この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

これは面白かった!伊坂幸太郎著『死神の浮力』。

2013-10-21 21:17:55 | 読書
 この前に読んだ『Arknoah 1 僕のつくった怪物』がやたら読むのに時間がかかって、あぁ、俺もすっかり本を読むのが遅くなった、そろそろ現役を引退することも考えなくっちゃなぁ、なんて思ったりもしたのですが(何の現役だ)、『死神の浮力』はサクッと読めちゃいました。
 やっぱり(ある程度は)読むスピードと本の面白さは比例するみたいです。

 面白くはあったんですが、小さい子どもさんを持つ親御には薦められないかな。何しろ、幼い一人娘を殺された両親が犯人であるサイコパスに復讐しようとするお話なので。

 フツーに考えて、一人娘を殺された両親の復讐譚なんて陰鬱で、重苦しい話になりそうなんですが、そこは伊坂幸太郎、実にユーモラスな作品に仕上がっています。
 そのためのスパイスが死神である千葉の存在なのですが、どこかピントがずれた千葉の言動、行動がすべておかしいんですよね。
 特にクライマックスでの千葉の疾走は想像するだけでプッと笑いがこみ上げてきそうになります。

 実は自分は映画にもなった前作『死神の精度』の面白さがイマイチわからなくて、読みかけの本もあり、給料日前ということもあって、本書は発売日当日の購入を見送ったんですよね。
 その後、給料が出た後に改めてツタヤに出向いて購入したのですが、それはミスでした。
 きちんと発売日に買っておけばよかった。
 おかげで手元にある『死神の浮力』は初版じゃなくて第三版だよ、、、まぁ初版でも第三版でも面白さは変わらないけどね。

 一時期、実験的な作品ばかり執筆するようになって、こりゃとてもついていけないぞと思ったこともあったのですが、最近はエンターティメント性の高い作品を書くようになってくれて、一ファンとしては嬉しい限りです。
 次回作もこんな感じの作品だといいなぁ。
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凡庸な印象しか残らないファンタジー、乙一著『Arknoah 1 僕のつくった怪物』。

2013-10-20 22:44:22 | 読書
 乙一著『Arknoah 1 僕のつくった怪物』、読了。


 おそらくですが、今、このブログに目を通している誰よりも自分は乙一との付き合いが長いです(付き合いが長いと言ってももちろん一方的なものですが)。
 ジャンプJノベルズの『夏と花火と私の死体』の初版本を所有している人なんてそうはいないでしょうから(初版は相当少なかったはず)。


   
 シワなし、破れなし、汚れなし、帯つき、ついでに愛読者カードつきの初版本。たぶん、現存する中で最も状態の良い一冊。一万円なら売ってもいい。笑。

 デビュー以来、ほとんどの著作を購入しています。
 一番好きな作品は中田永一名義で書かれた『小梅がとおる』かな。何度読んでも、松代さんと土田さんが柚木に声をそろえて「当然でしょ」というシーンは泣けます。別に泣くシーンではないのだけれど。『ラクガキをめぐる冒険』も同じぐらい好きです。

 逆にパッとしないと思うのは、そうだなぁ、『冷たい森の白い家』か『神の言葉』あたりかなぁ。この二作が不出来であることは乙一自身認めてませんでしたっけ?

 さて、最新作『Arknoah 1 僕のつくった怪物』ですが、正直、かなりつまらなかったです。
 自分にとって乙一という作家の作品は、設定の奇抜さと展開の妙に感心させられるのですが、『Arknoah 1 僕のつくった怪物』に関して言えば、特に感心することはありませんでした。
 設定は誰かがすでに思いついていそうで(というか、いじめられっ子が本の世界に逃げ込むというのはエンデの『はてしない物語』に酷似し過ぎ)、展開は本当にとろくて、読むのがかなりきつかったです。
 
 本の世界であるアークノアの設定があまり魅力的でなく、その上独創性、説得力、ともに欠けているように思えました。
 すべてが創造主が作り上げた世界であるなら、異分子もすぐに排除できそうなものだけどなぁ。
 それにアークノアの住人の不死性も上手くシステムとして成り立っているようには思えない…。子どもの住人はいつまでも子どものままってこと?その子どもは何年生きても知識を得ることはないの?そこら辺の説明もされてなくて、読んでいて、モヤモヤしてしまった。

