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日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

ドミノのお告げ 久坂葉子

2011-10-23 | book

短い生を駆け抜け、つかの間の青春のうちに逝ってしまった久坂葉子。
作品から垣間見えるのは久坂葉子が自分を偽らないそのありのままをぶつけてくるひたむきさである。

Dominonootuge
ここに収められているのは『ドミノのお告げ』『華々しき瞬間』『久坂葉子の誕生と死』
『幾度目かの最期』の4篇。

『ドミノのお告げ』は「落ちてゆく世界」を改題した作品で芥川賞候補になり、
没落した名家の日常を描いている。
栄華を誇った家は「私」が生まれた時はすでに斜陽の影がさしていた。
昔気質の父、宗教に没頭する名門の出の母、病身で入院している兄、
家族を突き放したように音楽に没頭する弟。
生活を支えていかなければならない「私」は家の骨董を売ったりアルバイトをしてしのいでゆくが
名門ゆえの世間体が家族に重くのしかかっている。
不安を孕んだ家族は先が見えない今を生きていく。

『華々しき瞬間』 南原杉子がもう一人の自分として別名「阿難」と称し
喫茶店カレワラでめぐり会う男と女の交錯する恋の心理を描く。
装う自分がピアノの音色の中で得られた一瞬の幸福。

『久坂葉子の誕生と死』はKusaka作家・久坂葉子の足どりを綴った記録。 
そして『幾度目かの最期』は遺稿となった作品で
彼女が生きる望みを絶つ原因ともなった家のこと、恋愛のすべて、作家としての苦悩などが
ほとばしるように書かれている。
この作品は1952年12月31日、午前2時頃に書き終えている。
そしてその夜に彼女は阪急電車の六甲駅で自らの生に終止符を打った。
21歳。この作品を「全部本当のこと」と告白し、自分を罪深い女と結んで。

久坂葉子。名門の出で、芥川賞候補にものぼったその容貌はエキゾチックで、
ターバンのような帽子にたばこを手にした彼女は、
当時でも新しいタイプの女性であっただろうことを感じさせる。
そして大晦日の自殺。

傷つきながらも自分に忠実であり続けた彼女は鮮やかな光芒を残して逝ってしまった。
しかし作家・久坂葉子として作品を深め、
人間・川崎澄子(本名)として生きることをして欲しかったとも思わずにはいられない。
黒いリボンがかかった額の中に入るにはあまりにも早い年齢なのだから。


坊ちゃん 夏目漱石

2011-09-22 | book

Bocyan
本を開けば、無鉄砲で正義感の強い坊ちゃんは、活字を吹き飛ばすくらいに生き生きと描かれている。
しかし小説はなぜかもの哀しい。

その破天荒ぶりに父からは見限られ、母は兄びいきである。
それでも「坊ちゃん」と呼び、彼を可愛がってくれた下女の清がいた。 

松山へ数学の教師として赴任してもそこは馴染めない地であり、生徒は困り者ばかりだ。
彼の目を通して教師たちの性格が語られるが、まるで現在同様の社会の縮図のようである。
小ずるく生きる赤シャツ、割をくってしまううらなり、
気取っているがどこか信頼できる山嵐など。

この地で主人公が丸腰で生きることがどんなに困難かその思いはさらに深くなっていく。
そんな彼に清への郷愁にも似た瞬間が何度も訪れる。それは彼がフッと孤独を感じる瞬間だ。

赤シャツや生徒らの不条理さに表面だけでも同じようにすることに彼は不安を感じる。
相手はいい人・立派な人を装いながら複雑なことをするからだ。
彼は無鉄砲であってもまっすぐにしか生きられない。 

退職を覚悟で赤シャツの秘密に山嵐と戦い、東京に戻って清を呼びよせ一緒に暮らすが
病のために清はまもなく帰らぬ人となる。
彼を理解し帰りを待っていた彼女は主人公がたどりついた暖かい日だまりであった。
両親の愛情が薄かった主人公の孤独な思いを感じるタイトルである。


ユキの回想 ユキ・デスノス

2011-07-05 | book

フランスの詩人ロベール・デスノスの妻であり、その前は藤田嗣治の妻であったユキ・デスノスの半生を描いた書で原題は『ユキの打ち明け話』
1979年 美術公論社 河盛好蔵 訳

Yukinokaisou
フランス人である彼女の本名はリュシー・バドゥだが
「ユキ」は「ばら色の雪」という意味でフジタが名づけた。
そして「デスノスの」姓。二人の男性にちなんだこの名前は彼女の人生を語った名前ともいえよう。

