アントニオ・タブッキ、『逆さまゲーム』

 アントニオ・タブッキはイタリアの作家ですが、ポルトガルをこよなく愛していたそうです。 
 今回読んだ短篇集の、特に表題作「逆さまゲーム」では、そのポルトガルへの思いがすみずみにまで沁み渡っているようで、それがまた何とも言えない切なさを滲ませていて、思わず溜め息がこぼれました。ポルトガル…ファド…(うっとり)。  

 『逆さまゲーム』、アントニオ・タブッキを読みました。
 

〔 サウダージは、とマリア・ド・カルモは言っていた。言葉じゃないわ。精神の範疇のひとつなのよ。ポルトガル人にしかわからない。この言葉があるのは、そんな気持ちがポルトガル人の中にあるからだって、えらい詩人が言ってたわ。そして、彼女はフェルナンド・ペソアのことを話しはじめた。 〕 13頁

 収められているのは、「逆さまゲーム」「カサブランカからの手紙」「芝居小屋」「土曜日の午後」「小さなギャツビイ」「ドローレス・イバルーリは苦い涙を流して」「空色の楽園」「声たち」、 (いくつかの短編)「チェシャ猫」「行き先のない旅」「オリュンピアの一日」、です。

 表題作の「逆さまゲーム」は、声に出して読んでみたりして、うっとりと浸り切ってしまいました。ベラスケスの『侍女たち』についての記述がとても効果的で、作品全体に一幅の名画のような印象も与えていると思います。
 作品の中を流れる空気に、独特な湿り気があるような気がしたのは、お風呂の中で読んでいた所為かも知れませんけれど、まるで霧のような一枚のヴェールに包まれているみたいに美しくて、とらえどころなく何処となく幻想的で、素敵な作品でした。付き合っていた年上の女の死の知らせを受け、かつて逢瀬を重ねた彼女の住んでいた街へと、列車の旅をする若い男。思い出の中の女の姿、こぼれ出た言葉たち…。
 ただ、ラスト近くになって、「“逆さまゲーム”って、つまりいったい何だったの…?」と引っかかってしまったので、後から再読してみました。 それで結局、つまりこういうことだったのね…と自分なりに納得してみたのですが、この表題作だけに限らず余計な説明はかなり省かれています。そんなところも、すべてが薄い紗に包み込まれているみたいで、あえて何もかもをあからさまにしない優雅さと、読み終えたときにぽっかりとした隙間が胸に残るのが、えも言われぬ心地にいざなってくれる作品集でした。
 目に映る光と影が一瞬で入れ替わるようなラスト、或いは舞台が暗転するような鮮やかな切り返しのある、そんな作品にも強く惹かれました。見事だなぁ…と。 

 最後に収められている「オリュンピアの一日」だけ、ローマ帝国のオリンピック競技に挑む少年を描いていて、ちょっと異色?と思いましたが、すごく好きでした。まさに暗転するところが、素晴らしかったです。

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佐藤哲也さん、『イラハイ』

 何なのですか、この面白さ。
 時々あんぐりと口を開けながら、「ひひひ、ふふ…」と片頬でにやけながら、楽しんでしまったじゃあないですか。これで処女作って(日本ファンタジーノベル大賞)、ご夫婦揃って凄過ぎます。佐藤哲也さんの作品は、これで3冊目となりました。 

 『イラハイ』、佐藤哲也を読みました。


〔 冒険は続いたので、ウーサンは落ちた。 〕 177頁

 饒舌な屁理屈と空回りする哲学によって織りなされる、一国の興亡を描く一大法螺話!
 佐藤さんの文章は、本当に読み応え噛み応えがあります。永久運動的にどこまでも空転を続ける屁理屈が、こんもりとした緻密な文体で展開されていくその見事さ。これでもかこれでもかと畳み掛けてくるような思惟は、どうにもナンセンスでどうにも虚ろでどうにもならないのに、何故か一応物語は転がり続けていくので、何だか騙されているような具合で読み手もそれについていかなければならなくなります。 
 そして、大真面目な顔で言う面白くもない冗談を聞かされているみたいな気分になりつつ、その向こう側から、かさかさに渇いた嗤いがやってくるのに気が付くのです。気が付いたときにはすでに遅く、「ひひひ、ふふ…」と片頬でにやけているのです。…いやはやいやはや。