 まぁ本作は三部作ということなので、最終的な評価は第三作を読んでからにしたいと思います。
 正直、続きもあまり気にならないのだけれど…。
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頭隠して尻尾隠さず。

2013-10-19 23:00:46 | 日常
 今日納屋の片づけをしようと(実際には納屋の内部の散らかりっぷりにドアを開けただけでその気が萎えてしまったけれど)ドアを開けたら、その拍子にヤモリが上から落ちてきて、納屋の奥に消えていきました。

 ヤモリって夏の暑い時期だけ活動しているのかと思ってたんですが、十月半ばを過ぎても活動してるもんなんですねぇ。


   


 写真は少し前に風呂場の窓ガラスに張り付いていたときに撮ったもの。

 ヤモリを見かけるたびに「カワユす」って思って、飼ってみたいなぁと思ったりもするのですが、実際飼うのは難しいようです。
 パンダを可愛いと思っても実際飼うとなると難しいのと一緒ですね。違うか。
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完璧な裸身の条件とは?映画『トランス』。

2013-10-18 23:19:46 | 新作映画
 ジェームズ・マカヴォイ主演、ダニー・ボイル監督、『トランス』、10/18、Tジョイ久留米にて鑑賞。2013年47本目。


 ダニー・ボイル監督の最新作『トランス』をTジョイ久留米でのレイトショーで観てきました。
 本当は先週『クロニクル』をTOHOシネマズ天神で観た際、続けて観ようと思ったんですけどね。その方が安く鑑賞できるし(毎月十四日はTOHOシネマズディってことで鑑賞料金が¥1000)、ポイントも貯まるので。
 でも映画のハシゴをするには体力的・体調的にきつくてレイトショーで観たというわけです(レイトショーでの鑑賞料金は¥1200。ついでに言っておくとTジョイにはポイント制度はない。)。

 《STORY》完璧な強奪計画のはずだった。鑑定人サイモンの手引きの元、ゴヤの名画《魔女たちの飛翔》は悪漢フランクの手にもたらされるはずだった。だが、土壇場でのサイモンの裏切りにより名画は紛失し、サイモン自身も事故によりその経緯に関する記憶を失ってしまう。フランクはサイモンの記憶を取り戻すべく、催眠療法士エリザベスを仲間に入れるのだが…。
 名画はどこに消えたのか?サイモンはなぜ裏切ったのか?そして事件の裏に隠された真相とは?
 
 自分好みの映画でした。
 物語の最後の最後に明かされる真相はそれなりに意外なものでしたしね。
 ただ、完璧な映画というわけではなかったかな。
 真相は確かに意外なものではあったけど、よくよく考えると「ん?」と首をひねりたくなるところもあったりして、、、まぁそれも許容範囲ではありましたけどね。

 こういった真相が意外な映画の取り扱いには気を使います。
 そもそも真相が意外な映画が、真相が意外であることを明かしていいのだろうかって考えてしまいます。
 個人的にはこういったネタバレはまったく気にしません。
 年間に公開される映画が十本かそこらなら、映画に関する情報を完全にシャットアウトし、その上で全作観に行けばいい話ですが、そうじゃないですからね。
 どの映画を観に行くか、そして観に行かないか、取捨選択しなければならず、そのためには当然情報が必要であり、一々その情報がネタバレしているのかどうかなんて気にしてられませんから。

 加えて、真の傑作はネタバレを恐れない、と自分は考えます。
 傑作の定義は何でしょうか?人それぞれ違うでしょうが、自分は二度(以上)の鑑賞が可能な作品を傑作というのだと思います。
 どんなに面白い映画であっても、二度目は観なくていい、というのであれば、傑作とは言わない。

 そして究極のネタバレとは、言うまでもない、その作品を鑑賞することだと思います。出だし、展開、結末、すべてを知ってるのですから、これ以上のネタバレはないですよね。
 すべてのネタを知っていて、なお鑑賞が可能な映画、これすなわち傑作なのではないでしょうか。
 なので自分は大まかなストーリー、結末、そういったものを知った上で映画を観に行くことも稀ではないです。
 『クロニクル』などはそうでした。あの作品は日本で公開されるまでが尋常じゃなく長かったので、それに比例して情報も半端なく入ってきました。
 そういった情報が鑑賞を邪魔することなどはありませんでしたよ。
 『クロニクル』が真の傑作である由縁です。

