ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 山岡耕春著 「南海トラフ地震」 (岩波新書2016年1月)

2017年03月17日 | 書評
M8-9規模の南海トラフを震源域とする巨大地震をどう予測し、何が起きるか、どう備えるかを考える 第3回

1) 南海トラフ地震の特徴と歴史(その1)

南海トラフとは東海地方から西日本太平洋側の海底に付けられた名称である。トラフとは「桶」のことでプレートが沈み込む場所であるが、東北地方の日本海溝と違って穏かで比較的浅い凹みが続いている。南海トラフを含めて、フィリッピン海プレートが沈みこむ場所は、関東の南岸から九州・沖縄に沿って台湾までの太平洋側、さらに台湾からフィリッピン諸島の東側海岸に連なる。このうち南海トラフと呼ばれているのは、伊豆半島付け根の駿河湾から四国沖にかけてである。九州から沖縄にかけては南西諸島海溝と呼ばれる。世界中にはプレートが沈み込むトラフは数か所存在するが、南海トラフの知名度、関心が一番高い。伊豆半島を軸として、左右対称に駿河トラフと相模トラフに別れて、南海トラフは湾曲して日本列島にぶつかる。相模トラフは1923年関東地震の震源域であった。トラフが日本列島にぶつかっ後は、相模トラフの延長は国府田―松田断層帯、駿河トラフの延長は富士川河口断層帯で富士山の地下にもぐっている。この二つの断層帯は地震があると連動してずれる可能性があり、縦ずれの逆断層型である。南海トラフ地震で富士山が連動する可能性は否定できない。東海地震は東名高速道路、東海道新幹線といった経済の大動脈であり、ずれ変位は最大10mと推定されており、大惨事は免れない。南海トラフ沿いには、東から御前崎、潮岬、室戸岬、足摺岬富崎が並んでいる。御前崎岬付近では地震予知のため国土地理院は25Kmおきに水準測量を行っている。毎年26cm沈降しており、沈降の傾向が反かして隆起に転じることが地震の前兆であると考えられるからである。御前崎から伊勢湾までの海域を遠州灘と呼んでいる。なだらかな海岸線であるが、静岡県の海岸は砂浜で、愛知県の海岸は崖で、三重県の海岸はリアス式海岸となり、入り江が複雑に連なっている。だから静岡県では津波によって海水が侵入する。愛知県は津波の影響は少ない。伊勢湾は出入り口が小さいので津波の影響は軽微だろうと思われる。三重県は津波が高く押し寄せ被害が甚大になる可能性が高い。伊勢湾と若狭湾を挟む地域は本州のくびれになっており、直線距離で100Kmしかない。この地域はプレートが浅い角度で潜り込み、地殻の沈降が顕著なちいきである。潮岬は南海トラフの巨大地震にとって特別な場所である。潮岬を境として東側と西側で別々に地震が発生している。東側で発生する自信を東海地震とよび、西側の地震は東南海地震と呼んでいる。潮岬の紀伊半島の先でプレートが深い角度で沈み込んでおり、押し込む圧力が高い。摩擦力も大きくずれにくいので東西の地震は連動しにくいと言われる。潮岬より西、四国沖にかけては南海地震の震源域である。南海地震の長期評価で、今後30年間の発生確率が60-70%程度という根拠は室戸岬にある。1707年の宝永地震、1854年の安政地震、1946年の昭和地震のときの隆起量が計算に用いられた。巨大地震が発生するとプレート境界がずれ動くことで室戸岬が隆起する。隆起量と次の地震までの時間には相関があると仮定して計算をするのである。南海トラフで発生した津波は和歌山県、高知県、徳島県の海岸に押し寄せる。「稲村の火」で有名な和歌山県広川町の浜山梧陵は1946年の昭和南海地震から村人を救った逸話がある。室戸岬と足摺岬の間にある高知市は地震の際に沈降することが知られている。昭和地震で1mも沈降した。沈降した分は時間をかけて元に戻る。プレートの押し込みで室戸岬と足摺岬が陸側に押し込まれ、反対に高知市付近は海側に移行するからである。四国と九州の間にある豊後水道はスロースリップで知られている。地震を起さずにゆっくりずれ動くことである。浜名湖付近の東海スロースリップとともに有名である。地震はおきなくとも周囲の歪はしわ寄せによって大きくなる。豊後水道のスロースリップによって南海地震の震源域や日向灘の震源域の歪が高まる。南海トラフ巨大地震で連動するのは九州パラオ海嶺までとされる。

(つづく)

読書ノート 山岡耕春著 「南海トラフ地震」 (岩波新書2016年1月)

