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日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

ミィ・ラ・フォレのコクトー邸を公開

2010-05-20 | Jean Cocteau

Milliymaison

1947年の冬、セーヌ・エ・オワーズ県のミィ・ラ・フォレにコクトーがジャン・マレーと購入し、コクトーが没する1963年まで17年間住んだ自宅が来月、2010年6月24日に公開されることになった。

フォンテーヌ・ブローの森からすぐのこの場所は木々に囲まれた静けさがあり、コクトーはここでどれほど心やすらいだことだろう。

1955年3月20日、コクトーは郵政大臣エドゥアール・ボンヌフゥ氏同席のもと、ミィ・ラ・フォレの名誉市民号を受けたが、コクトーの死後、養子のエドゥアール・デルミットがコクトーのすべてを管理していた。
デルミットも1995年に亡くなったため、ジャン・コクトー家協会のピエール・ベルジュがこの館を買い取り、5年の修復期間を終え来月の公開となった。





YouTube: Ouverture de la maison Jean Cocteau

所在地
15 rue du Lau 91490 Milly-la-Foret

開館時間
3/1~10/30  水曜日~日曜日 10:00~19:00 
11/1~1/15 水曜日~日曜日 14:00~16:00 
(月曜・火曜日は休館)


評論 「ジャン・マレー」 ジャン・コクトー

2010-05-15 | Jean Cocteau

Jean_marais_par
「Jean Marais per Jean Cocteau」
1951年 フランス カルマン・レヴィ社 発行

ジャン・コクトーが創造する芸術の理想的存在として欠くことのできないジャン・マレーをコクトーが語った書。

俳優としてのマレーはもとより、絵を描くマレー、母や愛犬ムルークのことを含めて、
コクトーがマレーに敬意を払い、暖かいまなざしで接している様子が伝わってくる。
そこから読みとれるマレーは役者としてのさらへの希求があり、同時にコクトーの芸術論、人生論も語られている。 

ここに書かれているコクトーの言葉はマレーにも語ったことであろう。Basketmarais
同じ創造の道をめざす二人の間で交わされた会話から生まれる価値観は、簡単に他者が理解できるものではない。
それは双方が同じ位置に立っているからこそ、その価値観を高められるものであることを
コクトーもマレーも十分に理解している。

参考文献◆「ジャン・マレエ」 田島梢(訳) 出帆社


ジャン・コクトーが描いたオブスキュール通り

2010-05-14 | Jean Cocteau

Rue_obscure



南フランスのヴィルフランシュにある「Rue Obscure(オブスキュール通り)」をコクトーが淡い色調で描いたリトグラフ。
1952年 フランス 発行部数不明





絵の下にはコクトーの詩句が書かれている。

Quand je regarde Villefranche,
je vois ma jeunesse
Fassent les hommes qu'elle ne change jamais               
               

ヴィルフランシュを見ていると
若き日々が浮かんでくる
おお人間たちよ、青春が決して色褪せぬよう


Le_testament_dorphee
オブスキュール通りは映画「オルフェの遺言」にも登場する場所で詩人(コクトー)とセジェスト(E・デルミット)が歩き、詩人とそっくりの男とすれ違う場面がある。コクトーが二役を演じた。

ヴィルフランシュの街は小さな街だが、地中海の陽射しが明るく保養地としても知られている。ここは暗く、迷路のように入り組んだ道でどこへ出るのかわからないミステリアスな雰囲気がただよう道でもある。

ヴィルフランシュを愛したコクトーが描いたデッサンと短い詩句は、淡さの中に良き思い出と変わらない憧れが込められているようである。

(詩句は翻訳をしている方が訳してくれました。)


三人の作家の肖像画 ジャン・コクトー

2010-04-19 | Jean Cocteau

ジャン・コクトーは多くの人物の顔をスケッチしている。描く線は人物の個性に合わせて力強く、又ゆるやかに描き、違う動きを想像させるように生き生きとしている。
この3冊はフランス、N,R,F社から1920年代に発行された3人の作家に寄せたコクトーの肖像画である。

                           写真上から
Portraits3crivain『MARY DE CORK』
(著)Joseph Kessel(1898-1979)
『マリー・ド・コーク』 ジョセフ・ケッセル 
フランスの作家、脚本家
映画にもなった『昼顔』『サン・スーシの女』の原作者
1925年発行 記番 410番台

『JACQUOT ET L'ONCLE DE MARSEILLE』
(著)ANDRE BEUCLER(1898-1985)
『ジャコとマルセイユのおじ』 アンドレ・ブークレール
1926年発行 記番 390番台

『LE VOYAGEUR SUR LA TERRE』
(著)JULIEN GREEN(1900-1998)
『地上の旅人』 ジュリアン・グリーン
フランス20世紀のカトリック文学を代表する作家で代表作は『モイラ』『幻を追う人』など
1927年発行 記番720番台


