ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男 「先祖の話」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月28日 | 書評
1945年3-4月東京大空襲下で書かれ、日本人の死生観の根源から霊の行方を見つめる書 第2回

1) 先祖とは(本書第1節ー第8節)

第1節 「二通りの解釈」:  先祖という言葉は、二通りに解釈されています。一つは家の最初だった人ただ一人が先祖だったと思っている。それは大変古い時代の人です。ですから自然と系図の初め出てくる人の事です。もう一方には、先祖は祀るべきもの、そして自分たちの家で祀らなければ、どこでも他では祀る者がない人の霊、すなわち先祖は必ず家々に伴うものと思っています。仰々しくは自分は桓武天皇から何代目と数える人が多いのは明治以来の慣習である。
第2節 「ちいさな一つの実例」: 我国では藤原という姓が多い。恐らく百万以上はあるだろう。しかし藤原は天児屋根彦命という神を祖とするが、この神を祀る不藤原さんはいない。藤原鎌足を祖として祀る家もない。「尊卑文脈」によると、関東の田舎では山陰流、魚名流の系統の家が多かった。さらに秀郷流もあり足利や佐藤の姓や波多野の姓もその流れにあるという。柳田という姓の流れは藤原魚名だそうだ。
第3節 「家の初代」: 著者柳田氏の祖先に柳田監物与兵衛という人がいた。自慢ではないから自分の家の話をするという。戦国時代の末に(栃木県の)宇都宮家のために働いて功があったので献物という名を貰った。秀吉によって宇都宮家が取り潰された後、監物は真岡に引っ込んで農業をしていた。真岡の領主の堀という侍が一万石の烏山の領主に取り立てらた時、監物は再び武家となった。旗奉行となり百石の禄を戴いた。そこで柳田家では献物が初代となっている。先祖棚に忌日と戒名が記されている。先祖の祭りは子孫の義務だというばかりでなく、正統嫡流の権利でもあった。
第4節 「ご先祖になる」: 「御先祖様になる」という言葉がある。一家を創立しまた永続させるだけの力のある人に与えら尊称である。明治以降の新華族というものの半分は一代で家を築いた(初代となった)人々であった。子供たちに家を持たせ、自分を祀らせようとする計画は古風であるが穏健な心掛けではないか。
第5節 「相続制と二種の分家」: 過去300年以上の長きにわたって、家の根幹を太く保つ「長子相続法」と、家を分け平等に子供に財産を与える「分割相続法」の二つが並立してきた。家を強くすることは、惣領の権限を太くしておくことであった。その分次男以降の取り分は少ない。特に封建時代の軍制は家の惣領が配下を従えてはせ参じることであり、長子相続法が基本であった。ところが明治政府の税制からすると家ごとに課すので戸数の増加を奨励するようになった。それでもなお旧家門閥では苦心をして分家問題に対応しなければならなかった。
第6節 「隠居と部屋」: 農家では一戸あたりの石高を一石以下にしないという決まりを設ける地方もあった。親が次男以降を引き連れ相当な地面をもって分かれ、親が亡くなったても本家に戻させない家を「隠居」という例がある。分家をすべて隠居と呼び年とった親がいるかいないかを問わない。それは元は隠居以外には、家を二つにすることを許さなかった名残である。分家を「へや」という地方もあり、母屋以外に部屋を造る場合や母屋内に住む場合もある。そこにいる人を「部屋住み」と言い、主人夫婦ではない者のことである。先祖祭りをするという分家はないが、新宅を作った分家には先祖祭りがあった。
第7節 「今の昔との違い」: 部屋と隠居は本来は分家とは言えなかった。寝食を一緒にするだけでなく、祀りの時は母屋に集まって共同の作業をする設備(カマドなど)はすべて本家にしかなかった。独立の生計がなかった生活集合体は我国の大家族制の形態であった。これがいいとは柳田氏は思っていない。我々の生活は今より良くなるように、改良していかなければならないが、たしかにこのような事実があったということは記録しなければならないという。
第8節 「先祖の心遣い」: 源平藤橘の名家でも本当の本家だという家は見当たらない。大抵は皆その当時の分家であった。神に仕える家だけが神代以来の嫡流だと言っているだけである。昔の分家は多くは遠く離れた土地に創設された「開発地主」である。先祖から譲られたものは本家に属する。それを削っては家を弱めので、山野の空地を探して耕作し次男以降に与えるのは問題ないと考えた先祖の苦労と心遣いを思い知るべきであろう。

(つづく)