 物語の舞台となるのは、“遥かな昔に滅んだ小さな王国”イラハイです。そして主人公は、屋根穴職人の息子ウーサン。このイラハイという国には、あらゆる建築物(人家、役所、宮殿、牢獄…)の屋根に慎みの穴と呼ばれる穴を開けておく慣習があったのです。
 “物語には始まりがあって終りがあり”という理をわざわざ挙げておきながら、半分ほど読み進んでも冒険に出るはずのウーサンに動きはなく、“この物語はまだ始まっていない”などと言う文句がさしはさまれるあたり、相当に人を喰ってるな~という印象の作品です。その“人の喰い方”が素晴らしく巧妙で、遊び心と憎らしい余裕を感じさせるので堪りません。

 東の果てイラハイの西隣にはサバキヤという国があり、この両国はいつもいがみ合っていた。その原因は、両国を分ける国境線が真っ直ぐに伸びる崖の形状をしていたこと。崖の上にサバキヤ、そして崖の下にイラハイがあったため、サバキヤの人々には優越感が、イラハイの人々には屈辱が与えられていた。
 …とそんなわけで、何度目になるのかは知りませんけれど、物語の導入部から両国間の最後の戦が幕を開けます。で、その戦い方がねぇ、しょうもないこと極まりなくて嗤えます。その不毛な戦いの結果、イラハイの国中に災いが勃発するのですが、例えばそれは、人をさらう巨大なカエル・マタグリガエルの跳梁とかで…うひひ。

 しつこいほどの反復があったりするのも、如何にも寓話めいていて面白く読めましたけれど、人によっては苦手かな…と思うところです。饒舌な屁理屈でぬりかためられた法螺話を、“贅沢な遊び”として享楽する。そんな一冊。
 ラストも予想外だったなぁ。 

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西天満、インドカレーの「もりやま屋」

12月8日、土曜日。晴れ。
 異様に面白い本を読んでいて、お風呂で茹だる朝。
 だーさんが昨夜から「カレーライスが食びたい」と言っていたので、今日はカレーライスを頂くべく大阪方面へと出かけました。

 最近、新しいコートをおろして着ています。薄手で袖短めのややAライン、エクリュとベージュの中間ぐらいの色合いで、全体に同系色の糸で刺繍があるんです。ふふふ、お気に入りです。

 西天満と聞いても場所がわからない私は、梅田から歩くだけとは思いませんでした。意外と近いのね、でもちょっと歩かされるのね…。銀杏並木の黄色に見とれつつ、足元の落ち葉が踏みしだかれてるのを眺めつつ、カレーへの期待で胸膨らませながらずんずんと歩いたのでありました。
 …やったあ、到着!
 “インドカレーとうまいチャイのお店、もりやま屋”。

 店内は割と狭いのですけれど、ほどよくごちゃごちゃしつつ木の温もりがあって落ち着く感じです。
 評判のいいお店のようですが、先客はお一人さま。店主さんと一緒に、あだこだとおしゃべり中(世界各地のビールの話とか…?)。私たち二人も、テーブル席で和み中。 
 “インドカレーとうまいチャイのお店”なのにビールを頼み、チャイの付くセットは頼まない私たちって…。店主さんごめんなさい。
 ←これは誰だ。

