1ヶ月前に種をまいたタマネギですが、ひょろひょろながら育ってきました。今回、タマネギの周りに生えてきた雑草を取り、ついでに混んでいる所を間引きしました。去年と異なり、タマネギ育苗には向かない西日しか当たらない畑です。そのため、やや茎が細いように思います。再度種まきするには時期が遅すぎます。10月末~11月中の植え付けまでに、肥料を十分に施すなどして丈夫な苗にしようと思います。
タマネギ苗間の草取り、混んでいるところの間引き
細長い頼りないタマネギ苗です。今の時期は、しっかり根付いていません。そのため、雑草と一緒に苗も一緒に抜いてしまうことがあります。タマネギ苗の根元をよく押さえて、雑草だけを摘まんで抜きます。さらに、苗と苗との間隔が0.5~1cmになるように間引きします。これまた、苗をまとめて一緒に抜かないように注意します。
タマネギ苗間に生えた雑草 雑草を取ったタマネギ苗間
あらかた雑草を取ると施肥します。元肥を入れていなかったため、筋苗間の土を軽く耕し肥料を与えます。今回は、即効性がある化成肥料を少しばかり筋苗間にまきました。そして、ジョロで全体に水まいておきました。植え替えする11月中旬までに太さが鉛筆程度に育てば良いです。植え替えまでに、タマネギ苗を植え替えする本畑を用意しておこうと思います。
筋まきしたタマネギ間を軽くたがやして施肥
鳩子の滝から、かつての日積~由宇古道をどんどん下りました。途中、来た道ではなく左へ分かれる道に入りました。歩きながら付近を見渡すと、その昔は豊かな農村であったことを思わせる田んぼや畑がありました。しかし、今は荒れた田畑が目立ちます。しばらく歩いていると、あそか苑と県道に向かう三字路に着きました。あそか苑に向かう道を選びました。その理由は、田んぼのにある早乙女塚を訪れるためです。上り坂を登りきると、間近にあそか苑の建物が見えました。そして、早乙女塚も見えてきました。
福楽寺跡でしばし休憩、汗だく中で水分補給
ところで、乙女塚と呼ばれる塚はあちこちにあります。西田布施、田布施木地、平生、そして、日積などです。田植えや苗取り時に、お侍に切られて亡くなる早乙女を弔う塚です。泥がお侍さんに当ったために、怒ったお侍に切られるのです。それにしても早乙女塚が多いように思います。お年寄りや男性が切られた話はないです。そのため、何らかの原因で亡くなった里人を早乙女塚と呼んで弔ったのではないかと思います。日積や田布施の早乙女塚は、たくさんの小石が積まれています。平生の早乙女塚は、大きな石がポツンと一つ田んぼに置かれています。
石積みの早乙女塚 正福寺の名水 道端のお地蔵様
早乙女塚を見終わると、元来た道を引き返して三字路に戻りました。次に福楽寺の名水を訪れました。その名水に向かっていると、左方向にお地蔵様が見えました。名水の前にそのお地蔵様を訪ねました。お地蔵様は古道に面して安置されているケースが多いです。そのため、お地蔵様前の道はかつて古道だったのではないかと思います。
山の下に建つ福楽寺跡? ふれあいどころ437で休憩
お地蔵様を拝むと、福楽寺の名水に行きました。平らな場所に穴が掘ってあり、そこに勢いよく水が流れていました。その水が名水です。腰を深くかがめないと水を飲めません。そのため、ようやく届いた手を洗いました。歩き続けて暑かったため冷たくて気持ち良かったです。続いて、福楽寺跡に向かいましたが跡は残っていませんでした。わずかに、お墓が数基とお寺を思わせる石垣などが残っているだけでした。福楽寺で水分補給休憩した後、スタートしたふれあいどころ437に向かって歩きました。下見に参加された方々、お疲れさまでした。本番ウォーキング時には涼しくなっているといいですね。
柳井市日積の史跡巡りウォーキング下見コース