本書には当時のユキの周囲の人たちをはじめとして夥しい人物が登場する。
それはユキが持つ社交性や美貌、行動力、知性、奔放さが
運のめぐり合わせを生んだことが容易に理解できる。

「ドゥマゴ」でユキが見たフジタはおかっぱ頭にべっ甲の眼鏡、そして個性的な服装で彼女の前を通り過ぎた。
ユキはたちまち魅了され、又フジタも前妻と別れたあとのことであり二人は結婚。
ユキは画家の妻になった。

フジタは絵の成功で名声も高まるが、すべてが順風満帆とはいかなかった時代でもある。
だが生活は華やかであり、画家と妻のそれぞれがリベラルなものだったことを物語っている。

ロベール・デスノスとユキは彼女がフジタと結婚する前からの知り合いであり、
デスノスは二人の家にもよく来ていた。微妙な空気があったことが想像される。
フジタとユキが日本の旅から帰った一年後に二人は離別。そしてユキは詩人の妻になった。

デスノスは広告や放送、執筆などの仕事をしユキとの平穏で幸せな生活が続いていた。
そしてフランスは繁栄していた。しかし戦争がやってくる。
デスノスはドイツによる不正への反発からレジスタンス(対独抵抗地下運動)に加わった。
彼は純粋な正義によって運動をしていた。
しかしこの運動を悪に利用した仲間によってすべてが崩壊する。

1944年2月22日、ゲシュタボがデスノスを逮捕しに来た。
デスノスはある夫人からこの情報を事前に知らされていたが夫人の息子を逃がし、
「逃げて」というユキの言葉をさえぎっている間にゲシュタボが到着してしまった。

ユキはデスノスに食料を届け、また面会できるための手続きをドイツ軍の屈辱と、
彼らへの怒りに耐えながらあらゆる手を尽くして難関に飛び込んでいった。
ユキの行動は戦争の過酷さが彼女を強くしたとはいえ、その勇気に敬服の念を覚えずにいられない。

デスノスは最初に拘留された場所から幾度か移され、ロワイヤリュー収容所でユキと会うことが出来た。
しかし次に輸送されて行くのは最後の収容所であった。
ユキはドイツ憲兵から自分が反逆者だと疑われているのを物ともせずその列を見に行く。
彼がいないことを願う。しかし不幸なことにその中にロベールはいた。
「すぐまた会えるよ!すぐまた会えるよ!」ユキをみつけたロベールが叫んだ言葉だった。

そしてデスノスの帰りを待っていたユキに知らされた現実はロベールの死であった。
チェコスロバキアのテレジン収容所でチフスのため、最後までユキを想いながら
「眠りの人デスノス」は永遠の眠りについた。

ユキに残っている力はデスノスの作品を出版して彼の存在を守りたいという思いだけだった。
彼女のその尽力はロベール・デスノスという感動的な詩人がかつていたことを今の私たちに伝えてくれる。


尾崎翠 モダンガールが放つプリズム

2011-06-16 | book

大正、昭和ひと桁の時代から現在の私たちに尾崎翠は感覚の矢を放ってくる。
読んでいると、尾崎翠という水槽の中で自分が藻のようにゆらゆらさせられ、
水槽にさまざまな色のプリズムを彼女が当てているかのように思えてくる。



「こおろぎ嬢」のうぃりあむ・しゃあぷと、ふぃおな・まくろぉど嬢の
ドッペルゲンゲルを和歌で結ぶしゃれっ気。
「初恋」の意表をつくラストや、耳鳴りが主役の「新嫉妬価値」の意外性。
「アップルパイの午後」はまるでフランス映画のワンシーンのようでもある。
そして話題になった「第七官界彷徨」では、二助が研究する蘚(こけ)の恋愛を軸に
兄弟、従兄弟それぞれのほのかな恋愛を描いている。
しかし、どの作品にもそこには尾崎翠がひそんでいる。

「地下室アントンの一夜」で、一人の詩人の心によって築かれた部屋であると地下室を表現した彼女は
自分の中に見る他の自分、あるいは物が人になったりする発想を心の部屋で綴っていたのだ。
目にするあらゆるものが自分と同化するような感覚で。

形あるもの無いもの、男性女性のどちらでもないもの。見えるもの見えないもの。
それらを超えて書かれた作品から、今も尾崎翠は澄んだ多面体に彼女自身をいくつも反射させている。