 は~い、運ばれてきましたよん。
 こちらはだーさんの、チキンカレーでっす。
 盛り上がっているのがチキンの塊。凄くほぐれやすそうでした。 

 そして私のは、ダール豆と野菜のカレーでっす。
 
 どちらのカレーにも野菜が色々入っていて、すっごく満足~な深いお味でした。 

 こちらのホットホットソースで、辛さの調節が出来るのです。
 二人揃って辛党なので、結構かけました。そのままでも美味しいですけれど。 

 カリフラワー、カボチャ、インゲン豆、茄子、ニンジン…。私の苦手なオクラも入っていましたので、滅多にないことだからと思い味わってみました。うう、やっぱり苦手でした。少量ならば食べられるようになったのですが。

 カレーライスはやっぱり美味しいなぁ。お昼のメニューはカレーが三種類、他のカレーも頂いてみたいですねぇ。 
 そう言えばオーダー時に、大盛りにするかどうかでだーさんが迷っていたのでした。 
 だーさん:「(普通の)量はどれくらいですか?」、店員さんの女の子:「えっ…普通ぐらいです」。…そりゃまあ、そうですけれどもさ。ご飯150グラムとか200グラムとか言ってもらえると、わかりやすいのにな…(え、無理?)。

 食後は結構歩きました。なかなか良い腹ごなしになったのではないでしょうか。だーさんメインで楽器店を冷かし、私メインで古書街を冷かし。
 途中、書店では「このミス」の立ち読みをしました。皆川博子さんのページが気になってしまったのです(某所で小耳に挟んで)。
 何か…胸を突かれました。大好きな作家さんだからいつも、「長生きして作品を出してください」なんて思ってしまうけれども、それがご本人を鞭打つようなファンの願いだったら悲しいなぁ…なんて。直木賞をとった後の、好きな作品を書かせてもらえなかった時期のことも、何となく何処かで聞き知っていましたけれど、あらためてご本人の言葉で読むと、本当に切なくって泣けてくるぅ。
 「このミス」、面白そうなので欲しくなりましたが、あれ一冊目を通すのも大変そうですね。やっぱ私は立ち読みでいっかぁ…。

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ジャネット・ウィンターソン、『灯台守の話』

 平積みの棚から呼びとめられて、きゅん…とときめいてしまった本。
 クラフト・エヴィング商會の素敵な装丁も決め手になりまして、連れて帰らずにはいられなかったわけです。
 本を読み続けている限り私は、毎日毎日誰かに出会い、毎日毎日新しい物語に出会っている。そして今日私が出会ったのは、シルバーにピューにバベル・ダーク…。

 『灯台守の話』、ジャネット・ウィンターソンを読みました。
 

〔 やがてだんだんと他の者たちもそれに加わって、そうしてすべての灯台には物語があることがわかったんだ。いや、すべての灯台が物語だった。そしてそこから海に向かって放たれる光もまた、導き、報せ、慰め、戒めてくれる、物語そのものだった。 〕 49頁 P.49

 始終、シルバーの息遣いさえ伝わり聞こえてきそうだったのは、この作品の語りの力強さゆえでしょうか?
 “崖の上に斜めに突き刺さって建っていた”家で、母親と二人で暮らすシルバーの語り口から、「おお、これは面白そう…」と引き込まれるや否や、あっと言う間にシルバーはみなし児となり、灯台守ピューの元で見習いとしての生活を始めることとなります。
 灯台守って、いったい何だったんだろう・・・?
 灯台守の大切な役目は、光の世話をすること。そしてもう一つ、光を絶やさないようにするために、物語を語り継いでいくこと。船乗りたちよりも物語を知っているのが、いい灯台守だ。絶やすことなく物語を集め、光を絶やさないように。

 灯台守のピューがシルバーに語り聴かせたのは、バベル・ダークの物語。愛を失った男の物語。ロバート・ルイス・スティーブンソンに、のちにジキルとハイドの物語を思いつかせたとも言われている、バベル・ダークの物語が、百年の時を隔ててシルバーの物語と絡みつつ、不思議な模様を描いていく。
 バベル・ダークに訪れる最後のときと、ラストの場面を照らす優しい一条の光が、まなうらでたゆたって忘れられない。