コロナ惨禍のためしばらく休止していた少年少女発明クラブが再開しました。コロナ惨禍がなければ、9月上旬にはアイデア工作を出品する予定でした。しかし、一年で一番工作が忙しい7~8月の工作がコロナ惨禍で中止となりました。そのため、アイデア工作は完成できませんでした。そのため去年に続いて工作を出品することができませんでした。10月から工作再開とのことで、途中まで作っていたアイデア工作を仕上げることになりました。出品はできませんでしたが、12月に田布施町で製作発表しようと思います。コロナ対策が進めば保護者も招待できると思います。
8月直前に中断した工作、活動再開して作品完成へ
今回の活動再開中に作品を完成した子供が3人いました。その子は、自分の作品の紹介文を書いて、作品を写真撮影しました。工作のチャンスは次回までです。次回までに作品を完成しなければなりません。私は、お休みした指導員の子供達の工作を支援しました。うち一人が作品を完成しました。
もう少しで完成 動きをなめらかに 色を塗ったら完成
去年も今年も、コロナ惨禍で一年を通じた工作活動ができませんでした。夏には完成するはずのアイデア工作は完成せず、山口県の展示会に提出できませんでした。さらに、秋に大会があるチャレンジ創造コンテストも中止となりました。アイデア工作完成が8月から10月に延期したため、元々10月にする予定だった木工工作は今年はできませんでした。とにかく、コロナ惨禍で揺れた一年でした。来年はコロナ対策が進み、一年を通じて活動することができたらと思います。
どう工夫すれば良いかな どう組み合わせようか?
地蔵堂から県道に出てしばらく歩くと、鳩子川に出合います。面白い川の名前です。なぜ川の名前に「鳩」付いているのでしょうか。不思議です。その川の上流に向かってもくもくと歩きました。この鳩子川に沿う道は、かつては日積と由宇を結ぶ古道でした。由宇に住んでいた方にうかがうと、その昔は銭壺山を経由して日積と由宇は交流があったそうです。例えば、日積の八朔踊りに由宇からも来ていたそうです。銭壺山を経由して親戚付き合いもあったそうです。20年位前に東京の山間地域の昔を調査した時、やはり人々は山道を通じて交流していました。車社会の今、それが絶えてしまいました。
鳩子の滝傍、涼しい風が通る木陰でお昼休憩
鳩子の滝へ向かって2km位上り坂が続きました。木陰に入ると涼しいのですが、日向に出ると夏のような暑さです。次から次に汗が出てきます。なるべく木陰を選びながら歩きました。鳩子の滝に近づくと綺麗に稲刈りされた棚田が見えてきました。谷に向かって棚田が何重にも重なっていました。谷間の細長い棚田はおそらくトラクターが入ることができません。この棚田でお米を作っている方の苦労が分かるような気がします。
菱が生い茂る沼 鳩子の滝傍の地蔵様 葉書の樹の葉
やっとの思いで鳩子の滝に付きました。上り坂の連続のため疲れがたまりました。滝に到着すると、すぐにお昼休憩にしました。日が当たらない木陰を各自選んで座りました。日差しは猛烈に暑いのですが、山風が吹き抜ける木陰は意外に涼しかったです。30分位休憩したでしょうか。休憩が終わると滝を覗き込み、葉書の樹の葉を取って引っかきました。その引っかき傷がだんだん黒く浮き出てきました。
鳩子の滝、滝を上から覗き込む 鳩子の滝上流の石垣跡
予定では、鳩子の滝からすぐに道を下ることにしていました。しかし、銭壺山へ向かう古道がまだ歩くことができるか、山奥に続く道を登ってみました。すると、廃屋が建つ石垣がありました。さらに進むと、やはり廃屋がありました。まだ新しい建物なので数年前に放棄したように見えました。まだまだ道は奥に続いていましたが、今回は古道を確認しただけで引き返しました。
柳井市日積の史跡巡りウォーキング下見コース
