ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「山の人生」 (角川ソフィア文庫2013年版)

2018年03月03日 | 書評
柳田国男が模索する、日本先住民の末裔の生活 第10回

25) 米の飯をむやみに欲しがる事: 鈴木牧之の「北越雪譜」に、南魚沼郡池谷村の娘が一人で機織をしていると、猿の様な大男が来て内を覗いた。娘がまごまごしている間に大男は台所に入り飯櫃を欲しそうにした。娘は握り飯を3つほど作って与えるとうれしそうにして帰った。その後も折々やって来たそうである。南魚沼郡十日町でも峠で昼飯を食っていた人夫に大男が近づき、焼き飯をやると喜んで、荷物を背負って里まで送ってくれたそうである。飯を報酬として仕事を手伝うことを山人が憶えたようである。美濃信濃の「狗賓餅」、「御幣餅五兵衛餅」という串に刺した焼き飯を山の神に祀る祭礼もここから由来したのかもしれない。この焼き飯を供えて仕事をしないと山の神が悪いいたずらをする言い伝えがある。別名に「山小屋餅」、「黍餅」とも呼んだ。

26) 山男が町に出で来たりし事: 山男(山童)が非常に力が強かったこと、常人に手には負えなかったこと、足が達者で追跡できなかったこと、通例平野の人との交流を望まず避け隠れていたこと、野獣を捕まえて食べたことはよくいわれるが、むしろ平地の人に近づこうとしたことの方が不思議であると言える。「東部談叢」という書に、慶長10年駿府城下に山男らしいものが現れたことが記されている。寛永19年土佐豊水郷に「山みこと」が捕らえられ高知城内に連行された。その後山に返された。土地の人は彼らを山神の使者とか代表者と考ていたようだ。「視聴実記」に江戸初期に名古屋で異人を捕まえた記事がある。12,3歳の小坊主であったが力が強く、ようやく捕まえて尋問したが答えず、夜に縄を解いて逃亡したという。「あいつ小僧」といった。山男が町の市に通う話が「譚海」に記されている。相州箱根の山から小田原の城下に川魚を売って米に換えるのである。人はその跡を追ったがついて行けなかったという。人に害を与えるわけではない商いに降りて来るのだから、人の興味を引いたのであろう。岩手県大槌町でも市の立つ日、近在のものでないものが毎回米を買って帰った。町の人は山男だろうと噂をしていた。信州安曇野の新田の市、北済安曇では千国の市に暮れに限って山姥が出るという話があった。瓢をもって酒を買いに来るのであった。筑前甘木町の乙子市の12月晦日に山姥が買い物に来るという話が古くからあった。磐城亘理郡小鼓の旧家の家に物貰いの老人が来る。飯、酒を瓢箪にれてもらって帰る。別名「アサリ仙人」と呼んだが、跡を追ったが阿武隈川連峰で姿を見失ったという。こうした町の市にやってくる山人の生活は、ほとんど同化帰順の段階にあるとみられる。

27) 山人の通路の事: 木こりや猟師が野宿しなければならない時、深山の谷の行きどまりを選び、嶺が開けて背面に通じている場所は「魔所」として避ける。これは必ず夜中に怪事が起きるからという言い伝えがある。山男山女の通り道だからである。「中古著聞集」には、山男の集団が一晩で三州豊橋から浜名湖まで通過するのを見たという記述がある。それほど強健な足をもって夜道を駆ける習性を持つのである。菅江真澄著「遊覧記」には北秋田郡黒滝の山で「山鬼の道」を避ける話がある。「木曽駒ヶ岳後一覧記」には山尾根先は天狗の通路で夜は避けることという決まりがある。つまり通り抜けができる谷は天狗の通路だからである。逆に人が切り開いた新道は、山鬼らも利用しているようだ。山鬼は安芸の厳島では長く天狗護法の別名であった。秋田の山鬼は山中の異人の総称であった。その健脚を買って秋田の佐竹藩は飛脚として、秋田と江戸の連絡に使ったようである。

(つづく)