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皆川博子さん、『倒立する塔の殺人』

 皆川さんの新刊を読める幸せを、何度も噛みしめたのであった。おお。

 タイトルだけはずっと前から知っていた(遡れば『死の泉』にも出てくる)。ミステリーYA!の情報では10月の刊行となっていた。以来、首を長くして待っていたが、10月になって何度もチェックした挙句11月に延びたことを知った。…でも、いずれ読めるならば、少しくらい延びようとなんぼのもんじゃい…などと思いながら待ちかねていたこの本。遂に手に入れてしばし、眺めるだけでにやにやしていた。 

 『倒立する塔の殺人』、皆川博子を読みました。
 

 先ずは一言、すみません…無批判に好きです。隅々まで好きです。
 つるりとした紙質の表紙には、つるりとした肌としなやかな肢体を持つ三人の少女の姿がある。どこからどう見ても、儚い硝子や朝露や薔薇の花びら…といったものだけから造られたような彼女たちの足元が、地に着いているとはとても見えない。ふわり、宙に浮いている。

 舞台となるのは、戦中から終戦後へかけての昔の女学校です。そこで、戦中ゆえに取り立てて事件として取り上げられなかったけれど、もしかしたら殺人か…?という事件があった、らしい。ここのところ、“らしい”という仄めかし程度の情報だけで話が進んでいきます。 
 何というか、不思議な読み心地のする話です。全体を俯瞰しづらい理由の一つに、作中作となっている「倒立する塔の殺人」の存在があります。この作品の中に「倒立する塔の殺人」は二つあって、一つは少女たちが書き継いでいくノートそのもののタイトルであり、もう一つはそのノートの中に出てくる小説のタイトルであります。ええっとつまり、作中作の「倒立する塔の殺人」の外側に、そのノートの書き手となった少女たちの書記があり、さらにその外側に、そのノートの読み手となる阿部欣子(ベー様)のいる今の時間が流れている、という入れ子の構造になっています。 
 そしてしかもべー様が、ちゃんと順番通りに読まなかったりするのも、心憎い仕掛けとなっているのです(ちなみにこのベー様、ぬーぼーとして異彩を放っているところが何とも素敵でした)。

 で、このノートの内容の方を読んでいても、作中作となる「倒立する塔の殺人」の持つ意味が終盤に至るまでわからない。この小説がどんな風にして外側と繋がるのか…?と首を傾げつつ、何処となく悪魔的で幻想文学のような雰囲気に引き寄せられてしまうのですが…。
 戦争中であろうと平和時であろうと、少女たちの世界には少女たちだけのルールしか通じないのかも知れない。そんな閉塞感さえも、堪らなくよかったです。 
 なかなか終わらない戦争の所為で、親や級友たちの死にさえ麻痺してしまった彼女たちの姿は、それ故に哀れであると同時に、やっぱりどことなく狂った美しいお人形のような印象も否めなかったです。でも、美少女とはもともと斯様に浮世離れした存在ですし。マリー・ローランサンの絵のような美少女(と言っても二十歳ぐらいか…)が、エゴン・シーレに心酔していたり、『わたしも、ドストイェフスキー、好きなのよ』なんて会話が散りばめられていたりして(他にも色々…乱歩だのルドンだの)、うっとりと溜め息が出るくらい、皆川さんの嗜みにも触れることの出来る贅沢な一冊でした。
 もちろん謎解きの方も、ふかぶかと溜め息が出ました。はあ…。またまた思い出してうっとり…です。

 
 そうそう、佳嶋さんという装画家は、皆川さんのご指名だそうです。ホームページを拝見すると、綺麗なばかりでもない作風が私も好みです。短編集『結ぶ』の中に、画集で一目惚れした画家の絵を、自分の作品の装画に使いたくてこだわる作家の出てくる話があったのを、ふと思い出しました。