2017年03月16日 | 書評
M8-9規模の南海トラフを震源域とする巨大地震をどう予測し、何が起きるか、どう備えるかを考える  第2回

序(その2)

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(著者はそう呼ぶ)によってずれ動いた断層の大きさは東西200Km、南北500Kmという岩手から茨城県にまたがる巨大なものであった。ずれの大きさは解析によって若干異なるそうだが、最大50mを超えた可能性が高い。体験したマグニチュード9の地震とは、このような巨大な震源の規模を示す地震であった。東北地方太平洋沖地震の震源域では、太平洋プレートが日本列島の下に西向きに沈み込んでいる。プレートは沈み込みによって日本列島の地殻を引きずり込む。それによってプレートと地殻の境界面(断層面)に沿って、引きずり込みをもとに戻そうとする応力が発生し、やがて応力が境界面の摩擦力を越えて大きくなると、境界面は一気にずれ動き最初の地震が起きる。境界面がずれると応力は低下し、その部分の歪は解放されるが、周辺の境界面では応力が発生し同じ原理で次々とずれが発生し、地震の震源の規模はドミノ式に拡大する。東北地方の太平洋沖は広い範囲で中小規模の地震が頻繁に発生する場所である。東北地方の太平洋沖で断層がどのようにずれていったかは、地震波形・地殻変動・津波データーを用いて解析した結果、午後2時46分18秒では宮城県沖のプレート境界で最初のずれが発生した。この境界周辺の範囲で終わっていればマグニチュードは8クラスであった。1-2分後にはずれの範囲が発生点の東つまり日本海溝に近い領域の応力が高まり、づれの範囲が日本海溝に達した。海溝はプレート境界の端であり、もはやずれを抑制する領域は存在しない。こうして2-3分後に日本海溝に沿ってずれは南北に拡大した。3-4分後にはずれは茨城県沖まで拡大してやっと停止した。5分間の出来事であった。さて本書の主題である南海トラフは駿河湾の一番奥の富士川河口から四国の足摺岬の沖まで伸びている。一番新しい巨大地震は1946年四国沖を震源とした「昭和の南海地震」である。1944年には紀伊半島沖の熊野灘を震源とする「昭和の東南海地震」が発生している。その前の巨大地震は1854年四国沖で発生した「安政の南海地震」と「安政の東海地震」である。さらにその前の超巨大地震は1707年に発生した「室永地震」である。この地震は遠州灘から四国沖にまで広がった。安政から宝永自身までの間隔は147年、安政から昭和の地震までの間隔は90年であった。さらに古い巨大地震の記録は600年頃までさかのぼることができる。新しい順に述べると、1605年「慶長の地震」、1498年「明応の地震」、1361年「正平の地震」、1099年「康和の地震」、1096年「永長の地震」、887年「仁和の地震」、684年「白鳳の地震」である。これら一連の巨大地震は100年から200年の間隔で発生している。これフィリッピン海プレートと呼ばれる海底が南海トラフからに西日本の地殻の下に、北西向きに沈み込んでいることが原因である。その速度は1年間で5cmほどで、100年間で5mである。このため西日本の地殻は北西方向に縮んでいる。だから確実にプレート境界にかかる力は高まって(歪は蓄積されて)きているので、板バネ(地殻)がはじける時に巨大地震は必ず発生する。

(つづく)

読書ノート 山岡耕春著 「南海トラフ地震」 (岩波新書2016年1月)

2017年03月15日 | 書評
M8-9規模の南海トラフを震源域とする巨大地震をどう予測し、何が起きるか、どう備えるかを考える 第1回

序(その1)