 今述べたことがネタバレに関する自分の考えですが、この考えを他人に強制するつもりはないので、ついいろいろ考えちゃうんですよね。
 『トランス』に関して言えば、真相が意外であることだけを明かしましょうかね。

 この作品で一つ「へぇ」と感心することがあって、それは“完璧な裸身の条件”についてです。
 その条件というのが「オッパイの形がよい」とか「腰がくびれている」とかいうことじゃないんですよね。
 ある登場人物から、そのことが語られて、そして西洋絵画においてその条件を充たさない絵画を最初に描いたのがゴヤだと知って、自分は「へぇ」と感心したのですが、個人的にはその条件は充たさない方がいいかな。
 その“完璧な裸身の条件”がどういったことなのか、気になるという方は本作を観に行ってください。完璧な裸身を拝めます。笑。


 お気に入り度は★★★★、お薦め度は★★★☆(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
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その映画の見方は間違ってる!と言いたくなる時。

2013-10-17 21:23:40 | 戯言
 問題です。
 次に挙げる映画の共通点は何でしょう?

 『アンストッパブル』、『ソーシャル・ネットワーク』、『英国王のスピーチ』、『マネー・ボール』、『ソウル・サーファー』、『最強のふたり』、『アルゴ』、『ゼロ・ダーク・サーティ』、『ポゼッション』、『死霊館』etc。

 映画好きな方なら超簡単、そうでないという方にもそんなに難しくないと思います。
 答えは、「事実を基にした映画」です。

 映画の見方というのは基本的に自由だと思っています。
 なぜならそれまで生きてきた人生が違うのであれば、人それぞれ感性が違うのは当然であり、感性が違えば映画を評価するポイントも違って当然だからです。
 とにかく可愛い女の子が出ていればそれでいい!!って人もいれば、映画は血飛沫が飛んでナンボ、と考える人もいるでしょう。それで構わないと思います。

 上述したような「事実を基にした映画」を好んで見る人がいます。
 もちろんそれは全然構わないのですが、「え?」と思うことがあって、それは「事実を基にした映画」を「事実そのもの」と捉えている人がいることです。

 作品によってその度合いは違いますが、基本的に「事実を基にした映画」は「事実そのまま」ではありません。あくまで作品の核になる部分が事実なのであって、往々にして細部は事実とは異なります。

 例えばブラット・ピットが主演した『マネー・ボール』。
 この映画を見ると、2002年がオークランド・アスレチックスにとってえらく劇的な年のような印象を受けますが、実際には過去十数年に渡って起きた出来事を一年間の間に起きたように描いているのだそうです。
 ブラット・ピットが演じたGMビリー・ビーンが“マネー・ボール理論”と出会ったのもこの年ではなく、また映画の中でビリーにこの理論を指南したピーター・ブランドは架空の人物だそうです(モデルとなった人物はいた)。

 また麻痺を持つ大富豪フィリップと黒人介護士ドリスの心の交流を描いた『最強のふたり』、エンドロールでドリスのモデルとなった人物が紹介されていますが、その人物は黒人ではありません。
 であれば、黒人系音楽が好きなこともダンスが得意なことも映画化される際に追加された設定なのでしょう。
 また映画を見る限りは、ドリスがフィリップの面倒を看たのはごく短期間のように受け取れますが、実際には十年に渡って世話をしたそうです。

 このように「事実を基にした映画」は「事実そのもの」ではなく、かなりの部分で映画として面白くなるように事実が脚色されているのです。

 自分は事実を脚色することが悪いと言っているのではありません。
 むしろその逆で、映画として面白くなるのなら、脚色は大いに行われるべきだと考えます。
 問題は見る側の意識であり、「事実を基にした映画」はドキュメンタリーではないのですから、あくまで(出発点が事実である)フィクションだと捉えるべきだと考えています。

 もしかしたら、「事実を基にした映画」が「事実そのもの」であると考えて何が悪い?お前は映画の見方は基本的に自由だと最初に言ったじゃないか、そう仰る方もいるかもしれません。
 確かにそうです。
 「事実を基にした映画」が「事実そのもの」と考えたからといって他人に迷惑をかけるわけでなし、そう考えるのもアリなのかもしれません。

