錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~悲しみを乗り越えて

2013-05-25 01:10:53 | お坊主天狗・新選組鬼隊長
 9月5日の朝、錦之助は変な夢を見て、目を覚ました。胸騒ぎがして、四谷の伯父吉右衛門のうちへ電話をかけた。病床にあった伯父のことが心配になったからだった。
 吉右衛門は七月の歌舞伎座公演を終え、その後は休暇をとって静養していたが、八月半ばから肝臓炎が悪化して寝込んでいた。八月末に杏雲堂病院に一時入院して、四日の夜に四谷の自宅へ帰っていた。
 電話に出た伯母の話では、昨夜は家へ帰って安心したらしく、ぐっすり眠ったし、変わったことはないということだった。
 錦之助は良かったと思い、撮影所へ向かった。
 『お坊主天狗』がクランクインして、その撮影中だった。
 子母澤寛の小説の映画化で、主役のお坊吉三は片岡千恵蔵。錦之助は阪東小染という女役者で、千恵蔵とは初共演だった。早撮りで有名な渡辺邦男がメガフォンを取り、前後篇の二部作から成る大作であった。前篇の公開予定が9月21日に迫り、あと十日で前篇を撮り終えなければならないといった切羽詰った状況であった。
 朝から撮影を続け、夜も追い込み撮影があって、錦之助がスタジオで自分の出番を待っている時だった。ラジオ京都の局員が息を切らせて、錦之助のほうへ駆け寄ってきた。
「吉右衛門丈が今日お亡くなりになりました」と彼は言った。
 錦之助は血の気が引いた。今にも気を失うかのように目の前が真っ白になった。局員から何かひと言と、マイクを向けられても胸が詰まって声が出なかった。
 吉右衛門の訃報は撮影所の所内にも広まった。
 初代中村吉右衛門 昭和29年9月5日午後2時52分、心臓麻痺で死去。享年68歳。

 千恵蔵の計らいで、錦之助は撮影を一日休ませてもらい、その日の夜行ですぐに東京へ帰った。列車の中では、伯父の思い出と悲しみが交互に湧いてきて、涙が止まらなかった。一睡もできなかった。
 翌朝、東京駅に着くと、すぐに四谷の伯父の家を訪ねた。
 吉右衛門は薄化粧をして美しい顔で寝ていた。紋服を着て、胸には文化勲章が飾ってあった。
 最後の言葉は、娘の正子に言った「あたしは寝ますよ。ほんとうに寝ますよ」であった。父時蔵も臨終の際にいて、あっという間に亡くなったという話だった。
 その日、錦之助は通夜を途中で抜け、夜遅く、飛行機で京都へ帰った。
 葬儀は翌々日の8日であったが、親族では錦之助だけが参列できなかった。
 錦之助は『お坊主天狗』の撮影に追われていたが、控え室やセットで一人になると急に悲しみが襲って来て、涙が溢れてならなかった。
「仕事をおろそかにして何です。役者なら役者らしくしなさい」という吉右衛門の叱声が聞こえて来た。錦之助は心を引き締め、崩れたメーキャップを直すと、真剣に仕事に打ち込もうとキャメラの前に立った。



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