錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~監督松田定次

2013-05-20 17:47:40 | 【錦之助伝】~スター誕生
 『八百屋お七 ふり袖月夜』で、錦之助は初めて松田定次の演出に接し、懇切丁寧な指導を受けた。松田定次(1906~2003)は当時47歳、東映のトップ監督で、戦後、千恵蔵と右太衛門の数多くのヒット作を手がけ、東横映画そして東映の屋台骨を支えてきた第一人者であった。昭和31年1月以降東映オールスター映画を手がけ、時代劇の巨匠と呼ばれるようになるが、決して偉ぶらず、人柄は穏健、怒らないで我慢強く演出するタイプだった。
 松田は、時代劇俳優ではとくに阪東妻三郎を敬愛し、阪妻の声色も得意だった。錦之助がラリルレロの発音に苦労しているのを知ると、松田は、セットの片隅で休んでいる錦之助のそばへやって来た。そして、阪妻の声色をして錦之助に聞かせ、
「阪妻さんもトーキーになって苦心したそうや。あの人独特のエロキューション(発声法)は、高麗屋さん(七代目幸四郎)やいろんな名人先輩のセリフを研究して、作りあげたんや。錦ちゃんも、うまいなと思う人のセリフを研究して、自分のエロキューションを作りあげたら、ラ行の欠点なんか苦にならなくなるよ」と言った。


『獅子の罠』(昭和25年 東横映画)の打ち合わせで
松田定次、阪妻、川崎新太郎(キャメラマン)

 撮影当日になってセリフが変わることがあった。錦之助は変更されたセリフを覚えなおすのに一時間以上かかってしまった。
「ちゃんと覚えてきたセリフを変えられると、困りますよ」と不満を漏らした。
 すると松田定次は、
「そりゃァ、錦ちゃんの言うことも正しいよ。でもなァ、映画の仕事ではよくあることなんやから、役者はこれに慣れるのもまた勉強だよ」と、優しい言葉で釘を刺した。

 松田監督の信条は、お金を払って見に来た客を飽きさせず、客が見終わって十分満足して帰ることができるような映画を作ることだった。それは父でもあり、映画製作の師匠でもあった牧野省三に叩き込まれたことでもあった。しかも、松田はそうした娯楽映画を丁寧に、決して妥協せずに全力を注いで完成させることで知られていた。東映娯楽時代劇の基盤を据え、その手本を後輩監督たちに示し、東映時代劇の黄金期を築いた監督のリーダーが松田定次であった。
 松田定次は、錦之助への賛辞を惜しまなかった監督の一人であるが、デビュー当時の錦之助に鮮烈な印象を受けたという。「平凡スタアグラフ」(昭和29年11月発行)に寄稿した文章を抜粋すると、こんなことを語っている。
錦之助くんの魅力は若さである。今日の時代感覚に一番ピッタリした若さを百パーセント備えたスタアである。実際には若くても、スクリーンでは若さのさっぱり感じられないという俳優がある。ところが錦之助くんの場合は、若さがむきだしになって表現される。明るくて開放的で生きの良い江戸っ子らしい若さである。日本の映画俳優史を振り返ってみても、錦之助くんのような印象を放つスタアは、ちょっと見当たらない。長谷川一夫(林長二郎)のデビュー当時も、あの人独特の粘っこい美しさがすでに現れていて、錦之助のきびきびした若さとはまた別のものだった。これまでの二枚目スタアにはなかったイメージを放つところに彼の新しさがあるのではなかろうか。ことにあの瞳の美しさが魅力である。勘は良いし、飾りっけのない人柄は誰からも親しまれ愛される
 また、後年、「時代映画」(昭和36年3月号)の中では、
錦之助くんは天分もあるが、非常に芸熱心であり、しかも芸が正確である。芝居に対する感覚が豊かで、幾種も考え分けている。役柄のイメージが違っていても、結局は、到達点に到る。勘が良く、静的なもの、動的なものと演じ分けることができる。錦之助くんは万能選手である


『ゆうれい船』のロケ地(伊豆・韮山)の旅館にて
大友、松田、錦之助、(後ろに)長谷川裕見子、円山栄子


 錦之助の人気がとくに女性ファンの間で大ブレイクしたのは、『八百屋お七 ふり袖月夜』が昭和29年9月に封切られてからであった。
 錦之助の許に届くファンレターやプレゼント(こけしと犬の置物が大半で、錦之助が雑誌のインタビューでそれを集めていると漏らしたからだった)が急激に増えた。後援会の入会者は毎日数十人の数に上った。浅草のマルベル堂で販売しているブロマイドは、錦之助が爆発的な人気を呼び、その売り上げ枚数は、鶴田浩二を抜き、長谷川一夫を抜き、ついに第一位に躍り出た。




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