数日前、刈り取った稲をはさ掛けする支柱を立てました。そして、バケツ稲を刈り取ってはさ掛けしました。今回、わら細工用の稲を栽培する一坪田んぼの稲刈りをしました。栽培した稲の品種はコシヒカリです。この稲は「こけひかり」と呼ばれています。つまり、背が高いため倒れやすい品種のはずでした。ところが、背が低く育つように改良されたのか、背が高く育ちませんでした。それとも育て方が悪かったのかも知れません。わら細工用には背が高い品種が良いので、来年はもう少し背が高い品種を栽培しようと思います。それと、一坪ではなく、五坪位に田んぼを広げてみようかとも思っています。
わずか一坪の田んぼの稲刈り、すぐに刈り取り終了
今から9年前東京郊外に暮らしていましたが、普通の田んぼで毎年のように稲を栽培していました。そして、近所の小学校の田植え、稲刈り、脱穀体験用の田んぼにしていました。ただし、昭和初期の稲作方法でしたので籾ふり、手植え、苗取りや手植え、稲の手刈りや足踏み脱穀などでお米を収穫していました。数人で協力しながらの稲作支援でした。病院の同僚を呼んで田んぼでバーベキューをしたこともありました。楽しい思い出ばかりの田んぼでした。
鎌で稲株を切る わらで稲株を結束 刈り終わった稲株跡
さて、たかだか一坪の田んぼです。数分とかからず稲刈りは終わっていまいました。あまりにもあっけない稲刈りなので、物足りなかったです。私が子供の頃は一年分食べる以上のお米を作っていました。そのため、大人も子供も総出で米作りをしていました。子供で手が小さかった私は、刈り取った稲株を何束も掴むことができませんでした。そのため、いったん刈り取った稲株を地面に置いて結束していました。鎌で手を切ったりしてよく怪我をしました。一家総出の稲刈りの光景が、今でも瞼に浮かびます。
一坪田んぼで収穫した稲束をはさ掛け
10/31に行われる第一回目の国木田独歩に関わる史跡解説ウォーキングの下見に行ってきました。観光協会,遊歩クラブ,役場の方々などとご一緒しました。本番と同じに8:30に旧麻里府小学校跡地をスタートしました。最初の史跡は、旧麻里府小学校跡地前にある住吉神社です。この神社で、独歩は意中の方に求婚したとのこと。そのお話をしながら、この神社の由来や暴れ神輿についてのお話をしました。続いて、麻里府の尾津中に行きました。そして、独歩が家庭教師をしていた石崎家のお話をしました。その後、馬島が見える砂浜、麻里府公民館の独歩歌碑などに行き解説した後、麻郷の戎ヶ下に向かいました。9月上旬の暑さで、歩きながら汗が噴き出てきました。
独歩に関わる史跡解説ウォーキングの下見に参加された方々
戎ヶ下に着くと、渡船場跡に行きました。水場側に残っている桟橋跡を見ながら、独歩の短編「少年の悲哀」のお話をしました。少年と遊郭に勤める女性のお話です。水場には実際2軒の遊郭があったので、それを独歩は題材にしたのでしょう。続いて、国道188号線に出て,城山や塩田跡のお話をしました。次に米出を経て麻郷神社に行きました。独歩の時代には惣田山招魂社と呼ばれていました。今でも4月1日に慰霊祭が行われています。
麻里府から見た馬島 麻郷神社(惣田山招魂社) 独歩仮寓の吉見家跡
次に独歩が仮寓していた吉見家跡に行きました。そして、傍の東家跡にも行き、振り返りながら高塔山の説明もしました。その後は麻郷小学校まで歩きました。到着すると、校長先生が待っておられました。冷たい麦茶、ありがとうございました。麻郷小学校を出ると、延々と旧麻里府小学校跡まで歩きました。ぎりぎりセーフの12時過ぎでした。暑い中、下見に参加された方々お疲れさまでした。本番の国木田独歩に関わる史跡解説ウォーキングではよろしくお願い致します。
今回歩いた、国木田独歩に関わる史跡解説ウォーキング下見コース