 けれど、自分があえて「事実を基にした映画」はフィクションだと捉えるべきだと主張するのは逆のパターンが考えられるからです。
 逆のパターンとはつまり、「事実を基にしていない映画」が「事実を基にしていないから」という理由で低い評価を受けることを指します。

 去年観た映画に、1960年代のミシシッピーを舞台に、白人女性と黒人のメイドの関係を描いた『ヘルプ 心がつなぐストーリー』という作品があります。
 自分はかなり気に入っている一本なのですが、この映画の原作はキャサリン・ストケットの書いた小説です。
 つまり、映画の中で語られたエピソードはストケットの頭の中で創作されたものだと言えます。

 しかし自分はそれの何が悪いのかがよくわかりません。
 ある映画を観て感動したとしたら、その映画が事実を基にしていようがいまいが、感動は本物だと思うのです。
 少なくとも自分は、「事実を基にしている映画」も「事実を基にしていない映画」も同様のスタンスで鑑賞に臨むようにしています。
 それで特に何か支障があったことはありません。
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「不信」という病に侵された者の悲劇、映画『クロニクル』。

2013-10-16 21:21:53 | 新作映画
 ジョシュ・トランク監督、デイン・デハーン主演、『クロニクル』、10/14、TOHOシネマズ天神にて鑑賞。2013年46本目。


 私事ですが、ブログにコメントが一週間つかないとひどく凹みます。
 先日そのことをツイッターで呟いたら、そういうことに囚われるのは良くないですよ~とある人から諌められました。
 その人が言ってることが正しいということは頭ではわかります。
 でもダメなんです。どうしてもコメントがつかないと凹むのです。

 なぜ自分がそこまでコメントにこだわるのか?
 理由は単純、コメントがつかないと誰からもブログを読んでもらえていないのでは?と考えるからです。

 大多数の人は言うでしょう、その考えは間違ってる、コメントがつかないからと言って読まれていないということにはならない、と。
 えぇ、自分もそうだと思います。理屈でいえば「コメントがつかない」=「読まれていない」ではないということぐらい自分にもわかります。
 実際、コメントはしないけど読んでますよ、と言ってくれる人もいますしね。

 でもダメなんですよ。そういうふうに理屈で割り切れないのです。
 例えて言えば、高所恐怖症の人に「高い所に立ったからといって死ぬわけでもないし、怪我をするわけでもないですよ」と言うようなものでしょうか。
 その言葉は100%正しいですよね。
 高い所に立っただけでは死ぬこともないし、怪我をすることもない。
 けれど高所恐怖症の人は100%正しいはずの言葉に従って高い所に立てるかというとそれが出来ない。
 理屈じゃないんですよ。

 高所恐怖症の例えが上手く的を射ているのかどうかはわかりませんが、理屈じゃないという点においては自分の場合と共通しています。

 結局のところ、自分が囚われているものがあるとしたら、ブログにコメントがつくとかつかないとか、そういうことじゃないんですよね。もっと大きいものなんですよ。
 それは何かというと「不信」。自分は他人を信じる力が極端に弱いのです。
 コメントはしないけど読んでますよ、と言ってくれる人の言葉を信じることが出来ないのです。
 コメントはしないけど読んでくれている人の存在を信じることが出来ないんです。
 コメントがないということは読んでいる人が誰もいないと思ってしまうのです。
 終いには誰も読む者がいないブログは果たして続けていく意味があるのだろうか、なんて考えてしまいます。

 書いていて情けなくなってきましたが、何でそういうことを書いたのかというと(今さらこういうことを書いて同情や共感を得られるとは思っていません。たぶん逆効果でしょう。)、他でもない、先日観た『クロニクル』が「不信」の物語だったからです。

 主人公の高校生アンドリューは絶望の世界の中で生きています。彼には何もないんですよ。友だちもいなければ恋人もいない。いとこのマットが高校になってから学校の送り迎えをしてくれるが、彼とは長く疎遠だった(見捨てられていたとアンドリューは思っている)。これといった趣味も特技もない。彼はなけなしの金で買ったビデオカメラでそんな何もない生活を記録していく。

 もうね、この序盤のシーンだけで泣きそうになりましたよ。
 何もない生活を記録したって楽しいわけがないんですよ。しかし彼にはそれしか撮るものがないんですよね(自分がひたすらブログを続けているのと一緒の理由だ…)。だから泣ける。