2011年3月11日午後2時46分40秒、広い範囲の震源による地震が起きた。マグニチュード9.0という巨大な規模であった。宮城県の最大震度は7、茨城県では震度6弱となった。自宅2階で本を読んでいた私は経験したことない強い揺れに恐怖を感じた。本棚にあった本やCDは飛び出して散乱し、出窓に置いてあった植物(蘭)の鉢はすっ飛んで床は泥だらけになり、棚に乗せてたオーディオのアンプは床に落ち大きな打痕を残していた。フロワースピーカーは大きく揺れていたので、慌てて手で押さえにかかった。すぐに揺れはおさまるだろうと思ってみたが、何時まで経っても揺れは続いた。その時間が非常に長く感じた(後の情報では5分持続したそうだ)。揺れが静まってからは、各部屋の点検を行った。地震が発生した時間帯が昼下がりだったので、ガスやストーブは使っていなかった。1階の座敷の仏壇は倒れて、観音扉は分解し用具が散乱していた。不思議に茶箪笥のガラスや陶器の器などは散乱していなかった。要するに軽いものは吹っ飛んだが、重いものは飛ばなかった。本棚、箪笥類、机、テーブルは動かなかった。直下型地震でなかったから飛び上がらなかったからである。屋根の上から瓦が落ちていたが、フェンスのブロックは崩れていなかった。数日後家の外壁のひびが数か所発生しており、家の内壁のクロス張の紙のはがれは数限りなく発見された。屋根の修理を知り合いの業者に頼んで緊急の青いシートを張ってもらい、数ケ月先の工事を予約した。1年後家のモルタル塗装と家内部の壁クロス張替を専門業者にお願いした。かかった家の修繕費用はあわせて200万円を超えた。これは税控除の対象となるので確定申告を行い、所得課税はゼロとなった。家族にけがはなった。ただ常磐線の動いている範囲の上限であった取手駅まで息子を車で迎えに行く時、信号は停電で点灯されなかったので、交差点で必ず止まって安全確認をするため所要時間は2倍かかった。停電はその日のうちに復旧したが、断水は数日かかったので、学校の校庭で給水を受けるため長蛇の列を並んだ。トイレに流す水は、風呂の水が流さずにあったのでそれで用を足した。スーパーは休業していたが、飲料水は大量に蓄えていたし、食材は冷蔵庫にあったので不自由はなかった。調理用のガスはプロパンボンベ式なので困らなかった。電気はその日のうちに、水道は1週間以内に復旧したが、不幸中の幸いであった。車は日常的に使っていなかったが、ガソリン補給ができたのは数日後のことであった。パソコンなどの通信機器は無事で、その日から使えたが、電話や携帯は使えたがパンク状態でどこにも連絡はつかなかった。以上が3.11東日本大震災による我が家の被災状況です。なお家は築24年(1991年建築)の住友林業の和風建築で1981年耐震基準を満たしていましたので、後日住友林業の人が点検に来てくれましたが大丈夫だそうでした。山岡耕春氏のプロフィールを紹介する。山岡 耕春氏は、日本の地震学・火山学者で名古屋大学大学院環境学研究科教授。専門は固体地球惑星物理学(要するに地球物理学)で地震や地震予知の専門家として著名である。1958年静岡県生まれ。岐阜県立大垣東高等学校、名古屋大学理学部を経て、1986年に名古屋大学大学院理学研究科博士課程(地球科学専攻)修了。「球殻テクトニクス : リソスフェアの沈み込みにおける座屈現象について」で博士学位を取得した。 その後、東京大学地震研究所助手(伊豆大島火山観測所)などを経て、現在、名古屋大学大学院環境学研究科教授(地震火山・防災研究センター)。また、地震予知連絡会、火山噴火予知連絡会の委員などを務めている。

(つづく)

読書ノート 白井 聡著 「戦後の墓碑銘」 (金曜日 2015年10月)