9月に入ってからずっと、仕事や野良仕事などの合間に毛糸布を織り続けてきました。ようやく織りの終わりが見えてきました。経糸はまだまだ余裕はあるのですが、去年織った毛糸布よりも長く80cm位になりました。それに、経糸の状態がますます悪くなり、これ以上織ることか困難になってきたこともあります。さらに、今月から来月にかけて国木田独歩関連で学校に講義に行ったり、独歩に関わる史跡を巡って解説するなどの企画が目白押しです。そのため、織りはここで切り上げることにしました。
経糸にまだ余裕があるものの、ここで織りを終了
いろいろな行事でここ数日間心身共に疲れているのか、織りが雑になってきたように思います。丁寧に織ることができなくなってきたのです。経糸の撚りが解けたり、綜絖穴に経糸が詰まったり、はたまた横糸が切れたりなど散々です。これまで、それらを修復をしながらの織りの連続でした。目標の80cm位の長さに織ったので、これで良しとしました。
撚りが解けた経糸 綜絖穴に詰まった経糸 切れてしまった横糸
出来上がった毛糸布を伸ばしてみると、ミスがたくさん見つかりました。中央部の亀甲模様の大きさがみな違うのです。また、鋭角の部分が尖っていない箇所もあります。また、直線部がたわんでいる箇所もありました。今年は試作品だと思うことにしました。
来年は、第一に経糸も横糸も太さが均一な双子を紡ごうと思います。太さがまちまちだと、どうしても模様がゆがむのです。荒さも目立ちます。第二に、毛糸の色を変える位置を明確にすることです。模様の図面又は設計図を書いておく必要があると思います。
今回織った毛糸布は、織機から切り離してフリンジ加工します。やっと終わりが見えてきました。
長さ80cmに達した毛糸布 織り間違えたため、織り直す
10月の史跡巡りウォーキングは柳井市の日積にしました。このウォーキングクラブも来年で10周年を迎えます。そのため田布施や平生はほぼ歩きつくしました。そのため、最近は田布施周辺の柳井市,光市,上関町をウォーキングすることが増えました。そのうち周南市や岩国市の史跡を巡りするようになるとかと思います。今回は柳井市の北方面にある日積を歩きました。集合場所は柳井市日積支所が傍にあるふれあいどころ437です。雲一つない真っ青な空でした。私もを含めて5人で史跡巡りの下見をスタートしました。
誰もおらず静かだった大帯姫八幡宮の広い境内
ふれあいどころ437をスタートするにあたって、近くにある松島詩子の碑を見ました。高さ10m位に育ったマロニエの幹の下にその碑がありました。松島詩子は大帯姫八幡宮境内にあった大里小学校を卒業しました。この地は松島詩子の生まれ故郷なのです。松島詩子碑を見終わると、猫の絵が描いてあるたくさんの石を見ながら、大帯姫八幡宮に向かいました。少し歩くと、境内に向かう長い石階段を登りました。足の悪い方なら気持ちが萎えるようなハードな石階段です。石階段を登り終わると、大里小学校跡地を含む広い境内を進みました。すると立派なお社がありました。参拝を済ませると、引き返しました。お社近くの会館には、お祭りの準備をする氏子さんがいました。
松島詩子碑とマロニエ 境内に向かう石階段 別の石階段を降りる
大帯姫八幡宮を出ると、別の急な石階段を降りました。その石段には銀杏が大量に落ちていました。その銀杏を避けながら千鳥足で降りました。次に地蔵堂に向かいました。途中、野良仕事に向かう里人に声を掛けました。いろいろお話をしていると、天照皇大神宮教を起こした北村サヨ氏の実家を教えていただきました。火事で家はもうないとのことでした。地元の方の情報は大切です。
百姓一揆で亡くなった方の碑 集会所でもある地蔵堂
しばらく登り坂を回り込むように歩くと、地蔵堂が見えてきました。今も地元の集会所として使われているお堂です。江戸時代享保年間の飢饉で、日積のお百姓さん達が一揆を起こしたそうです。その代表が死罪となった碑が、この地蔵堂に建っていました。享保年間は、田布施でも人口の1/3が亡くなるひどい飢饉がありました。日積でも人々は飢饉に苦しめられたのでしょう。
