甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

被災地日記 3

2011-05-15 09:04:50 | ツーリング
      緑いっぱいの東北
 28日、宮古市の宿、陸中宮古から国道45号線を北上、甚大な被害を被った市内の田老町へ。防潮堤は無残に壊れ、大きなコンクリートの塊は、海の中に横たわっている。さらに北上して岩泉町小本へ、ここは小本川の河口の街で、大きな防潮堤は田老町のように壊れていなかった、幅6m?高さ15m?のコンクリートの塊の防潮堤は、湾を囲むように大きな弧を描いていた。それでもその上を乗り越えた津波は、防潮堤の欄干をなぎ倒し集落を襲っている。家のコンクリート基礎を、掘り返した津波の傷跡が残っていた。
 江場さんの友人、佐々木信子さんに会うため、小本川沿いの国道455号線を西へ。小本川のきれいなことに驚かされる、川岸、堤は緑でいっぱい。新芽を出し始めた草や木々、菜の花、山桜、コブシの花が咲いている。自然がそのまんま、もう何も作る必要はない。このままの状態が最高の観光資源。ドライブしているだけで幸せな気分になれる。近くに、あの被災地があるということがうそのような・・・きれいな山と川が広がっていた。
 「道の駅いわいずみ」で、佐々木信子さんと会う。信子さんは「劇団ふるさときゃらばん」のお芝居に出てきそうな・・・都会からやってきた元気印のお姉さんがそのまんま、おばさんになったような人で、学生時代にハイヒールで、ここ岩泉に来て、「ここが人間の住むところだ」と感じて住み着いたという。今は、ご主人に先立たれ、娘さん、幼稚園の男の子のお孫さんと暮らしている。
 周りのじいちゃん、ばあちゃんは百姓、生活の大先生。水も水道じゃなくて山から引いている。「この前は、となりのじいちゃんにパイプのつまりを直してもらった。木を削ってさ・・・街の水道屋に行けば、200円くらいで売ってるらしいけど・・・」また「うちの孫は太鼓がうまいんだ」と、孫自慢もしていた。その孫が住む将来の環境を憂いていた。
 岩泉の集落には瓦屋根はない。青や赤のブリキの屋根が周りの緑の山に囲まれて、それが妙にマッチしている。さらに盛岡を目指して西に走ると早坂高原。湿地帯には水芭蕉が群生してきれいな花をつけている。神姫山(1124m)の高原に位置する岩洞湖は大きな湖で観光施設が一つもない?やはり最高の観光資源だ。その岩洞湖を右に見ながら盛岡へと車を走らせた。
 盛岡から花巻へは東北道を走る。宮沢賢治記念館は花巻の町を見下ろす小高い丘に建っている。ここでも、明治29年と昭和8年に起きた三陸大津波での被害写真が展示してあった。奇しくも、宮沢賢治が生まれた年と亡くなった年に三陸の大津波が起きている。
 その夜は、北良㈱(医療ガス産業ガス等を営業、笠井健常務は㈱エバで2年間研修勤務)の笠井専務と常務にご馳走になった。
震災後、初動は、食糧と水、燃料の確保、状況の把握、医療ガスが滞れば、患者さんの生命に即係わってくる。車は、ガソリン車、ディーゼル車、プロパンガス車がそれぞれにあったから、ガソリン等による燃料不足は、プロパンガス車があったから幸いしたという。
震災後、早い時期の写真には、被災した病院の医療ガス施設のまわりに、マグロ、さんまなどが散乱している。海産物の加工場から流出したものだそうだ。そんな惨状の写真を見ながら・・・笠井専務は「もう、がんばれ!日本!はよして欲しい。そんなに弱くないよ!被災地を甘やかさないで欲しい」と。
 翌朝、雨上がりの街に散歩へ出かけた。雲で覆われた北の方角には、まだ雪が残っている山が見える。近くを流れる和賀川は、やはり緑がいっぱい。河川敷の公園は整備されて、全天候型のジョギングコースがある。ゴミも落ちていない。北上市は、東北は、緑豊なきれいな街だった。
     2011年5月3日              笹原 真二
追伸
  この旅で、不思議に感じたことがあった。石巻湊小学校のとなりにあったお寺。津波で車が墓標の上に載っていたところでも、もちろん倒れている墓はあるのだが、意外に倒れていない。いろんな街でお墓を見たが、もちろん倒れているお墓もたくさんあるのだが、やはり、意外に倒れていなかった。
 神社の鳥居にしても倒れていない。神殿も被害を被っていないように思えた。少し高い所にあったからなのか?・・・それでも、仙台空港近くの穀倉地帯の真ん中にあった小さなお宮は、鎮守の森に囲まれて鳥居も神殿も無事のようで・・・そんなことが不思議に思えた。
「これより先、津波浸水想定区域」という標識が、それぞれの街で見かけられた。実際、その付近が、被害の分岐点だった。もちろんそれを超えているところもある。昨日、TVで明治、昭和の三陸大津波で被害を受けた先人が「これより下に、家を建てるべからず」というような石碑がいくつも残っていることを紹介していた。被災した人が,「先人が教訓として残してくれていたのに」と悔やんでいる様子も映し出された。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」人は、良い教訓、戒めがあってもその警戒レベルを「自分の都合の良いように」その数字を、上げたり下げたりすることがある・・・その時の都合が良いように。
このことは、今回の原発の問題、津波被害の問題、さらに言えば、我々の身の回り、生活の中、仕事の中のことまで、すべてのことに当てはまっている。


 
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