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河野多惠子さん、山田詠美さん、『文学問答』

 河野多惠子さんと山田詠美さんの、対談集。綺麗な配色の装丁でしかも函入りと、飾っておきたくなるような一冊です。
 タイトルを思い出そうとするとどうしてか、“問答無用”の文字が先に浮かび上がってしまうのは、たぶん私の愛嬌です。

 本好き文学好きな方たちに大好評な対談集、ちと遅ればせながら私も「これは読まねば…!」と。
 『文学問答』、河野多惠子・山田詠美を読みました。
 

 「人と文学をなめる人はだめ」――。
 帯に抜き取られた河野さんの一言が、まことに渋いじゃあございませんか。 

 この対談集、発売当初から気になりつつ手に取るのが遅くなりましたけれど、傾倒する河野多惠子さんのお名前にはずっと反応していたのです。 ああ、私が“傾倒”なんて言うのは、あまりにもおこがましいのはわかっています。でも、まだまだ未読の作品があるとは言え、読ませていただいた作品にはいつも心酔しているのですもの…! きゃ…!
 (…失礼しました)
 で、河野さんの対談のお相手が山田詠美さんですが、山田さんと言えば私にとっては、何となく気になりつつも未だにあまり読めていない作家さんです。『姫君』はとても好きですが…(そうそう昔、『アニマル・ロジック』でつまづいたわ)。
 でもこの対談集を読んでいるとやはり、作品以前に山田さんの大らかな人柄に心底魅了されてしまいます。河野さんを大先輩として立てつつ細やかに気を配りつつ、でも肝心な文学の話になると対等な立場で言葉を交わせる才覚。本当に、デビュー当時から文壇で大切にされていたことが、「この人なら当然だろう」と思わせてしまう、愛らしい人柄の良さが随所から滲み出ています。いいなぁ、来年こそはエイミーを読もう…!

 以前読んだ『小説の秘密をめぐる十二章』で、河野さんが大谷崎を、ほとんど崇拝されていることは一応存じていたのですが、この対談集でもっと熱く谷崎を語られている言葉に触れることが出来たのも、大変に嬉しかったです。来年こそは、『卍』を再読しよう…!

 色んな話が読めてほくほくな一冊。特にやはり後半の文学賞や文壇についての章には、身を乗り出したくなるような面白さもあり興奮してしまいました。普段なかなか知ることの出来ない、文学賞を選ぶ立場にいらっしゃることの気苦労とか、でも結局自分が推した人が受賞しなくても、受賞者の喜びのコメントを見れば「良かったなあ」と思う話とか、ちょっとしびれてしまいましたよ。
 私は芥川賞・直木賞には左程関心がないけれど、大変な重みを持つ文学賞なのだなぁ…と、感じ入ってしまう箇所もありました。

 それにしても河野さんの断定的な言葉の数々は、何と気持ちの良いことか。川端康成を捉まえて、「『真珠夫人』の解説は雑文です」なんて、素敵過ぎます。
 あと個人的には、純文学とエンターテインメントはやっぱり違う、“差別はしないけど、区分けはあるということは意識しておかないと”という話も興味深く読みました。他にも山田さんの言葉で、とある座談会(林、浅田、出久根の三氏による)に腹を立てて、“『純文学の雑誌に書いてごらんなさいよ、酷評されてもいいんだったら』と思った”、“純文学の書き手は酷評に慣れまくってるんだから”という話が出てくる箇所も、「ほお~っ」と何度も頷き興がりながら読み入ってしまいました。 
 この二人の話を読んでいると、「やっぱ純文学って格好良い!」って思ってしまいますよ、ほんと。 