1914年の夜 アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ

2011-06-11 | book

 

レマン湖畔のホテル。夕暮れが山々を紫色に染める宵。
舞踏会が開かれている。
「私」はレリアに恋をし彼女と踊ったワルツに酔い、幸福なひとときをバルコニーで思い描く。

1914年の夜の音楽と宴のざわめきの中で、レリアへの憧れを「私」が独白で語っていく。
ただそれだけの短編である。
有閑階級のある一夜のようだが、この物語には、けだるくも恍惚とした時間の中、
すぐに始まる第一次世界大戦前の不安と幸福の崩壊をはらんでいる。

1914年6月、ボスニアのサラエボでオーストリア=ハンガリーの皇太子フェルドナンド公夫妻が
市内を視察中に銃撃によって暗殺された。
犯人はオーストリア領から独立を望んでいたセルビア人の青年であった。
これにより7月、オーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフがセルビア王国に宣戦布告。
第一次世界大戦の始まりであった。

この本の時期は戦争が始まる直前のつかの間の静けさの時であり、
だれもがサラエボ事件がこれからもたらすであろう抜き差しならない現実を予感している。
これはその前の短い幸福に酔いしれる刹那的な宴の模様である。

1979年 奢�廟都館 生田耕作 訳 装丁 アルフォンス・イノウエ


天使 須永朝彦

2011-05-17 | book

Tensi
かつてコーベブックスという出版社があった。
蘭麝館や薔薇十字社ほど趣味的な造りではなかったが、愛書家が好みそうな本を出していた記憶がある。
本書は1976年(昭和50年)、普及版としてコーベブックスから1200部発行された。


ページを開ければ、白日夢か漆黒の迷宮をさまようような須永氏の退廃美がちりばられている。
漢字が持つ高雅さで倒錯を描いた11篇の物語。

月光の下で年に一度論文を書く美少年。官能的な金色の翼をもつ天使。
マタドールの死で明かされる真実の愛とその恋人の悲嘆など‥。
そしてルイ、ルイザとジャン、ジャンヌが妖しく交錯するリラの不思議な記憶。

Tensisign

ビアズレーを思わせる杉本典己のイラストとあいまって、読み終えたあとに一瞬軽い眩暈をおぼえ、そして現実に戻った。

天使はいつのまにか近くにいる。
人間はいつのまにか天使に盲いてしまう。



右は須永氏の美しい文字。


「高野聖」 泉鏡花 

2011-02-28 | book

明治33年、泉鏡花が「新小説」2月号に発表した『高野聖』は、旅人である「私」がひとりの僧侶に出会い、共にした旅の宿で僧侶が「私」に語った不思議な体験談である。

Kouyahijiri   
飛騨から信濃へ抜ける天王峠。迷った僧は二本に分かれた道に出た。
まっすぐの本道に対して左側の道は近道であるが
命を落としかねない危険な道であった。
その道に入った薬売りを助けようと僧は後を追うが、蛇の死体を見たり雨のように降る蛭に襲われる。
そこを抜けた先にあった一軒の家には
この世のものともいえない美女が白痴の男と暮らしていた。

旅で疲れた僧を女は親切にもてなし、川でその疲れを洗い流すよう案内した。
そこでの体験は夢ともうつつともつかないものであった。
鏡花が描く清冽な川の水は妖しの水に変化する。


その夜、女のそばから聞こえてくる動物たちが動いている音や影に恐怖を覚え、僧侶は呪文を唱えて夜を明かした。
翌朝、僧は出発するが女と一緒に暮らしたい煩悩に襲われる。
そこへ女に仕える親仁(おやじ)に会い、女は淫心で近寄る男を動物に変える魔性を秘めていたことを知る。

Kiyokata_hijiri

聖職者である僧侶は人を救う身として薬売りを助けるために危険に身をさらし、
美女の親切を受けながらも心は清廉であった。
女性への俗の思いを持たず、美しいものとして象徴した気持ちが
旅僧を人間の姿のまま帰したのであった。
俗のものではない中に存在する人間の心。
鏡花が求めた美はここにこそあるのではないだろうか。



「高野聖」の最後の結び。
<ちらちらと雪の降るなかを次第に高く坂道を上がる聖の姿、あたかも雲に駕して行くように見えたのである。> 

幽玄境をさまようような耽美な文をちりばめ、不思議な体験をした旅僧を高潔な姿として鏡花が描いた後姿である。 

           画は鏑木清方の「高野聖」 昭和24年 雑誌「苦楽」表紙絵           


第一阿房列車 内田百間

2011-02-21 | book

用があるわけでもなく大阪まで行く。一等車に乗るため借金をして。でも行けば帰って来なければならないという用事ができる。
このようにユーモアに富んだ内田百間の思考が随所にあふれ、独特な人柄と型破りの旅に引き込まれる一冊である。