柳井市日積の史跡巡りウォーキング下見コース
コロナ惨禍でしばらく中止していた麻郷小学校 放課後学習の成器塾が再開しました。6月から刺し子キットを使って縫う練習をしてきました。今回、最後の一人が刺し子を完成しました。早く完成した子は、余り布を使って小袋やコースターを作ったり、アップリケを布に縫い付けたりしていました。早く作ったからと遊んでいる子は一人もいませんでした。楽しかったのでしょう。
来月はテッシュケースか布マスクの製作を予定しています。12月は去年と同じようにクリスマス用フェルト細工をします。1月は調理で、ホットケーキかお汁粉かバスタ料理を考えています。6年生には、卒業記念として動物糸巻きを作ってもらおうかとも思っています。
8人全員が完成させた刺し子、縫物の練習になったかな。
刺し子とは言っても、本格的には最初にオリジナル模様をデザインするようです。しかし、裁縫自体が生まれて初めての子供もいますので、刺し子を体験するキットを購入して使いました。あらかじめ、デザインされており、わざわざ運針場所もチャコで描かれています。しかしながら、それでも難しかったのか規則正しく等間隔で縫えない子もいました。まあ、針と糸で刺し子を初体験して良かったのではないかと思います。
指導員に見守られて アイロンで平らに 指導員と一緒に
刺し子を縫った後、折り曲げた縁を手回しミシンで縫いました。この手回しミシンに興味を持った子がいました。その子が、他の子の刺し子の縁を縫ってあげていました。何十年も前のレトロで重厚な手回しミシンが心を捉えたのでしょう。個人的にはこの手回しミシンが大好きです。電源は必要ないし、足踏みミシンのように大きくなく。軽いので手で持って移動できます。そのため、キャンプにも持って行けます。足踏みミシンが普及する前のレトロなミシン、今後も使おうと思います。
レトロな手回しミシンで縁取り 好きな模様の布選び
ガソリンをキャブレターまで送る燃料ホースは全て新品に取り替えました。続いて、ハンマーナイフモアのキャブレターの分解・修理をしました。とても古い農機具のため、最初キャブレターの分解方法が分かりませんでした。しかし、しばらくキャブレターの取り付け部分やフロートの部分などを観察していると、分解手順が頭の中に浮かんできました。まずはスロットル部分の金棒とバネを外しました。次に、キャブレターの取り付け部分のナットを外しました。指先がやっと入る狭さなので、ナットをゆるゆると外しました。また、ナットを落とさないように注意を集中しました。
ハンマーナイフモア本体から取り外したキャブレター
取り外したキャブレターは、今のものに比べて大きめです。取り外しは困難でしたが、その後の分解修理は比較的楽でした。ガソリンや空気が通る穴に、キャブクリーナーを吹き付けました。また、圧搾空気を吹き付けたりしました。次にフロート底部を取り外しました。フロートはよく動きました。しかし、ガソリン量を調節するニードルバルブが固着していました。
キャブの取り外し 外したキャブレター フロート部を分解
そこで、フロートを取り外すと同時に、ニードルバルブも取り外しました。ニードルバルブは極小ですので、メガネがないとよく見えません。ニードルバルブをよく見ると、側面がわずかに錆びていました。ガソリン内に侵入した水分で錆びたのかも知れません。ニードルバルブがスルスル動くように磨いた後、元の位置に戻しました。次に吸入口のエアーフィルターを取り外して、圧搾空気でゴミを飛ばしました。
分解・修理したキャブレターをハンマーナイフモア本体に取り付けました。ガソリンを入れて 始動ロープを引くと、エンジンがかかりました。ですが、スロットルが硬くて回転を上げることが困難です。次回は、スロットル部の修理をしました。