 前線で活躍されるお二人だからこその、文士としての姿勢。そして文学への尽きせぬ思い。平伏したくなる一冊でした。

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江國香織さん、『間宮兄弟』

 今朝のこと。隣でだーさんがアラームをとめている気配に一度は目が覚めたのに、なぜか起きられなくて、次に気が付いたときにはもう出かけてしまった後でした。ううむ、どうしてしまったのかしら今朝の私…。そうなると当然、夜まで会えないわけです。だからどうしたって言われても、それだけのことですが。

 さて今日は、江國さんの作品を読みました。何ヶ月か前に『思いわずらうことなく愉しく生きよ』を読んで(帰省に重なったので記事にしてません)以来です。先に映画を観てから、ずっと読みたかった作品。

 『間宮兄弟』、江國香織を読みました。 

内容紹介
〔 もてなくとも幸福に生きる兄弟の日常の物語。 女性にふられると兄はビールを飲み、弟は新幹線を見に行く。 そんな間宮兄弟は人生を楽しむ術を知っている。 江國香織がもてない男性の日常を描いて話題になり、森田芳光監督の映画化も大ヒットした小説の待望の文庫化。 〕

 江國さんの作品は、古いのがとても好きで、新しいのはあまり読めていなかったりします。たぶん私の場合それは、直木賞の辺りで線が引かれてしまいます。またこれから、他の作品も読んでみたいですが。 
 もしかしたら、読んでいない作品の多くは所謂恋愛小説かもしれません。でも実は私、江國作品を恋愛小説として読んでみたことがないので、そこのところがよくわからないです。
 江國さんの作品には幾つかの恋愛が描き込まれているけれど、私が好きになるのはいつも、恋愛に向き合っていようといまいと、結局どうしようもなく“一人”でしかない登場人物たちの佇まい、だったりします。ううむ、なかなか上手く言えないですが、例えば、恋愛中の二人が一緒にいる時間の幸せそうな(或いは不幸せそうな)空気感よりも、確かにあるはずなのに絶対につかむことの出来ない恋というもののあやふやさ、宙ぶらりんさに、ふと途方に暮れて佇んでいるときの一人ひとりの存在感…。それが伝わってくる作風を、私は好んでいるように思います。 
 恋の楽しさや素敵さよりも、たとえ恋愛中でも一人ひとりは結局こんなにさびしいんだよ…ということ。そのことに対して主人公たちがどんな風に向き合っているかが重要で、勢い恋愛の形の方(どっちが年下とか年上とか不倫とか)にはあまり関心が向かないのですね。彼らの、まず個人としてのあり方に目が向く。だから私は、“恋愛小説”としては読んでいない…と。

 ところで、『間宮兄弟』です。間宮兄弟の周囲にもやっぱり恋愛がある。それなのに二人のいる場所だけは真空地帯のように、恋愛の気配はつるりと表面を滑って逃げていってしまいます。で、そんな二人がとても良い。
 たまたま兄弟揃ってもてなくて、兄弟揃ってオタクの素質があって、そんな二人だからこそ、他人には邪魔をされなくてすむ心地良い居場所を作って、二人きりでも充足した生活を送ることが出来るわけです。でも、そんな二人でもやっぱり、「踏み込んではいけない・踏み込んで欲しくない」と思っている領域をお互いに持っていて、それをちゃんと尊重し合っている。そういうところが読んでいて切なくもあり愛しくもあり、この兄弟が好きだな~と思えてくるのでした。

 間宮兄弟の共同生活がこんなに楽しそうなのは、彼らの間に一線を引く礼儀があるからだと思うし、江國作品に出てくる私の好きな登場人物たちは、皆そんな風に“一人”の佇まいをしっかり持っています。相手を大切にしていながら、最終的に寄りかかってない。そうでなくっちゃね…と思ってしまいます。
 この二人の暮らしぶりを読んでいると、「え、恋愛なんてしなくてもいいじゃん、毎日が楽しければさ~」と、自然と思えてくるのでした。てゆーか、この二人の暮らしぶりは本当に楽しそうだ! 趣味人の理想じゃあないかしら?