Aboressya
一緒に旅をする「ヒマラヤ山系」は、話しかけても「はあ」と
気乗りしているのかいないのかわからない返事なのだが、国鉄職員の「つて」を使って
百間の面倒を何かとみてくれる。
さながらドン・キホーテとサンチョ・パンサの珍道中のようだ。

あわてて走って列車に乗り込むくらいなら2時間あとの列車まで待つのもいとわない。
自分流の気ままな旅の哲学があるのだ。
しかし明治生まれの紳士然とした気質が品を崩さない。

往年の名列車「はと」に乗った内田百間は
特別うれしそうでもなく口を固く結びカメラに納まっている。
なんとも微笑ましいこの写真をみるたびに、百間がヒマラヤ山系と
お酒を酌み交わしながら車窓を眺める姿を想像するのである。


芹沢介のブック・デザイン

2010-12-06 | book

型絵染の人間国宝・芹沢介(せりざわけいすけ 明治8年~昭和59年)のブック・デザイン展が静岡の芹沢介美術館で開催されていた。

32歳の頃から染め物を始め、染色家となった芹沢は沖縄の紅型(びんがた)に魅せられ、やがて独自の技法を確立した。
着物や屏風、暖簾など布地に染め上げられたデザインは大胆な構成でシンプル。
多くの色彩を用いているわけではないのに晴れやかな爽快さが残る。

ブック・デザインは生涯の師とした柳宗悦(やなぎむねよし)の勧めで雑誌「工藝」の表紙の装丁を
手がけたのをきっかけとして500冊以上残した作品の中から300冊が展示されていた。 

1serizawabook






ファン・ホッホの生涯と精神病上・下 (特性)
式場隆三郎(聚樂社)








『孤児マリイ』マルグリット・オオドウ 堀口大學訳(操書房) 上段左
『羅刹』 山本周五郎(操書房) 下段左から2番目  など2serizawabook_2

 

 

 

 

 

 

 

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可否道 獅子文六(新潮社)







流亡記 開高健(成瀬書房)ケース内側に絵入りの限定特装版 上段左 
雲をたがやす男  中村光夫(集英社) 下段真中4serizawabook

 

 

 

 

 

  


Serizawaatorie

 

 

 

 

 

 

  

芹沢介が春夏秋冬を過ごした部屋。柳宗悦にすすめられ、
昭和32年(1957年)東京・大田区蒲田に住み、この部屋を応接間として使ったり創作をするアトリエとして過ごしていた。
昭和62年、美術館のそばに移築され、芹沢ありし日の創作生活を思い描くことができる。
メキシコ、イギリス、フランス、日本の家具とフィンランド製の電灯。

   「ぼくの家は、農夫のように平凡で、農夫のように健康です」  芹沢介


静岡市立芹沢介美術館は、芹沢介が郷里の静岡市に自身の作品を寄贈し、
建築家・白井晟一(しらいせいいち)によって建設され「石水館」と名づけられた。
外壁と展示室の内部に配した石、池に昼と夜の光を映す水。
静かに鑑賞できる展示室はモダンな中世の館のようでもあり、ゆっくりとした時間を過ごせる別空間であった。


蘭麝館という出版社

2010-11-19 | book

Ranjya 

写真は『蘭麝』の本で創刊号。
紙の函に収められていかにも部数の少ない特別な本のような気がして手に取った。
渋谷パルコにあったリブロポートで購入した記憶がある。

リブロポートが揃えていた洋書や文芸本は、他の書店にはない芸術に徹した品揃えで
棚の前でわくわくしながら本をながめていた。そのとき目にとまった1冊。
1977年 蘭麝館 限定300部の30番台 




4人の作者がそれぞれ世紀末のデカダンただよう幻想を描いているが、
装丁も全ページ美を凝らした創りになっている。 
『蘭麝』4号までの発行で解散したと聞いたが
芸術的な本の出版に情熱をかけたことが強くつたわってくる貴重な1冊である。



・黄金の夜(東恩納 遊)◆4体の人形におとずれた夜
・ラフレシア綺譚(伏見夜風)◆ グラジオ男爵が見た晩餐会で起こった不思議な現象
・くつがえされた宝石、のような朝(中村廣子)◆天使がみた一角獣の夢のあとに輝くダイヤモンド
・天鵞絨の余韻(田中れいら)◆現存する謎の絵画からイメージした少年の幻想


