8月20日渋谷区の路上で母娘を刺傷した中学3年の少女は、「死刑になりたいと思い、たまたま見つけた2人を刺した」と供述したという。
容疑者が「死刑になりたかった」と供述する事例はこれまでもあったが、それがついに中学生にまで及んだ。
「死刑になりたい」という少女の言葉は聞き流せない。聞き流してはいけない。
少女は家庭や学校でさまざまな生きづらさを抱えていたようだ。その生きづらさが周りの人への殺意に向かうと同時に自己の抹殺願望にも及んだ。「死刑になりたい」は「死にたい」と同義だ。“2人以上殺せば死刑になって死ねる。国家が殺してくれる”
中国新聞が17日付から「ルポ尾道刑務所支所―高齢化する受刑者たち」を3回連載した。同支所が「再犯の悪循環」を断つために大切にしていることが、「司法と福祉の連携」だと言う。
社会福祉士の小川香奈さんは出所する元受刑者らに、「人と接点を持つこと、誰かを頼ること。生きていくために必要なこの二つを、どうか心に留めてほしい」と願う。
「人と接点を持つこと、誰かを頼ること」。この2つがあれば、出所後の生きづらい世の中でも、なんとか生きてゆける。それが小川さんの確信だ。
少女にこの2つがあれば、おそらく事件は起こらなかっただろう。
真情を話せる接点がある人もいず、誰にも頼ることができなかった少女は、追い詰められた。
そこにあったのが「死刑」というこの国の制度だ。自分で死ぬ“勇気”はなくても、国家が殺してくれる。
死刑は「人と接点を持つこと、誰かを頼ること」を拒絶する。永遠に拒絶する。
この国は、生きづらさに悩み苦しんでいる人に、「人との接点」「頼れる誰か」の代わりに、「死」を用意している。それが死刑制度だ。
こんな社会でいいはずがない。だから、「死刑」は絶対に廃止しなければならない。