花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「インド旅行」(8)

2013年12月09日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

≪仏教の聖地≫

「ベナレス」で、かってイスラム教徒の襲撃を受けた歴史がある仏教寺院、「黄金寺院」に行った。
ここはとりわけ警備が厳しく、財布やパスポート、ボールペン1本も持ち込めないので、一切の持ち物を事前に近くの店屋に置いて行った。
混み合う細い路地の入り口で身体検査をされて、やっとその路地に入り、寺院の塀の外からちらりと上部を見た。確かにそこに黄金に輝く寺院があった。

 

また「ベナレス」の隣町「サルナート」は、2300年前に「ネパール」の「ルンビニー」で生まれ、出家してインドの「前正覚山」で苦行をしてから「ブッタガヤー」で悟りを開いた「ゴータマ・シッタールタ(仏陀)」が、初めて5人の人に説法をした土地である。
その場所に小さな「ムルガン・クティ」寺院が造られていた。
そこでは、3人の僧侶と、やって来た仏教信者達が、熱心に祈祷していた。
圧巻だったのは、この小さな寺院の三面の壁全体に釈迦の生涯と仏教の教えが誰にでも分かるような絵で描かれていた事だ。描いたのは日本人画家「野生司香雪」だという。その壁画は色が薄く風化していたので、私はその内修復が必要だと感じた。

 

  

そこから300m程離れた場所に紀元前3世紀に建てられ、高さが43.5mもある円形の巨大な「ダーメク・ストーパ」があった。
スリランカから来たらしい白服に身を包んだ巡礼者のグループが祈祷していた。ここは確かに仏教にとっての心の故郷、聖地だった。

  




ここでインドの歴史の変遷と宗教について簡単に振り返りたい。

「仏陀」が仏教を開いた後、「マウリア朝」の伝説の皇帝「アショーカ王」はインド全域に領土を拡大させ、仏教を広めて行った。

紀元120年頃、中央アジアから来た「スキタイ人」はインド北西部を支配し、やがて戦争や婚姻によってインド北部に勢力を拡大し、2世紀に渡るグプタ朝を開いた。この時、仏教に変わって「ヒンズー教」が取って変わり、サンスクリット文学が花開いたという。

7世紀になると中央アジア(今のモンゴル)からやって来た「イスラム」の戦士「ムハマド」がインド領域を財宝目当てで侵略するようになり、13世紀初めにデリーの王を討ち負かして新しい国家を建設した。副官に「クトゥプ・ミナール」を建てさせ、イスラム教の文化、政治で統治をして行った。

その後、1525年に中央アジアのティムール朝サマルカンド政権君主「バーブル」がやって来て、ムガル帝国を築いた。後継者フマユーンの統治後、1556年に後継者となった息子「アクバル」は、インド北部とインド南部の一部まで勢力を拡大し、 「イスラム教」と「ヒンズー教」の融和を図った

1948年には、ポルトガル人「バスコ・ダ・ガマ」が喜望峰を経て、インドの「カリカット」に到着。16世紀に「ゴア」を植民地にし、1961年まで支配した。
その後オランダ、デンマーク、フランスがインド亜大陸の支配を目的に次々とやって来たが、結局イギリスがその支配者となり、1605年「東インド会社」を「カルカッタ」「ボンベイ」「マドラス」などの貿易拠点に作って、インドの支配権を拡大して行った。
ヨーロッパ人達はキリスト教を布教し、各地に協会を建てた。

こうした歴史から分かる様に、インドに生まれた仏教は、やがてイスラム教、ヒンズー教などを掲げて台頭する勢力に抑圧され、衰退して行かざるを得なかったのだろう。
また、イギリスから独立する際、「イスラム教」と「ヒンズー教」の融和は難しく、時に流血の事態も起き、遂に、1947年には分離独立しかないという結論になって、イスラム教徒は「東パキスタン(バングラディッシュ)」と「西パキスタン」として独立した。

現在はヒンズー教徒82%、イスラム教徒12%、キリスト教徒2.4%、仏教徒0.7%、その他はシーク教徒、ジャイナ教徒などとなっている。
仏教は、インドからスリランカ、中国、タイ、インドネシア、日本、韓国などに伝わり、発展し、花を咲かせた。

                             






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