 そんな彼がある日不思議な力を身につけます。超能力、もう少し詳しく言うと念動力ですね。念じただけで物を動かせるようになるのです。
 アンドリューたち三人が超能力を開発していく過程は観ていてすごく楽しいです。永遠に続けばいいと思うぐらいに。
 でも、ダメなんですよ。
 なぜならアンドリューは「不信」という病に重く冒されてるから。
 同じく超能力を得たスティーブに、俺たちは親友だろ、と言われるのですが、アンドリューはその言葉を信じることが出来ないんです。
 冷静に考えれば、スティーブが本気でそう言ってることがわかるはずなのですが、アンドリューはスティーブを拒絶し、そのせいで悲劇が起こります。

 クライマックスでは暴走したアンドリューと彼を何とか引き留めようとするマットとの壮絶な戦いが繰り広げられます。
 一旦止んだ戦いの中でマットはアンドリューに言うんですよ、このまま二人で旅に出ようって。
 スティーブ同様マットも心からそう言うのですが、やはりアンドリューはその言葉を信じないのです。

 自分はもう満点をつけてもいいのですが、ミクシィのレビューを見ると結構評価が分かれているみたいです。
 まぁわからないでもないかな。
 「孤独」や「不信」に悩んだことがない人はなぜアンドリューがスティーブやマットらの言葉を信じず、彼らのことを拒絶したのかもわからないでしょうからね。
 そういう人たちはそれはそれで幸せなのでしょう。
 

 お気に入り度は★★★★★、お薦め度は★★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
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京極夏彦の講演会に行ってきたよ。

2013-10-15 20:23:21 | 日常
 日曜日はミリカローデン那珂川で行われた京極夏彦の講演会《妖怪と本》に行ってきました。

 京極夏彦、昔は好きでした。
 『百鬼夜行』シリーズは全巻所有しています。『巷説百物語』シリーズは途中まで集めてました。『ルー・ガルー』シリーズや『南極』、『どすこい』シリーズはあんまり好きじゃない、、、というか嫌いです。
 嫌いな作品が増えていったので、いつしかファンではなくなりました。

 とはいえ、京極夏彦の講演会が開かれると聞いたら、一も二もなく拝聴することにしました。
 彼の卓越した知識には純粋に惹かれますし、どんな人柄なのかも興味があります。ついでにいえば、その尊顔に拝謁もしてみたい。笑。

 さて、実際に会った京極夏彦の印象はというと、一言で言えば、ちょっと小太りで不健康そうなオジサンといったところでしょうか。
 小説の裏表紙の写真から、ヴィジュアル的にイケてるのかと思ってたのですが、残念ながらそうではなかったです。
 まぁ一日二十時間ひたすら座して物を書いていれば、そりゃ不摂生にも不健康にもなるというものでしょう。笑。

 意外だったのは話巧者でもあったこと。
 一時間半の講演の間、ほとんど言いよどむこともなく、原稿に目を通すこともなく、滔々と流れるように話し続け、質疑応答においては当意即妙、ウィットに富んだ答えを返す。
 作家としてだけではなく、講師としても一流と言ってよいと思います。

 講演の内容は、常々自分が思っていたことでもありました。
 つまり、妖怪は現実の世界にはいないが、虚構の世界に存在する、というようなことですが、自分が言っても嘘くさくなることが、京極夏彦が口にすると実に説得力がありました。

 質疑応答では自分も質問してみたかったんですよね、本の整理の仕方とか、大極宮への入り方とか(それは無理だろう)聞いてみたかったんですが、自分のような元ファンが質問するのもおこがましいかと思い、挙手はしませんでした。

 とてもよい講演会でした。
 このような講演会を企画した那珂川町とこの講演会のことを教えてくれ、チケットを分けてくれた穴下さんと、何より遠く異界からわざわざ九州までやってきてくれた京極夏彦には感謝の言葉を述べたいと思います。
 ありがとうございました。
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極上の恐怖体験をあなたに!『死霊館』。

2013-10-14 20:51:49 | 新作映画
 ジェームズ・ワン監督、ベラ・ファーミガ主演、『死霊館』、10/12、ユナイテッドシネマキャナルシティ13にて鑑賞。2013年45本目。


 ジェームズ・ワン監督の最新作『死霊館』(not『資料館』!)を観てきました。
 尋常じゃなく前評判がいいだけあって非常に良かったですね。めっちゃ怖かった!!