取り外したニードルバルブ 吸入口のエアーフィルター
栽培していた白綿(バルバゼンセ)が収穫時期を迎えました。以前は和綿も育てていましたが、管理が悪くて混同してしまいそうになりました。そのため、今は繊維がより細く長い洋綿である白綿(バルバゼンセ)だけを栽培しています。まだ未収穫ですが、他の畑に茶綿と緑綿も栽培しています。今回は、白綿だけを収穫しました。綿は稲や麦のように一気に収穫できません。時間をおいて花が咲いて、時間をおいて綿がはじけます。そのため、だらだらと霜が降るまで収穫が続きます。
ようやく白綿(バルバゼンセ)を収穫する季節が到来
和綿は日本の気候に合うように長年品種改良がされました。ところが、洋綿であるバルバゼンセは欧州や中東で改良されたからでしょうか、日本の長雨にめっぽう弱いです。早めに収穫しないと雨でカビが生えることがあります。なるべく水分が早く飛ぶように、収穫時に綿をほぐしています。12月になると、さすがに寒さや霜で収穫できません。その頃に、綿を紡いで糸にします。私はそれほど細く紡げないので、自家製タオルにでも織ろうかと思っています。
白い綿の部分だけを収穫 私の背以上に伸びた綿
たかだか一坪の笑われそうな田んぼ、稲穂が垂れてきました。この田んぼは、畑を掘って底にビニールシートを敷いて作りました。わら細工用の藁を確保するためです。今回は、刈り取った稲をはさ掛けするための竹を切り出しました。そして、稲刈りした稲を縄で縛って、すぐにはさ掛けできるようにしました。ついでに、バケツで育てた稲を刈り取りしました。そして、米粒の数を数えてみました。
バケツで育てた稲を刈り取って、はさ掛け
はさ掛けをするため、竹林に行って竹を切り出しました。長さ160cmの竹6本と長さ2mの竹1本を切り出しました。前者3本を縛って支柱にし、それを2組作ります。その2組を支柱にして、その上に2mの竹を横に掛けます。その2mの竹に刈り取った稲を次々に掛けていきます。今回は、刈り取ったバケツ稲だけを掛けました。
竹林で竹を切り出す 三本の竹を縛る はさ掛け用に
今回刈り取ったバケツ稲(コシヒカリ)ですが、穂が出ている茎を数えると24本でした。そして、実った米粒を数えると平均して60粒/1穂ありました。すると、24 本 x 60 粒 = 1,440粒のお米を収穫できたことになります。つまり、1粒のお米が1,440倍に増えたのです。これは、お米の生産効率がとても良いことを示します。麦ではこうはいかないと思います。弥生時代以降、お米を作り始めたことが人口増加に寄与したのではないでしょうか。次は、一坪田んぼの稲刈りをしようと思います。
バケツ稲の刈り取り バケツ稲の収量を計測
展望の良い峨眉山東端の崖を下りると、毛利敬親公顕彰碑広場に出ました。そして、峨眉山自然研究路に向かいました。木々が茂りすぎて最近は暗くなっている路です。八十八箇所のお地蔵様のうち五十番頃の巡礼ルートが重なっています。その後、広い道に出て小中学校を回り込むように道を歩きました。しばらく歩いて普賢寺に到着しました。このお寺の駐車場で、二人の方と合流しました。合流すると、内湾が見える道を歩きました。汗が出るような良い天気でした。
普賢寺にて、今回の史跡巡り参加者
真夏の後半は雨ばかりでしたが、9月後半以降は一時期を除いて好天が続いています。風は秋なのに、日差しは真夏のままのようです。この史跡巡りから帰った次の日、手や腕が日焼けで赤くなってしまいました。最近の気候は、9月は8月、10月は9月と思った方が良いようです。日除けの傘を持ってきた方は、大正解でした。
峨眉山自然研究路 内湾側が見える道 昔の灯台を見学
