3/27のブログで人権擁護法案のことを取り上げたところ、(内容はともかく)読む者を威圧するような態度と偉そうな論調はどのようなものか、というお叱りの言葉を頂きました。
確かに尤もだなと思いました。
昨年の一連の荒らしに対する現在の自分の考えを至急表明する必要に駆られたので、あのような論調になってしまいました。
そのことで不快になった方がいらっしゃったら申し訳なく思います。
あのブログにおいて自分は人権擁護法案とアメリカ愛国法が近似していると指摘しましたが、具体性に欠けていましたので、それについて補足したいと思います。
アメリカ愛国法は2001年9月11日のテロ攻撃を契機にアメリカ国内におけるあらゆるテロ活動に対抗する法律として2001年10月26日に成立しました。
しかしながらその法律の持つ力の大きさに比べ、テロ攻撃後わずか一ヶ月半で成立としたことからも伺えるように内容が充分に吟味されたとは考えられません。
映画『華氏911』の中で民間のボランティアグループに政府の対テロのスパイが潜入捜査をしていたというエピソードが紹介されています。
このスパイ活動の法的根拠がアメリカ愛国法なのです。
アメリカ愛国法はしばしば対テロ活動という範疇を大きく逸脱します。
対テロ活動のためならば、多少のプライヴァシーの侵害、また表現の自由の喪失もまた止む無し、という風潮がアメリカ国民の中にあるのです。
しかしながら民間のボランティアグループへの潜入捜査が対テロ活動に役立つとは思えません。
余談になりますが、9月11日のテロ攻撃後、アメリカ国内で放送が自粛された音楽の中にビートルズの『オブラディ・オブラダ』があるそうです。理由はこの曲のフレーズがテロ首謀者であるオサマ・ビン・ラディンの名前を想起させるから、だそうです。
対テロリズムの旗の下では本来平和を謳った歌でさえ粛清の対象になるようです。
翻って人権擁護法案ですが、差別をなくそうという理念そのものは決して悪いわけではないでしょう。
しかしながら差別とは何か、という定義は一朝一夕で決められるものではないと思います。
また一握りの人間によって決められるものでもない。
自分は漫画を読むことが大好きです。無意味な暴力描写は好みませんが、好きな漫画(具体的にいうと『新暗行御史』や『鋼の錬金術師』etc)の中には格闘シーンはもちろん、血飛沫、さらには惨殺された死体なども出てきたりします。
それらは必然的な残酷さであり、物語を成立させるためには必須とさえいえます。
それなのにある日突然人権委員会というごく一部の人たちによってそういった表現が差別に抵触すると判断され、粛清の対象となってはたまないなぁと思うのです。
対テロ活動と人権擁護、大本の理念は異なりますが、その定義の曖昧さにおいて、アメリカ愛国法と人権擁護法案は共通するといえるのです。
共通項はそれだけにとどまらず、捜査記録が残らない、という点においても同じです。
捜査記録が残らないのであれば、冤罪が発生したとしても、なぜ冤罪が発生したのか、その理由が明らかになることはないでしょう。
また法律の成立に向けて国民に対して充分な説明がなされていないというのも共通しています。
インターネットでこそ激しく議論されていますが、人権擁護法案が新聞の一面に載ったという記憶は(自分が目にした範囲では)ありません。
前述したとおり、自分は漫画を読むことが大好きなので、はっきりいって今生きているのは好きな漫画の結末が最終的にどーなるか知りたい、っていうところに負うのも大きいので、これからも人権擁護法案に関して何らかの動きがあれば自分なりのコメントをしていきたいと思っています。
確かに尤もだなと思いました。
昨年の一連の荒らしに対する現在の自分の考えを至急表明する必要に駆られたので、あのような論調になってしまいました。
そのことで不快になった方がいらっしゃったら申し訳なく思います。
あのブログにおいて自分は人権擁護法案とアメリカ愛国法が近似していると指摘しましたが、具体性に欠けていましたので、それについて補足したいと思います。
アメリカ愛国法は2001年9月11日のテロ攻撃を契機にアメリカ国内におけるあらゆるテロ活動に対抗する法律として2001年10月26日に成立しました。
しかしながらその法律の持つ力の大きさに比べ、テロ攻撃後わずか一ヶ月半で成立としたことからも伺えるように内容が充分に吟味されたとは考えられません。
映画『華氏911』の中で民間のボランティアグループに政府の対テロのスパイが潜入捜査をしていたというエピソードが紹介されています。
このスパイ活動の法的根拠がアメリカ愛国法なのです。
アメリカ愛国法はしばしば対テロ活動という範疇を大きく逸脱します。
対テロ活動のためならば、多少のプライヴァシーの侵害、また表現の自由の喪失もまた止む無し、という風潮がアメリカ国民の中にあるのです。
しかしながら民間のボランティアグループへの潜入捜査が対テロ活動に役立つとは思えません。
余談になりますが、9月11日のテロ攻撃後、アメリカ国内で放送が自粛された音楽の中にビートルズの『オブラディ・オブラダ』があるそうです。理由はこの曲のフレーズがテロ首謀者であるオサマ・ビン・ラディンの名前を想起させるから、だそうです。
対テロリズムの旗の下では本来平和を謳った歌でさえ粛清の対象になるようです。
翻って人権擁護法案ですが、差別をなくそうという理念そのものは決して悪いわけではないでしょう。
しかしながら差別とは何か、という定義は一朝一夕で決められるものではないと思います。
また一握りの人間によって決められるものでもない。
自分は漫画を読むことが大好きです。無意味な暴力描写は好みませんが、好きな漫画(具体的にいうと『新暗行御史』や『鋼の錬金術師』etc)の中には格闘シーンはもちろん、血飛沫、さらには惨殺された死体なども出てきたりします。
それらは必然的な残酷さであり、物語を成立させるためには必須とさえいえます。
それなのにある日突然人権委員会というごく一部の人たちによってそういった表現が差別に抵触すると判断され、粛清の対象となってはたまないなぁと思うのです。
対テロ活動と人権擁護、大本の理念は異なりますが、その定義の曖昧さにおいて、アメリカ愛国法と人権擁護法案は共通するといえるのです。
共通項はそれだけにとどまらず、捜査記録が残らない、という点においても同じです。
捜査記録が残らないのであれば、冤罪が発生したとしても、なぜ冤罪が発生したのか、その理由が明らかになることはないでしょう。
また法律の成立に向けて国民に対して充分な説明がなされていないというのも共通しています。
インターネットでこそ激しく議論されていますが、人権擁護法案が新聞の一面に載ったという記憶は(自分が目にした範囲では)ありません。
前述したとおり、自分は漫画を読むことが大好きなので、はっきりいって今生きているのは好きな漫画の結末が最終的にどーなるか知りたい、っていうところに負うのも大きいので、これからも人権擁護法案に関して何らかの動きがあれば自分なりのコメントをしていきたいと思っています。