2017年03月14日 | 書評
永続敗戦レジームのなかで対米従属路線と右傾化を強行する安倍政権の終末 第15回 最終回

4) 「生存の倫理としての抵抗」

① 倫理から始まる連帯
マハトマ・ガンジーの言葉「あなたがすることのほとんどは無力であるが。それでもしなければならない。それによって世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないために」 原発再稼働反対デモに行っても国是は変わらないかもしれない。問題は行動しないことによって、自分のうちの大事なものが変わってしまうなら、人は行動しなければならない、自分を守るために。消極的行動論とか無抵抗行動論ともいう。人々に真の連帯をもたらすものは、有効な行動計画ではなく、倫理的連帯である。
② 「否認の国」の住民たちへ
認めたくないことはなかったことにする。これは心理学用語で「否認」と呼ぶ。2020年東京オリンピックは3.11を無かったことにするための膨大な無駄使いとお祭り騒ぎである。原子力行政そのものが「否認」であった。核廃棄物の最終処分法がないこと、最終処分地がどこにも設置できないこと、原子炉の下には活断層が走っていること、14メートルの高さの津波がいつ来てもおかしくはないこと、高速増殖炉の技術は非常にハードルが高く欧米はあきらめたこと、6か所村のプルトニウム再生工場は不要でコスト倒れであること、原発発電コストは事故のことや開発費そして立地費を考えると途轍もなくコスト高であること、首都圏に危険な原発は設置したくないこと、福島の原子炉は底が抜けてメルトスルーしていること、廃炉技術は未完である事など不都合な事実はなったことにして原子力ムラはしゃにむに進めてきた。彼ら政官財学メディアの心理は「生ける屍」である。
③ 悪鬼と共に戦う方法
佐藤健志著「震災ゴジラ―戦後は破局へと回帰する」(VNC)は、繁栄する日本で今まさに進行している事態にほかならない。テーマは「否認」である。今まさに殺されようとする被害者の心の防衛機能である。危機に直面すると頭を砂にうずめるガチョウの行動である。厳然と存在する不都合な事実に、現実的な対応がなされなくなるからである。こうした状態は、第二次世界大戦末期の日本に酷似している。沖縄を失い二度も原爆を落とされても、神風が吹いて日本は勝利することになっていた。これを信じないものは非国民、アカであるとされ弾圧の対象であった。ゴジラはアメリカという説が有力である。
④ 「犬死せし者」を救い出すために
A球戦犯者を神として祀る靖国神社問題は、参拝支持者らは「参拝しないことで死者を犬死させたくない」というらしい。戦前の戦争指導者は自らの致命的失敗、敗北を認めず、そのために状況をさらに悪化させた。敗北が決定的になった最後の一年間での死者は200万人を超える(全戦死者は300万人)。片道ガソリンだけで突撃した特攻隊飛行兵、食料も装備もなくロジスティック無視で戦地へ駆り出された兵士こそ犬死ではないか。
⑤ 原発問題はそれで最大の争点だったー都知事選を終えて
都知事選はマスコミの言うとおり舛添氏の圧勝で終わった。「原発問題は争点にならず」とマスコミ各社はキャンペーンしていたが、争点にしなかったのはマスコミであった。テレビ局が持つ争点設定権力ハ依然として巨大である。投票率は50%以下、東京都民の倫理的破綻は隠しようがない。原発問題が重大であるからこそパワーエリートたちは原発問題を隠そうとした。「決定するのは我々であって、庶民ではない」とする明治以来の権力システムの原則である。明治神維新で権力を握ったのは西南諸藩の武士であり、市民革命的要素は皆無であったから、日本の権力システムは近代化を経由していない封建権力そのものであった。民主主義を近代化と考えると、日本は近代国家ではない。和魂洋才という言葉どおり、技術は西洋から借りて、知らせず拠らせずの社会システムは従来通りの封建性そのものであった。明治神維新は権力の簒奪に過ぎなかった。五か条の御誓文の「万機公論に決すべし」はむなしい理想だった。
⑥ 幼い大人たちの楽しい戦争ごっこ
2014年5月5日集団的自衛権行使容認を閣議決定した。安倍首相は余裕たっぷりに穏当な記者会見を行い、憲法遵守を謳った。このシ二ズム(冷笑主義)は実質的改憲と閣議決定でやってのけるという独裁政治によって、深く深く国民を愚弄しているのである。安倍の言葉の薄っぺらさは別としても、気になるのはその幼児性である。絵で戦争ごっこをしている虚構性が漂っている。殺し殺されるという緊迫感など全くないように、得意満面で戦争関連法規を提出した。
⑦ 奴隷が奴隷であることをやめるとき
どうも日本は尋常な近代国家ではないらしい。東京電力があれほどの原発事故の惨事を引き起こしながら、誰も刑事罰を受けていないし、災害賠償は国の仕事と言って免責されている。かつ原発の再稼働を申請している。明治期の政商のような手厚い保護を国から約束されているようだ。「官僚以上に官僚らしい企業」という言葉は事故前から聞いていたし、官僚を指導し一体となって原子力発電事業を推進してきた。民と官の融合体企業であった。安倍首相が集団的自衛権の行使容認を巡る国会審議で、邦人を救出する米艦を援護射撃するのが集団的自衛権だと言った。ところが米軍は規則では日本人の救出は任務には入っていないと報道している。第1番に救出するのは米国人、2番目に救出するのはアングラサクソン系人(英国、オーストラリア、ヌY-ジランド)となっている。ここまで日本国民は安倍になめられている。この国の国民は奴隷らしく扱うのが正しいと。
⑧ 第2、第3、もっと多くの沖縄を
永続敗戦レジームの代理人仲井間陣営と、このレジームを拒否する翁長陣営の闘いは翁長の勝利となった。沖縄支配体制に対する根本的な異議申し立てに沖縄県民は答えた。翁長氏は辺野古問題にかんして「日本の民主主義国家としての品格が問われている」と述べた。安倍政権・仲井間元知事らは日本を統治することを米国によって許された傀儡政権に他ならない。
⑨ 選ぶべき候補者、政党がない、というたわごと
2014年12月の衆議院選挙では公示二日後の各紙には「与党300議席を超える勢い」といったキャンペーンが打たれた。いとうせいこう氏はこういった報道が「ある種の政治不信というキャンペーンによって無力さを刷り込まれるために行われている」と指摘した。投票率が下がれば下がるほど、与党が有利になるのである。反対勢力を無理化し沈黙させ、あきらめムードで投票場から逃避させる意図が見えるのである。全有権者の20%程度の得票によって議席300が獲得できる選挙制度にも問題は多い。民衆は選挙に行って政治家を激励し、啓蒙しなければいけないのである。
⑩ 国際政治学者とは何者か?
国際政治学である村田晃嗣同志社大学学長は2015年7月13日国会で政府が強行しようとする「新安保関連法案」に賛成意見を陳述した。多くの政府系学者が「違憲」意見を陳述する中で、何とか賛成意見学者の登場を図った。世界とはアメリカのことであり、米国の国益を最大化する学問が国際政治学という代物なのである。村田氏は安全保障の専門家となっているが、日本の最高法規を守る事より、米国との約束を果たすことを最優先する人物である。

