アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

詩人・尹東柱は福岡の獄中で最期に何を叫んだのか

2019年02月16日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

     

 74年前(1945年)の今日2月16日、福岡刑務所で一人の朝鮮人詩人が獄死しました。名は尹東柱(ユン・ドンジュ)。27歳の若さでした(写真左、中は10日放送のEテレより)。

  安倍政権のファッショ的強権政治の下、そして「代替わり」を前に天皇キャンペーンが繰り返されているいま、天皇制帝国日本によって事実上殺された青年の詩と人生を振り返ることは、私たち日本人にとって特別の意味があると思います。

  尹東柱は1917年12月30日、日本の植民地支配に抵抗した朝鮮の人々が入植した国境近くの北間島(中国吉林省)で生まれました。42年(25歳)、日本に留学。4月に東京の立教大に入学し、同10月に京都の同志社大に転学。翌43年7月、下鴨警察に逮捕されます。容疑は「独立運動」。44年3月、京都地裁で「治安維持法違反」で懲役2年の判決を受け、福岡刑務所に投獄されましたが、1年もたたないうちに帰らぬ人となりました。
 「病死」とされていますが、「拷問」あるいは「薬物人体実験」で殺されたという説もあり、真相は分かっていません。

  尹東柱は「独立運動」をしたわけではありません。それどころか、彼の作品は一見、政治性とはかけ離れています。代表作の「序詩」を『尹東柱詩集 空と風と星と詩』(金時鐘編訳、岩波文庫2012年初版)から転記します。

   序詩

 死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを、
葉あいにおきる風にさえ
私は思い煩った。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。

今夜も星が 風にかすれて泣いている。  (1941・11・20)

 他の作品も、自らの生き方を自省したものが主で、政治的なもの、まして「日本・天皇制」を直接批判したものは皆無と思われます。それがなぜ「治安維持法違反」なのか。

 在日詩人の金時鐘氏は前掲岩波文庫の「解説」でこう指摘しています(写真右は季刊誌「抗路」2016年12月号より)。

 「たしかに尹東柱の詩作品は、時節や時代の状況からははずれているノンポリの作品です。ですがその時、その場で息づいていた人たちと、それを書いている人との言いようのない悲しみやいとおしさ、やさしさが体温を伴って沁みてくる作品ばかりです。それはそのまま詩人が生きていた時代の日の射さない、暗がりの素顔を浮かび上がらせている意志的な反証ともなっているものです。あの極限の軍国主義時代、こぞって戦争賛美や皇威発揚になだれを打っていた時代、同調する気配の微塵もない詩を、それも差し止められている言葉(日本が使用を禁じていたハングル―引用者)でこつこつと書いていたということは、逆にすぐれて政治的なことであり、植民地統治を強いている側に通じる言葉(日本語―同)を自ら断つ、反皇国臣民的行為の決意をともなっていたものです。ですので尹東柱の詩は、時節とは無縁の心情のやさしい詩であったがために、治安維持法に抵触するだけの必然を却ってかかえていた詩でもあったのでした」

  暴圧的皇民化政策の中で、圧政に支配されない精神の自立を求め、自国の言葉で書き続けた。それが「治安維持法違反」とされたのです。皇民化政策・他民族支配の本質がここに表れているのではないでしょうか。

 その尹東柱の詩と生涯が現在の私たちに問いかけているものは何でしょうか。

 「非命の詩人・尹東柱から教わったことは、顧みられない者への愛です。記憶されているかぎり、人は死にません。生き残っている者に出来ることがあるとすれば、そのように生きとおした人、圧しひしぐ暴圧のさ中で、なお生きることの意味を自己に問いつづけた死者の記憶を、自分の心に蘇らせていくことです。そして、その死者の生涯を損ねた人たちが、日本でも朝鮮でも、そのまま時の為政者の側に鞍替えしていったことを改めて思い起こし、その同類が今も権勢者の側で顕在であることを忘れないことです」(金時鐘氏、前掲書「解説」)

  ひごろ穏やかだった尹東柱が、息を引き取る直前、獄中で大きな叫び声をあげました。看守はその声を聞きましたが、朝鮮語だったため意味は分かりませんでした。いまもナゾです。

 尹東柱は最期にいったい何を叫んだのでしょうか。帝国日本への恨みでしょうか。祖国への希望でしょうか。家族への想いでしょうか。それとも、後世の私たちへの激励でしょうか。


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