ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 新崎盛暉著 「日本にとって沖縄とは」 岩波新書(2016年1月)

2017年03月31日 | 書評
歴代政府の対米従属路線である、基地を沖縄に集中させる「構造的沖縄差別」政策 第3回

1) 平和国家日本と軍事要塞沖縄 (1945-1956年) (その1)

まず象徴天皇制・非武装日本・沖縄の米軍支配の3点セットの占領政策が冷戦構造によって変質することを明らかにしよう。1945年近衛文麿は昭和天皇に和平交渉を奏上したが、軍部に囲まれた天皇には敗戦の判断ができなかった。3月約54万人の米軍が沖縄読谷海岸から沖縄島に上陸を開始した。迎え撃つ日本軍は約10万人、以降3ヶ月民間人を含んで激しい地上戦が行われた。米軍は沖縄島中央から二手に分かれ、主力は日本軍司令部がある首里城に向かって南下した。たった10Kmが主戦場になり50日の死闘で5月末には司令部は敗退した。降伏を拒んだ司令部は民間人を巻き込んで南下した。戦力・兵糧を欠きただ捨て石として、米軍の本土進攻を遅らせるだけの闘いに、約65000人の本土兵と、沖縄の兵約3万人、そして民間人約94000人が犠牲になった。この沖縄戦に学んだ米軍は消耗の大きい地上戦闘を避け、空軍・海軍中心の本土爆撃の方針に変更し、さらに8月6日・8日には原爆を広島・長崎に投下した。本土決戦は行われず、原爆に恐怖した日本の支配層はポツダム宣言を受諾し連合軍に無条件降伏した。ポツダム宣言(山田侑平監修 「ポツダム宣言を読んだことがありますか」共同通信社 2015))は、戦後日本の非軍事化と民主化を要求した。日本政府のサボタージュに関わらず、GHQは直接指示によって民主改革を進め、マッカーサー元帥は日本国憲法草案の起を指示した。占領政策の円滑な遂行には天皇制を利用すること、一切の軍備と戦争放棄、封建制度の撤廃の3点が新憲法の主眼であった。象徴天皇制は封建制と国民主権の妥協の産物であった。1946年3月、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄を規定した憲法草案を日本政府が受け入れた。そして46年11月公布、47年5月3日施行された。衆議院議員選挙では沖縄は選挙区から削除され、国会に沖縄選出議員はいなくなった。沖縄の分離軍事支配と非武装国家日本の関係は表裏の関係にある。分かち難く結びついているのである。本土の非武装化、沖縄の米軍の軍事要塞化はセットになっている。1947年6月末マッカーサーは、日本の非武装化、日本と沖縄の分離を行い沖縄を米軍の軍事戦略拠点にすると発表した。46年9月に沖縄に関する天皇メッセージがGHQに伝えられた。米軍の有限期間沖縄を軍事支配することを認め、それが日米の利益にもなるという政治的発言で、アメリカはこれは天皇の個人的利益であるというコメントを付けた。主権在民を無視し象徴天皇にあるまじき発言であるが、日本の支配者はまだ民主主義のイロハも理解していなかった。GHQの占領政策は1949年の中華人民共和国の樹立が視野に入ってくる段階で修正を余儀なくされた。「非武装国家日本」を、アメリカの「目下の同盟国」として保護育成する政策への転換である。1950年8月警察予備隊が設置された。同年6月から始まった朝鮮戦争によって、マッカーサーは日本を「反共の要塞」とすると宣言した。警察予備隊は1952年保安隊に、1954年自衛隊に整えられた。非武装国家日本を「反共の砦」に転換するためには、米軍の恒久的な日本駐留政策が必要となった。東アジアにおける日本の戦略的重要性が謳われた。こうして日米の相互利用・相互依存関係を土台として戦後の日米関係がスタートすることになった。だが日本の再軍備と共に、非武装国家日本を宣言した日本国憲法との矛盾が表面化した。米軍が日本全体を基地化することが可能となった段階でも、沖縄の米軍支配は強化された。

(つづく)