「美女と野獣」 クリスチャン・ベラールの美術

2010-03-07 | Jean Cocteau

映画「美女と野獣」で美術を担当したのはジャン・コクトーが厚い信頼を寄せていたクリスチャン・ベラール(1902年~49年)であり、
ジャン・マレーの野獣のメークをはじめ各場面のシーンはベラールの才能によって中世紀の耽美な世界を具現化した。
又コクトーの細かい指示に応え、理想的な映像に仕上げたカメラマン、アンリ・アルカンの存在も大きい。

 



 





 クリスチャン・ベラールは画家であり、美術、衣装なども手がける一流デザイナーであった。
コクトーとは1925年、南フランスのホテルウェルカムで出会いコクトーが高く評価していた人物である。
パリのペール・ラシェーズ墓地にラディゲの隣に眠っている。
(本作品の時の衣装はマルセル・エスコフィエ)

エディット・ピアフ右の髭の男性がクリスチャン・ベラール。


美女と野獣 ジャン・コクトー

2010-03-06 | Jean Cocteau

手折った1本の薔薇がある家族の運命を変えた――。ジャン・コクトーが映画の初作品 「詩人の血」 以来、
15年ぶりに手がけた「美女と野獣」はルブランス・ド・ボーモン夫人の原作からイメージして現実から虚構の世界へと
行き来する幻想を夢のような映像美で作りあげた。 1945年 製作

La_belle_et_la_bete
老いた商人が夜の森で道に迷い、まぎれ込んでしまった城で末娘ベルのために手折った
一輪の薔薇。それは折ってはいけない禁断の薔薇であった。
野獣は自分の薔薇を折ったつぐないとして娘の一人を城へ寄こすことを条件に商人を家へ帰す。

心優しいベルは身代わりとして城へ行くが野獣の姿を見て
怖ろしさのあまり気を失ってしまう。
しかし優しいこころを持つ野獣にベルは少しずつ気持ちを開いてゆく。

そんな中、城にいるベルが鏡の中で見た現実は病の床に臥す父の姿であった。
家へ帰してくれるよう懇願するベルに野獣は一週間で戻ることを約束させる。
戻った家では二人の姉がベルから盗んだ城の鍵で、ベルの兄リュドヴィックとベルを愛するアヴナンが
野獣を殺そうと城へしのび込むが
アヴナンは彫像が放つ矢に射られ倒れたその瞬間、野獣の姿に変わってしまった。

Bellesatuei 同じ頃、城へ戻り心配してベルが見た野獣は死の間際に苦しむ姿であった。
ベルを恋しながら息を引き取ろうとしている野獣を介抱する美しいベルの心により
野獣は気高い王子の姿に変わった。
野獣の悲しみは終わり、ふたりは天上の王国へと空高く飛翔してゆく。

ここに登場する城館は、国有財産管理局が50ほど紹介してくれた中のひとつで
トゥールにあるラレー城で撮影された。
コクトーをはじめ、ジャン・マレーや他の出演者の健康上の問題、天候との折り合い、
資材や機材の予定延期、電力の制限などが絡み困難な行程であった。
しかしコクトーがこの映画に込めた思いは、我々が大人になり失ってゆく大事なものを呼びさますものであった。
「このお伽噺を信じてほしい」 「あの少年時代の信頼感と素直さを取り戻すことが必要なのだ」の言葉を残している。

クリスチャン・ベラールの舞台美術は荘厳な中に美をちりばめ、ジョルジュ・オーリックの音楽が
神秘的に物語を進行させる。
そしてジャン・マレーとジョゼット・ディの美しいコンビがこの映画を永遠のものにした。

「美女と野獣」を初めて見た時はDVDはもちろん、まだビデオもなかった時代であり、テレビ画面で見た白黒フィルムの映像美は私にとって初めてのファンタジーであった。
後に映画館のスクリーンで見たあの時間、私も異次元に迷い込んでいたような気がする。

           右の写真は「美女と野獣」を撮影中のジャン・コクトー


マリアンヌ切手の初日カバー ジャン・コクトー

2010-02-17 | Jean Cocteau



ジャン・コクトーによって描かれたマリアンヌ切手。
マリアンヌはフランスの象徴とされフランス革命の闘士が被っていたのと同じフリギア帽の横顔が描かれている。 

コクトーがイメージしたマリアンヌは当時の議長夫人をモデルにし、
切手は誰もが使うものだということを念頭においてデザインしたという。

封筒には切手が貼られ、凱旋門の絵に切手が発売された日の郵便スタンプが押されている。
1961年 2月23日発行 フランス 


レストラン「グラン・ヴェフール」のメニュー

2010-02-07 | Jean Cocteau

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パリ1区のパレロワイヤルにある有名な老舗レストラン「グラン・ヴェフール」のメニュー。
現在のメニューはリニューアルされているが、この絵は店の顔として現在も表紙を飾っている。
18世紀から高級レストランとして著名な人々が数多く訪れた。