さて、海側の道を歩いていると、昔に使った灯台跡の史跡がありました。昔は電気が無かったので、ロウソクか油を燃やしていたと思います。そのため、わずかな光しか見えなかったのではないでしようか。しかし、昔の人は目が良かったため見えたのではないでしょうか。説明を読むと日本海側のある港に最初に設置されたそうです。その後、この室積に設置されたようです。それだけ、室積は船の行き来が盛んだったのです。
開いていたお店を覗く 海商通りをのんびり散策
ところで、海商通りに面する家の前に四個と五個とか四角い石が埋められています。不思議に思っていましたが、聞くところによると意味はないとのこと。がっかりしました。、家の格を表すのか、商売の種類を表すのかと思っていました。しかし、何故石を埋めたのでしょうか。誰かが発案したに違いありません。それとも廃材として出た石を再利用したのでしょうか。不思議で謎なのは相変わらずです。今回の史跡巡りウォーキングに参加された方々お疲れさまでした。次回は柳井市の日積の史跡を巡る予定です。
今回巡った峨眉山や海商通り周辺の史跡
秋冬野菜の種まきや長ネギなどの植え替えが終わりました。今回は長ネギの一種のやぐらネギの植え替えをしました。このネギを増やすには二つの方法があります。今回のように株分けする方法と葉の先端にできる芽を植える方法があります。通常のネギは、ネギ坊主に花が咲いた後にできる種をまいて増やします。しかし、やぐらネギはネギ坊主の部分に芽ができるのです。まさに「やぐら」のようです。その芽を取って植えるのです。
やぐらネギを掘り出し、株分けして植え替え
やぐらネギは一年の間に株がひしめくように増えます。その根を株分けするのです。しかし、株分けする時に長ネギと同じ力で引っ張ると、ポキッと折れることがあります。そのため、私は2~3本ごとに分けています。その株分けしたやぐらネギを植え付けた後、ジョロで水をかけておきます。一週間程度で根付きます。やぐらが出始めると葉が硬くなります。そのため、やぐらが出る前の葉を収穫します。
根を2~3本に分けて植える 植えた後にジョロで水やり
故障しているハンマーナイフモアを修理する時間がとれないため、小さいミニハンマーナイフモアを使うことにしました。ところが、始動ロープを引っ張ってもエンジンがさっぱりかかりません。キャブレター部分を見て「やってしまった!」と後悔しました。
去年使い終わった後、ガソリンを抜かないで燃料コックを開けたままだったのです。保管ミスです。プラグは正常でしたので、キャブレター内部が汚れて詰まったようです。がっかりです。最近、農機具を使い終わった後のメンテナンスがいいかげんになることが多いのです。やれやれ、キャブレターを取り外して掃除する羽目になってしまいました。恥ずかしいことです。
キャブレターを取り外しているミニハンマーナイフモア
このミニハンマーナイフモアは刈り取り幅が40cmです。小さな畑専用に草刈りするために8年位前に購入しました。毎年のように使ってきましたが、これまで特に故障することはありませんでした。ただ、幅が40cmしかないため、今修理中の60cmの物よりも草刈り効率が落ちます。どちらかと言うと、狭い畑の草刈りに向いています。狭い畑や花壇に使うことが多いです。
キャブーBOX取り外し キャブ取り外し 外したキャブ
さて、取り外したキャブレターですが、各穴にキャブクリーナーを吹きかけたりして掃除しました。1番細い穴があるジェット部分は取り外しました。そして、瓶の中に入れてキャブクリーナー液に浸けたまま1日置きました。その後圧縮空気を吹き付けるなどして綺麗にゴミを吹き飛ばしました。
キャブレターを掃除し終わり元通り組み立てると、元気にエンジンがかかりました。農機具は使い終わった後の保管がとても大切です。ガソリンを抜かないで燃料コックを開いたままにして保管すると、いざ使う時に惨めな目にあいます。反省しきりです。
直したキャブレターを取り付け ガソリンを入れて動作確認