「パッパ」。それは私の心の全部だった。 森茉莉

2010-10-17 | book

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「パッパ」と呼ばれ、子供たちから慕われた明治の文豪・森鴎外は
軍医、作家の顔とは別に、家族を思い、子供たちに能うかぎりの愛情をそそいだ父親でもあった。


現在、東京の「世田谷文学館」で展示されている「父からの贈りもの-森鴎外と娘たち」展では
鴎外自身の資料や、長女・茉莉(森茉莉)、次女・杏奴(小堀杏奴)への
数々の「父からの贈りもの」を見ることが出来る。
教育者としての鴎外、そして子供たちを人としてその個性を尊重しながら
暖かくみつめた父親の姿がある。

そして、いじらしいほど父を慕う子供たちの手紙や回想から伝わってくるのは
深い絆で結ばれた森家の感情の歴史である。

 

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父から送られた首飾りをつけた茉莉


「お茉莉、西洋では十六になって、最初の舞踏会に出る時に、はじめて首飾りをするのだ」
父が茉莉にこう言ったとき、茉莉はまだ16歳に達していなかった。
この時、玩具のようなものなら、と父は伯林(ベルリン)に洋服を注文した際、一緒に注文をした。それはシベリア鉄道で届いた。

その首飾りを茉莉は2度も紛失したがいずれも見つかっており、終生大切なものとして茉莉を幸せにした品だという。


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鴎外が杏奴に歴史を教えるために作った教科書。

天照大神からはじまり、時の天皇、将軍など主要人物の説明が書かれている。
他にフランス語や、長男・於菟(おと)にはドイツ語の教科書も作っている。



 

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チョコレート箱の中に鴎外が書いた末子・類(るい)の時間割

このように鴎外が子供たちにそそぐ愛は、親が持てる知と愛を惜しみなく与えて感動的ですらある。

杏奴は「パッパ」と鴎外へ多くの手紙で呼びかけている。
そして胸を打つのは、大正11年(1922年)、13歳の杏奴がヨーロッパに滞在している茉莉に
鴎外の死の直後に悲痛な心境をつづった手紙である。

<あれ程パッパが死ねば生きて居られないと思ったほど大切な大切なパッパです。
ゆめであればいいと念じましたが、たうたうほんたうの事となりました。
(略) どうしてどうして死んだのでせう。>



鴎外は、萎縮腎、肺結核で逝去したが、口述筆記で「栄誉や肩書きをとり払い、森林太郎として死す。」と遺言している。
子供にとって父の存在は大きく暖かい懐であり、一家の幸せを守る絶対の存在であった。


若かりし頃、森茉莉に傾倒して本を買いあさって読んだ時期があった。
文字からにじむフランスの香りが素適だった。
そして父への忘れがたい思慕が彼女にペンを走らせ、生きる支えになっていることは容易に理解できた。
安価なものでも宝石に変えて楽しむ魔法を生まれながらにもっていた茉莉。
しかし茉莉にとって一番の宝石は父・森鴎外であった。

           2010年10月2日(土)~11月28日(日)まで


文体練習 レイモン・クノー

2010-10-10 | book

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クノーの表現遊びが楽しくてどんどん読み進めた一冊。いつの間にか愛読書になってしまった。

内容は、ある若者がS系統のバスの中で隣の男に腹を立てている。
だが空いた席をみつけるとあわてて座る。
2時間後、別の場所でその若者は友人からコートのボタンの位置について指南されている。
他愛のないたったこれだけのことが99通りの表現で書かれている。

クノーが実験した表現形式は変幻自在にしゃべる詩になり
ページごとに違う人間からその状況を聞いているようなおかしさがある。
読んでいくと、言い方が変われば
同じ状況でも人によって違う印象になることを再認識させられる。

                     (本文より)
6・びっくり
バスのデッキが混んでたことといったら!まったくひどいもんだった!

