野呂邦暢、『愛についてのデッサン』

 木曜日の夕方から体調を崩していました。特に昨日はうつらうつらと終日半睡…。それでも本を一冊読み終りました。
 昼間に寝てしまうと見る夢が変にリアルだったりして、面白い(でも疲れる…)。何となく、その日一日分丸ごとゼラチン質の塊の中にでも捕り込まれてしまったようなもどかしさ、夢から覚めてもまだ夢…から覚めてもまだ…みたいなとりとめなさが続いて、まるで迷宮です。 
 さらに本を読んだばかりだったりすると、そっちの世界も侵食してくるから境界がぐちゃぐちゃ…。

 それはさておき。
 この本のことを知ったのは何ヶ月か前のことです。
 『愛についてのデッサン ――佐古啓介の旅』、野呂邦暢を読みました。
 

 名前だけなら、いつか見かけたことがあったかも知れない。通り過ぎていただけかも知れない。このたび、ちゃんと出会えてよかったなぁ…。30年近く前に若くして亡くなっている作家さんですが、色褪せない瑞々しさにほろほろと嬉しくなりながら読んでいました。

 物語の内容はいたってシンプルで、オムニバスになっています。 
 古本屋の若き主人・啓介は、商売っ気の淡白な青年です。古本屋を営み続けた父親の死をきっかけに、出版社を辞めてお店を継ぐことにしてしまったばかり。そんな彼の元には友人の手を介したりして、古本に関わる依頼が舞い込むのですが、それが時には厄介な人探しだったりするのでした。 
 古本の周辺にまとわり付く謎を追ううちに25歳の啓介は、簡単にはほどけることのない縺れた過去を胸に秘め、それでも生きていく人たちの哀しい側面ややり切れない思いに、直面させられていくのでありました。
 どの話もとても好きでしたが、特に「愛についてのデッサン」に出てくる秋月老人と、「若い砂漠」の鳴海の印象は忘れがたいです。秋月老人のしたことには鮮やかに裏切られました(理屈での説明を拒絶していると言う意味で)。鳴海にはもっと、殺伐とした虚しさばかりを残されました。

 古本のことに触れている箇所は、特別古本のマニアではなくても本好きな人ならばきっと興味津々で読めそうですが、もっと魅力的なのはやはり、主人公・啓介の心の軌跡を追う青春小説としての甘くも切ないきらめきでしょうか。たぶん、書かれた時代が今だったなら、こうはいかなのでしょうけれど…(残念ですが現実として)。 
 折に触れての青年の内省が、とても清潔で好ましかったです。そのしなやかさを失わないで欲しいと、願わずにはいられない程に。

 一話目の「燃える薔薇」と最終話の「鶴」で啓介は二度、父親の生まれ故郷である長崎への旅をすることになります。その「燃える薔薇」のなかで、父啓蔵が上京してからの四十年間に一度も長崎へは帰らなかったことについて、啓介も妹の友子もその理由を知らず仕舞いになってしまったことが語られます。そしてその、啓介にとって最も関わりの深い、最も大切な謎を解く話が「鶴」です。
 息子である啓介も何も知らされていなかった、啓蔵の思いがけない過去が少しずつわかってきて、そこにある古い心の痛みと、けれども決してそれに屈したわけではないかつての若い心を思って、胸がぎゅうっとなる素敵な作品でした。

 若い心はいつ、その若さを失うのだろう。すっくりと直ぐな心はいつ、そのしなやかさを失くすのだろう…。そんなことをぼんやりと考えながら、ずずず…と、また夢の中に引きずり込まれた昨日なのでした。 

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