 タイトルからもわかる通りジャンル的には典型的な幽霊屋敷ものです。ストーリー的には目新しいことは何もないし、展開も予想外のことは何一つ起こりません。恐ろしくオーソドックスな作品ではあるのです。
 でもそれがすごく面白い(怖い)のです。
 例えて言うならば、『美味しんぼ』で、舌の肥えた金持ちのオッサンを主人公の山岡が白飯と味噌汁といわしの丸干しで接待したようなものでしょうか。
 誰でも食べたことがあるものでも一流の料理人が作ればまた味が格別である、それと同じようなことを『死霊館』を観て感じました。
 オーソドックスな作品であるのだけれど、監督であるジェームズ・ワンの演出が実に的確で、丁寧で、緻密なのですよ。これ以上の幽霊屋敷ものの映画はあるまいと思えるぐらいに良い。

 ほんとホラー映画好きであれば必見の一本だと思います。
 逆に言えばホラー映画が苦手という方は絶対に観るべきではないでしょうね。絶対に漏らすこと間違いないですから。笑。

 作品的には本当に言うことがないのですよ。完璧と言っていい出来栄えです。
 ただ、、、この作品、いわゆる実話を元にした映画なんですよね。
 ある心霊研究家が四十年間に渡りひた隠しにしていた心霊事件の映画化という売りなのです。
 けれど、この映画を観る限りでは、なぜその心霊事件が四十年にも渡ってひた隠しにされ、そして四十年の時を経て映画化されるのかがわかりません。
 唯一問題があったとすれば、エクソシスト専門の神父ではない、民間の心霊研究家が悪魔祓いに成功してしまったことでしょうか。
 そりゃ確かに公けに出来んわなぁと思います。
 でも、そうでなければ、四十年に渡ってひた隠しにされてきた心霊事件の映画化!!などと言われても、嘘つけ!!ってツッコミたくなります。
 映画の出来自体はすこぶる良いのですから、敢えて「実話を元にしています」などと宣伝しなくてもいいと思うんですけどねぇ。
 自分は虚構の世界を舞台にしたお話でも怖いものは怖いと思うのですが、他の人は違うんですかねぇ…。


 お気に入り度は★★★★☆、お薦め度は★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
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どの世代にもバカはいる。

2013-10-13 20:20:05 | 戯言
 今日は午前中に映画『死霊館』を観に行き、午後は京極夏彦の講演会を聴きに行きました。
 どちらもとても良かったです。
 本来であればそれらのことについて書くつもりだったのですが、事情があって止めます。

 講演会が終わり、その足で不思議博物館に向かいました。講演会があったミリカローデン那珂川から不思議博物館まで車でほんの十分ぐらいの距離なんですよね。
 さすがに京極夏彦が来館することはありませんでした。
 京極夏彦と不思議博物館の館長、同じ変人同士(失礼!)、水木しげるファン同士、話せば気が合うんじゃないかとは思うのだけれど。

 自分が来館してからしばらく、同じように講演会に行った人がちらほらと現れました。
 その中の一人、五十代と思われる、いい年をしたオッサンがおもむろにipodミニを取り出して、「これを拾ったんだけど、使い方がわからなくてねぇ」みたいなことを言い始めたんですよね。
 最初何を言ってるのか、わかりませんでした。持ち主に返すために(最低限の)情報を引き出そうとしているのかな、ぐらいに考えていました。
 が、よくよく聞いていると、どうもそのオッサン、拾ったipodミニを自分のものにしようとしているのだが、それが上手く行かないと言ってるようでした。
 周りの人間は唖然としていたと思います。
 それで不思議子ちゃんが「それ、警察に届けた方がいいと思いますよ~。落とした人も困ってると思います。」とやんわりと言いました。
 するとそのオッサン、「いやいや、こんなの中古で買えば千円もしないでしょ。届ける必要はないでしょう。」と悪びれもせず言うんです。
 その言い方にカチンと来て、今度は自分が言ったんですよ。
「あなたが拾ったipodミニを警察に届けない限り、それはただの窃盗ですよ。窃盗するのはあなたの勝手だけど、(それを打ち明けることで)俺たちを巻き込まないでもらえます?」って。
 かなりきつい口調で言ったつもりでしたが、カエルの面にションベンというか、相手はまるで反省する様子はありませんでした。
 結局自分たちはそのオッサンを説得することが出来ませんでした。もしかしたら力ずくでipodミニを奪い取って警察に届けるべきだったかもしれませんが、それも出来ませんでした。