25・擬音
正午の鐘がキンコンカン キンコンカン S系統のバスが ぶるるん ぶるるん

81・ちんぷん漢文
正午太陽在中天 巴里猛暑御見舞

訳者は原文をそのまま日本語に変えられない難しさがあったと書いているが、クノーの表現したい意図を優先したために
部分的に訳者の本になってしまった述べている。
しかしこれほど楽しめる本に仕上がった手腕は見事というほかはない。


レイモン・クノーが生み出す言葉の実験は新鮮な驚きと、深刻にならない自由さがとても気に入っている。
この作家にして「ザジ」あり。

1996年 朝日出版社 朝比奈弘治 訳


「屋根の上の牡牛の時代」 モーリス・サックス

2010-10-06 | book

Yanenoousi
1920年代のパリは幸福に満ち「世界のパリ」と輝いた魅惑の時代であった。
1918年に第一次大戦が終結し、その暗い痕跡が空の向こうへ消えてしまうことを皆がのぞんでいた。
そして昇る太陽はまるでパリをさすかのようにパリは輝き出す。

有閑階級に生まれ育った著者モーリス・サックスはこの幸せな狂乱の時代を
陶酔するように駆け抜けてゆく。
本書はすべて日記として1919年7月からはじまり、当時のその日のニュースや
彼自身の心情が記されているが、訳者のあとがきを読むとこの内容は実録ではなく
サックスの創作であることが判明する。
日記を読んでいると当時の様子をリアルタイムで感じるような錯覚を起こすが、
サックスの年齢が13歳の時に狂乱の時代が始まったことからモンタージュの形であることに納得がいく。

成長したサックスは実際に当時の主要文化人とは知り合いも多く、華やかな交流生活を送っていた。
ジャン・コクトーへの憧れも強く日記に何度も名前が出てくる。

<しかしコクトー! ああ、コクトー! ぼくはどんなに彼と知り合いになりたいことか!> (本文より)

その願いは現実となるが、その後サックスの心情は変化してコクトーの信頼があったにもかかわらず
背徳ともいえる行動をする。
しかし憧れが強かったゆえの複雑な思いが「友人アリアス」という化身を借りて見えかくれするのである。


この本は創作でありながらも、絢爛たる時代を記した虚構の中に真実を語り、華やかな喧騒と繁栄を
みごとに伝えているといえよう。
1929年、アメリカの株大暴落により狂乱の時代は終わりを告げた。

    大気にシャンパンが漂っていた時代(モーリス・サックス)  

1994年 リブロポート発行 翻訳 岩崎 力


風-に関するEpisode 龍膽寺 雄

2010-09-18 | book

Kazeryutanji
表紙の絵はデ・キリコの「街の神秘と憂鬱」
郷愁を感じさせるが、音のない静かな不気味さを秘めている絵である。
この絵のような情景の中、物語は淡々と、そしてロマンチシズムが序々に昇華して進んでゆく。
1976年 奢�廟都館


廃港の町に立つ木馬館。その前にある三角広場では子供たちが影踏みをして遊んでいる。
ここには地形の関係で旋風がたびたび吹くが
その風はここだけの世界をつくる気流となって街に流れていた。

キラキラ回る風見鶏。ゆったりと飛ぶ軽気球。古びた六角塔と空。
廃れた広場に風が吹けば夢が生まれる。しかし風のない夜は妖しく危険な予兆をはらんでいた。


『名人伝』 中島敦 大志の果てに

2010-09-13 | book

Nakajimaatusi 
現在私たちが親しんでいる中島作品は、彼が32歳から33歳までのたった2年間に
発表された短編だけである。そのため読める作品は非常に少ない。
しかし、とりわけ文字をいつくしんだ中島敦の文は難しい漢字にとまどうこともあるが、
その緊張感からは不思議なことに端正な心地よさも感じるのである。

あらすじ
紀昌は弓の名人を志し、名手・飛衛に学び厳しい試練を経たのち、同格の腕前まで上達した。
もう飛衛から学ぶものがなくなった紀昌は
嶮しい山に超人的な腕をもつ老隠者がいることを知らされる。
老人は、空を飛ぶ鳥を素手でいとも簡単に射落とした。紀昌は慄然とした。
自分ごときは児戯の腕であると。
「不射の射を知らぬとみえる」老隠者は言った。

老人のもとで九年の修業を終え、山を降りてきた紀昌はまるで別人の顔をしていた。
負けず嫌いの鋭い顔つきは木偶(でく)のように無表情になり、そのままやがて年月は経っていった。
老人となった紀昌はある日、弓を見てその名前と用途を質問する。
かつて自分が大志をいだいて使っていた品物を忘れてしまったのである。

紀昌は弓の名人になることだけに生き、山の修行ですべての目的を達成した。
弓が何であるのかわからない紀昌のすがたは
目指していた死に物狂いの精神から解放された果ての、真の名人の姿であったのか。