ジャン・コクトーの絵による表紙は個性的であり
レストランのオーナー、レーモン・オリヴェの手による料理で心地よい時間を過ごしたコクトーがしのばれる。

このメニューが何年頃まで使われていたのか詳細は不明だがDermitolivercocteau
昼のメニュー(MENU DEJEUNER)ではないかと思われる。
オリヴェに師事した日本人シェフも多い。

右の写真は左から、E・デルミット、R・オリヴェ、J・コクトー 1963年 9月


コクトーの食卓 レーモン・オリヴェ 著

2010-02-06 | Jean Cocteau

Cocteausyokutaku

 

第二次大戦が始まる1940年、ジャン・コクトーはパレロワイヤルに住み始めた。
さながらひとつの村のようなこの場所にはコクトーの親友コレットも住んでいた。

創作という世界への関心が高いコクトーの鋭い感性は当然「食」にも及び、
パレロワイヤル内にあった名レストラン「グラン・ヴェフール」のオーナー兼シェフの
レーモン・オリヴェとコクトーは「食べること」の幸せを分かちあい、コクトーが食事に訪れると
オリヴェをテーブルに呼び、また時にはオリヴェがコクトーの隣に座ったりして、
その友情から生まれたいくつかの料理が「コクトーの食卓」に運ばれることになった。
(ヴェフェールにはコレットとコクトーや著名人の専用のテーブルがあった。) 



コクトーが特に好んだ料理

・澄んだコンソメスープ ・牡蠣のカクテル ・目玉焼き ・ほろほろ鳥の雛 ・山しぎのマスプローヌ風 ・じゅずかけ鳩のフランベ ・香草を使った香りのある料理

本書にはル・グラン・ヴェフールのメニューがスープからカクテルまで50種以上あるが、
高度な料理だけでなくごく簡単なものまで紹介されている。
食べる楽しさのために試作を続けるオリヴェの情熱と、コクトーが望む味覚に応えようとする愛情が食の喜びを与える
エッセンスとなった書である。

 

コクトーの挿絵は、赤の線がそのまま動き出すように生き生きとしている。
ページを追って絵を見ていると、まだまだ描き足りないとコクトーが言っているようにも思える食の至福の時間。
コメディフランセーズの学員は、コクトーに何か相談したい時はここに来れば必ず会えたという。
(右の写真はどこのレストランか不明) 

辻邦生 訳 1985年 講談社                                        


レコード 「la voix humaine」 人間の声 

2010-01-27 | Jean Cocteau

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『la voix humaine』                                                   1929年、ジャン・コクトーがモノローグ芝居のために書いた戯曲で、ドラマを進めるのはひとりの女と相手の男性とをつなぐ電話機だけである。
当時は最新機器だった電話だが、回線は交換手によって話ができた時代。時に混線する会話。恋人との別れに動揺する女性の心は序々に悲劇へと向かう。。

5年間つきあった恋人は、電話で彼女に送った手紙を返してほしいと言ってくる。愛していた恋人は別の女性と結婚する。                                        もう過去となってしまった愛に女は悲しみをこらえて恋人への想いを吐露するが
ついに受話器のコードを首に巻いてしまう。

レコードジャケットは「レコード100選」にも選ばれた名盤。
ドニーズの声は気高く、孤独の中で自らの生を終える絶望が胸を打つ。

ソプラノ:ドニーズ・デュバル
指揮:ジョルジュ・プレートル


le grand ecart/la voix humaine ジャン・コクトー

2010-01-21 | Jean Cocteau

コクトーの小説 『le grand ecart 大胯びらき』 と、戯曲『la voix humaine 人間の声』 の2作品が収められた洋書。
24枚のコクトーのデッサン入り。
フランス 1957年 club des editeurs発行 限定8000部の4100番台

 La_voix_cocteau                 
グリーンの布張りにピンクの絵を配し、タイトルの白い文字が鮮やかな装丁のコクトー本。
絵のページもピンクと白の工夫がありコクトーのシンプルな線がいきいきと刻まれている。

Le_grand_ecart1

 La_voix_humaineLe_grand_ecart2

 

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航空会社の案内紙 ジャン・コクトー

2009-12-22 | Jean Cocteau

AIR MONDE という航空会社の旅行案内紙。プログラムは縦と横に折られて両面に印刷された8 面の記事になっている。
フランス 1963年 AIR MONDE社 発行

