ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「火の昔」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月11日 | 書評
火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る 第6回

13) 松燈蓋: あかりの道具は古いものと新しいものがゆっくりと遷り変りました。神話時代は松の木のかがり火でした。岩手県二戸や九戸の山村では、今でも大きないろりに、松の枝ぶりのいいのを切って真ん中にくぼみを作って、それを灰に差し込みます。その上に石をおいてアブラ松を焚くのです。これを「松燈蓋」と呼びました。ほかに「木割台」とか「コンニョウボウ(小さな女の子)」と呼びます。こういった生活は非常に長い間続きました。松以外の燃料には、京都ではヒョウビ油を用いました。この名残はお祭りの御神楽をあげる時とか、柴燈護摩の祭りに残っています。燃料は松の木と限られています。

14) 屋外の燈火: 漁業の焚き入れでは、石油やアセチレンが使われていますが、今でも川魚を取りに行く時は松のヒデを割った物をかがり火にしています。狩猟でも松の木を使った「トモシ」をもって山野に入ります。この松のヒデで反射した獣の眼を見て矢を射ったり、鉄砲を打つのです。「宇治拾遺物語」では聖が鹿の殺生をする猟師をいさめるため自分が鹿の皮を着て林の陰に潜んでいますと、漁師は松の光に照らされた眼光を見てこれは鹿ではないと思って、射るのを止めて近づきますと聖であることが分かり、反正氏それ以来猟師を止めたという話しがあります。「松明」と書いてたいまつと呼んでいますが、たいまつとは手に持つ火(手火)です。「松明」はマツアカシと呼ぶべきです。

15) 火の番と火事: 手火(たい)またはたいまつという火の持ち運びができると、その火をどう作るかが大問題です。都会特に都には「御垣守衛士」という御所の番人が火を焚きました。又町の辻48カ所には「かがり屋」を置き、番兵が交代で火の番をしました。辻番小屋の脇に「火焼屋」があって、常燈をつけて道しるべにしました。夜なかに無燈で歩くことはご法度で、それをとがめることも辻番の役目でした。この秩序が崩れると火事が起こりやすく、番人は巡警を行います。戦争になれば多くの篝火をたくので火事場のように明るかったといいます。軍略上から町屋を焼くことを「捨てかがり」と言ってたいまつで放火してゆきます。火を消さずに置く習慣は都会で始まった。番をしない火が家事の元になりました。火は結局番人がいるもので、家と火の関係は切り離すことができません。家が火の中心であり、火の管理者は主婦だった時代、火は安全だったのでした。

(つづく)