 最近十代、二十代の若者が自分のやったバカな行いをツイッターにさらして炎上する騒ぎが頻繁に起こっています。
 そう書くとまるで十代、二十代の若者の中にだけバカな行いをする人間がいるようですが、そうじゃないんですよね。
 十代、二十代に限らず、三十代、四十代、五十代、もしかしたらもっと上の世代の中にもバカなことをやる人間はいるのだと思います。
 ただ、ある程度の年齢になると、馬鹿な行いはしてもツイッターにさらさないだけの分別がついているか、もしくはツイッターにさらすだけのスキルがないということなのでしょう。
 今日オッサンの相手をして、そのことが嫌というほどわかりました。
 他人のipodミニをパクるっていうだけでもどうかしていると思うのに、そのことを平然と不特定多数の人間にひけらかし、さらに周りの人間からそれを諌められても一切反省しないんですからねぇ。まったく理解不能です。

 今日福岡市の城南区付近で(城南区というのもそのオッサンが言ったことで確かなことかどうかわからない。自分の聞き間違いかもしれない。)ipodミニを落とされた方、あなたのipodミニは現在五十代と思しき男性が所持していますよ。
 アグリル・ラヴィーンの楽曲が入っていたということは耳にしました。
 残念ながらそのオッサンとはたまに不思議博物館で顔を合わせる程度であり、個人情報はまったく知らないので、これ以上の情報提供は出来ません(館長もおそらく知らない)。
 あなたのipodミニが一日も早くあなたの手元に戻るといいですね。

 ほんと今日は不思議博物館にいて、初めて不愉快な思いをしました。
 同じ日本人であっても言葉が通じない人っているもんですねぇ。
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カボチャドキヤ、再訪。

2013-10-12 20:12:24 | 旅行
 カボチャドキヤ国立美術館に行ってきました。
 カボチャドキヤ国立美術館を訪れるのはこれで二回目、一回目は7月、一日中ひどく雨が降っていました。
 雨のせいか、美術館を訪れるものは自分の他には誰もおらず、こんなに素晴らしい美術館なのに誰も来ないなんて!次は誰かを連れてこよう!と思ったものでした。

 今回の旅の同行者は穴下さんと低級遊民さんの二人。本当だったら、こんなに多くの来館者が!!とカボチャラダムス国王が驚くぐらいの人数を連れて行きたかったのですが、現実にはこんなものでしょう。

 天気もいいことだし、テラスでのんびりと国王と歓談でもしよう、と行く前は考えていたのですが、自分の目論見は果たせませんでした。
 何故かというと、予想外に来館者が多かったのです。
 自分が最初に訪れた日は一名、(国王によれば)普段は平均して五、六名程度、それが今日は大学のゼミの学生さんが二十名弱、さらに某有名写真家のオフ会参加者が約四十名、合わせて六十人を越える人数が一度にやってきたのです!いや、ビックリしましたね。

 なので、のんびりと歓談するとか、満足の行くまで写真を撮るとかいったことは出来ませんでした。
 まぁそれもよし、です。
 自分がもっと人が来ればいいのに!と思っていた場所にたくさんの人がやってきたのですから、これに勝る喜びはありません。

 二度目の鑑賞でしたが、やはり国王の作品は素晴らしかったです。
 本当に良いと思える作品は何度見ても良いものです。


   《にこにこ元気町》


 かなり細かいところまで描き込まれた作品なので、もしかしたら小さいイラストなのかも、と思う人がいるかもしれませんね。実際は112x188cmという超大作なのですよ。いつまで見ていても飽きません。


   


 自分が贈呈した『七色かぼちゃうちわ』を手に朗らかに笑うカボチャラダムス国王。
 自分が作ったものを大事にしていてくれるのはとても嬉しいことです。

 一緒に行った二人も満足してくれたみたいです。
 機会があればまた訪問したいと思います。
 とはいっても北九州はなかなか遠いんですが…。
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