(完)


読書ノート 白井 聡著 「戦後の墓碑銘」 (金曜日 2015年10月)

2017年03月13日 | 書評
永続敗戦レジームのなかで対米従属路線と右傾化を強行する安倍政権の終末 第14回

3) 「戦後に挑んだ者たち」 (その2)

② 戦後の告発者としての江藤淳 「1946年憲法―その拘束」

江藤淳が残した仕事のうち文芸批評を除いて、戦後憲法批判と占領期検閲の研究が注目されているという。安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げているが、自民党はいよいよその悲願である憲法改正(自主憲法制定)に突き進もうとしている。提示された草案は、戦後憲法の柱である基本的人権の尊重や民主主義の原則を後退させる時代錯誤も甚だしい代物である。つまり「自主憲法」なるものは、あの占領による民主改革の成果を単純に否定するだけのもので、かっての日本帝国の亡霊を呼び戻し、対米従属のまま強権政治を行うという戦前支配者の末裔達の幻想に過ぎない。こういう精神分裂的傾向は権力中枢だけでなく、3.11原発事故によって突き付けられた「平和と繁栄」の時代の終わりへの支配者の不安の表現に過ぎない。安倍首相の取り巻き連中の目の余る右翼的言動は戦前の右翼的国体主義者の叫び声と同じレベルである。「戦後的なるもの」への不条理な憎悪が広範に広がっている。戦後民主主義が色あせたものにしか見えないとすれば、それは平和が米国の核の傘を前提とし、繁栄が米国の需要(軍需をふくめて)に頼った結果であったことをはしなくも認めたことである。3.11原発事故が象徴する支配者ムラの荒廃ぶりが露呈して、戦後の平和と繁栄に止めを刺した。江藤淳著 「1946年憲法―その拘束」(文春学芸ライブラリー 2015)は二つの論点がある。一つは戦後民主主義批判であり。二つは戦後憲法批判である。この本は1980年に書かれ、江藤氏の思考発展の流れが反映されている。戦後憲法批判は現在も受け継がれている「押しつけ憲法論」と同じものである。江藤の憲法批判は良くも悪くも、改憲/護憲論争を活性化したが、そのレベルは一歩も新味はなかった。1961年江藤氏は「戦後知識人の破産」という本で、8・15を悔恨の日、再出発の日と規定しているがこれは欺瞞でしかない。戦前の国家がたった一日で民主主義と平和の理想を掲げる日本に変身できるわけがない。政治的な敗北(敗戦)が直ちに民主主義という倫理に到達することは不可能であり欺瞞である。戦後知識人(丸山眞夫氏を想定しているようだが)の無力が1960年の安保闘争で破たんしたという論が江藤氏の描く戦後知識人論であった。戦後日本ではあらゆる政治的主張が所詮「ごっこ」でしかあり得ないのは、対米従属の構造であると江藤氏は断定する。戦後の思想空間が決して自律的なものでなかったことは、自分たちの歴史がその根幹において自立できないという厳しい現実がある。安保体制の下では日本の命運は自己決定できないのだと江藤氏は言う。公的な価値が起伏されるためには安保条約の発展的解消がなされなければならない。真の主体性回復を実現するためには、日米間の権力構造の変更という政治が必要だと説いている。安倍首相らの親米保守主義者と江藤氏が根本的に違うところは、自分の運命の主である立場を回復する時に、我々はまず「敗者である自己」を認識する点があるかどうかである。負けたということをごまかしてさらに従属を強めるという隠微な心では再生できない。この点が今日の対米隷従型改憲論者と根本的に違う点である。

(つづく)