀式、作法があります。唱え言は短いものもあれば長いものもあります。
信者も信仰対象に頭を下げ手を合わせ、他宗祈祷師Cさんだけが唱え言をする儀式、作法があります。唱え言は短いものもあれば長いものもあります。

●勧請師/祈祷師は私に勧請祈祷の強制をしない

能力のない私や信者さんに他宗祈祷師Cさんは次のようなことは言いません。
「私(Cさん)と同じ能力を持った上で勧請/祈祷をしなさい」
「強情に祈りなさい」
「必ず祈りは叶う」
「何時間も唱え言をしなさい」などなど。

呵責謗法滅罪鈔(昭和定本)
「何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助給へと、濕木より火を出し、乾土より水を儲けんが如く強盛に申也。」

神仏に祈って信者が祈願成就をするのが普通の宗教と読者も思うでしょうし、過去の私も思っていました。おそらくは日蓮も。
はっきりと書きませんが神仏との繋がりを持てるのは能力のある有資格者だけです。どんな繋がりかは想像してください。

「私(Cさん)と同じ能力を持たずとも勧請/祈祷の真似事をしなさい」とは言われていません。
この私の文章説明は読者に誤解を招くかもしれません。
私、米山がする祈りと祈りの形式はあくまで勧請/祈祷の能力ない信者の祈りです。
信仰対象に同じ唱え言をしても厳密に他宗祈祷師と同じ勧請/祈祷ではありません。

(1)米山士郎(You側)はCさん(I側)に対して祈願成就のため信仰対象の勧請/祈祷のお願いする。米山はYou側。
(2)米山の依頼を受け、能力のあるCさんが勧請/祈祷する。CさんはI側。

●私が体験した勧請/祈祷について、日蓮は未体験か無理解だったのでは?

本記事のテーマは口で唱える唱題行を問題視しており心の中で唱える題目はテーマから外しています。

日蓮の法華曼荼羅が目の前にあってもなくても「題目を唱えれば諸天善神の加護がある」との教えは日蓮の希望的推測か祈祷の学問不足に基づくと私は考えます。

日蓮(I側)は遺文の相手が僧侶でも在家でも(You側)強情に祈れと書き残しています。ですから変だと私は考えています。
能力でなく思いやりなら問題ないでしょう。

聖人御難事(昭和定本)
「ただ一えん(円)にをもい切れ、よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」

この遺文も日蓮が見仏や祈祷をよく把握してないから、出てきた文章だと私は考えます。
また、この遺文には読者側がすべき信仰あり方と心構えなど精神面の立て分けがないと考えています。法華経や題目を唱えれば仏天や諸天善神の加護があるのが前提ですから、私には立て分けがないように見えます。後述予定です。

日蓮が祈祷師だったならば「在家信者の貴方(You側)が、この私(I側)日蓮に悩み事を言いなさい。勧請/祈祷僧である日蓮が勧請/祈祷し願います!」こうでなくてはいけないのでは?

●創価学会の指導は?

創価学会の指導は
「在家信者の貴方(You側)がお題目が足りない。」
「在家信者の貴方(You側)が強情に祈れ!です。」

呵責謗法滅罪鈔の遺文で検索すると創価学会のネットページが出てきます。
創価ユースメディアと英語で書かれています。タイトルには、なんと「心の限界を超えて」とあります。諦めるなって言いたいのでしょう。

勧請/祈祷の能力を持たない人にこんな煽る文章で、1日1時間とか30分とか10時間唱題とか指導したら、心がぶっ壊れて精神病になると私は推測します。
日蓮遺文の題目は一回か二回であることは過去に書きました。

●問題点をいくつか。

☆大きな問題点「日蓮遺文には見仏した証拠が殆どない」

日蓮遺文か日蓮関係遺文と言われる不動愛染感見記しか感見した遺文はありません。
下山御消息は祈雨出来た祈祷の結果のみ。

日蓮さんは食料をもらって大喜びした遺文の記録が数多くあります。見仏していれば大喜びし、更に天皇や政治家に国家諫暁や自己主張をしたでしょう。

☆大きな問題点「日蓮遺文には日蓮門下僧侶や在家信者で見仏した証拠が全くない?」

富木常忍がもしかすると祈祷していたかもしれないと私は思います。本物の能力持ちではなく、マネごとだったかもしれませんが。中山法華経寺の早期からの祈祷の成立も、真似事か本物かは怪しいですが儀式はしたのでしょう。
日蓮死後の門下で祈祷儀式が成立した記録が今後出てきても私は驚きません。問題は能力の有無です。
日蓮系僧侶が「今私は勧請できました。今目の前に仏菩薩がいます。」そんな記録あるのでしょうか?

在家信者で見仏したケースは殆どないでしょう。

●あのお寺行けば安産祈願(など)ができる、そうした伝承まで私は否定しません。

全ての宗派において、正宗でも日蓮宗でも日蓮系のお寺があり、あのお寺行けば安産祈願(など)ができる、そうした伝承まで私は否定しません。怪しい話かどうかは個々に調べないとわからないと思います。

続く

2023年12月3日 追記修正
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