Cocteauinvitation

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1936年、コクトーは80日間の世界一周の旅に出ている。
その時のことに触れ、旅で出合う魅惑を書いている。
プレゼントとして先週思いがけなく到着したこのプログラムは
コクトーのために3面を用意して作られている。
当時、ロビーなどに置いてあったのだろうか。
時を経てこうして見ると夢のような案内紙である。


『恐るべき子供たち』のインスピレーション

2009-12-14 | Jean Cocteau

阿片解毒治療の入院中、コクトーの部屋へ見舞いに訪れていたクリスチャン・ベラールは
コクトーの映画や舞台で衣装と美術を担当する当時の一流デザイナーで、コクトーとのかかわりが深い人物である。
1929年、病室でコクトーはベラールから「ブールゴワン姉弟」の話をたびたび聞かされ
そのイメージから『恐るべき子供たち』が誕生した。

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コクトーにインスピレーションをあたえたブールゴワン姉弟の父親は1922年に他界し、
ロジェ街のアパルトマンに母親と住んでいた。
この時の経済状況は深刻のようであった。
美貌の姉ジャンヌと長身の美青年ジャンは双子のように行動を共にし、
時代の先端でもあったジャズ酒場「屋根の上の牡牛」にも連れ立って顔をみせていた。
姉はドレスメーカー「マドレーヌ・ヴィオネ」のマヌカンで時々収入を得ていたが
性格にむら気があり、結婚したものの数ヵ月後には弟と図って夫を追い出してしまう。

いっぽう弟のジャンはデッサンなどを描く一面、怠惰なところもあり、
病身の母の面倒を看ずに同じ部屋ですごす二人には
社会的通念のモラルから離れたところにいる若者の危ういうたかたのような日々をすごしていた。

ジャンヌは恋人の自殺などから精神のむら気が強くなり、アルコールや麻薬中毒などにおちいり
1929年、睡眠薬で自殺してしまう。『恐るべき子供たち』が発行されてすぐ後のことになる。                                                           ジャンは姉の自殺と精神的絶望感に、ジャック・マリタンの導きと1947年の母の死を機に
トラップ修道院の修道士へと生き方を一変させ、らい病患者の看護にあたっていたアフリカで1966年60歳の生涯を終えた。


3人が語るジャン・コクトー

2009-11-28 | Jean Cocteau

コクトーの生涯に深くかかわり、詩人の知られざる素顔を知るキャロル・ヴェズヴェレール、
エドゥアール・デルミット、ジャン・マレーの3人が愛と敬意を込めて在りし日のコクトーを語る。 

YouTube: ジャン・コクトー  ---  1/x


キャロル・ヴェズベレールはジャン・コクトーの芸術を支えた美貌のフランシーヌ・ヴェズベレール夫人の
一人娘であり、南フランスの夫人の別荘サント・ソスピール荘で7歳の時にコクトーと出会い、
生活を共に過ごした。
著書に『ムッシュー・コクトー(東京創元社)』『LES MURS DE Jean Cocteau (Herme社)』がある。
コクトーの作品と心の支えであったジャン・マレー、養子になり家族として一緒に過ごした
エドゥアール・デルミはすでに世を去っている。デルミのコメントは大変めずらしい。
この画像がYouTubeからずっと消えないことを。

詩集 『数字7』 Chiffre Sept ジャン・コクトー

2009-11-07 | Jean Cocteau

1952年夏、コクトーはサント・ソスピール荘で詩集 『数字7』 を書き終えた。
詩人であり、コクトーと親交があった本書の出版人であるピエール・セゲレスの要請により着手した。
1952年10月 フランス セゲレス刊 限定1900部の320番台

Chiffre_sept
L'homme epris de haine, enfievre de se battre

Sous ce chiffre qui fait et qui defait les rois,

A sa glebe attache, fldele au chiffre quatre,

Accumulait la colere du chiffre trois.

王たちを作っては壊す この数字の名において

たがいに戦うことに熱狂し 憎悪に心奪われた

人間は 自分の耕した土地につながれ

数字4に忠実で 数字3への怒りを重ねていた。

                           小浜俊郎 訳


7という数字は秩序、成就された周期、一時代の象徴とされ、
3(天)と4(地)の重ね合わされた総合的なすぐれた価値を持つものだという。

言葉は詩人により個人的な意味をもって表されることがある。
ここに収められている詩は、神話や実存した人物、錬金術の要素などに
コクトー自身の言葉のイメージが折り重なって書かれ、死を意識した詩人の外界との厭世感が描かれている。                         

      この数字はいつも奇跡をもたらしてくれるのだ(コクトー)

参考文献 「評伝ジャン・コクトー」 秋山和夫 訳 筑摩書房
季刊詩誌「無限」 特集ジャン・コクトー