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豚とろチャーシュー麺、とろとろ親子丼♪(天記、道頓堀 今井…)

12月2日、日曜日。曇り。
 昨夜は久しぶりに夜更かしをしました。 
 3時にはなっていなかったと思いますが、沈没寸前までチャットに参加していたのです。私が参加するチャットと言えば読書会しかないわけで、あんなに濃ゆい本好きばかりが集まる場が日常生活の中ではありえない私には、とても刺激のある楽しい時間でした。
 それにしても、昨夜は『ガラスの仮面』で盛り上がっていたなぁ…。 
 たま~に夜更かしをすると次の日に、眼球がコンタクトレンズをはねのけようとするような違和感があって眼がしばしばします。 

 今日のお昼ご飯は、だーさんが「ラーメンは豚骨の気分」などとのたまっていたのに、うまく豚骨ラーメンにはたどり着けず元町をさ迷い、やってきたのは香港麺専門店の「天記」でした。
 店内に足を踏み入れると、予想以上に中は狭くて、「相席をお願いするかもしれません~」とカウンターの向こう側から声がかかりました。

 厨房の中の男性が一人で、手を休めることなく注文をとりつつ麺を茹でつつ餃子を焼きつつ入ってきたお客さんに席の誘導をするという、漫画だったら千手観音のように描けてしまいそうな働き振りでした。 
 はっきり言ってしまうと、全ての動作に勢いがあり過ぎて、食器やら何やらがぶつかり合う音とか、かなり五月蝿かったです。手早い仕事でお客さんを待たせないのと、落ち着いて食事が出来る空間をお客さんの為に作ることとは、成り立たないのかもしれませんけれど…。 

 すぐにカウンターの席が空いたので移動をして、オーダー。だーさんが「餃子二つ」と頼んだら、「餃子は大きめですけれどいいですか?」と訊かれたので私はギクッとしたのですが、「はい!」と隣で返事をされてしまったのであります。

 こちらはだーさんのオーダー、えびワンタン麺です。お店の看板メニューのようです。
 ぷりぷりワンタン、美味しそう…。

 こちらは私の、豚とろチャーシュー麺です。
 表面が油でキラキラしていますが、スープはあっさりしていて飲みやすかったです。そして麺がかなり細いです。他店の極細麺とは食感が違います。雑誌の情報によれば、香港から仕入れている本場の麺らしいです。
 チャーシューは香ばしくって、噛み応えもありつつ脂身はとろとろ。

 で、こちらが鉄板餃子。
 じゅーじゅーと音を立てています。
 餃子が二色になっていて、緑色なのは大葉でした。紫蘇の餃子は勘所~。
 いささか五月蝿いのが残念でしたが、随所にこだわりの感じられるお店でした。

 食後はリーバイスを冷やかすも収穫なし、中華街を横切って帰路につきました。 

 
 今日のお昼ご飯は神戸の元町で、昨日は大阪の道頓堀。
 以に一度だけ旅行中に入ったことのある、老舗の「今井」。お目当ては期間限定の小田巻蒸しでしたが、もう終わってしまったようです。ううむ、限定食は月ごとに変わるみたい。
 それならばと、うどんメインのお店ですけれど陰の人気メニュー(らしい)の親子丼を頼みました。

 「でも私、丼にするとご飯残しちゃうんだよねぇ」、だーさん「ご飯少なめで頼めばよかったのに」、「…!!!」。慌てて店員さんに、「さっき頼んだ親子丼、ご飯少なめにしてもらえますか?」。ただでさえご飯を残すのに、ビールで上げ底ですからね。

 親子丼、このように運ばれてきました。 蓋を開けます、わくわくわく・・・。
 パカッ、パカッ。

 私の親子丼と、だーさん絶賛のきつねうどん(だーさんは三回目なのにこれしか頼まない)。

 いつの間にかだーさんは、お出汁を飲んじゃってました。…関西人か!

 うふふふふ…。卵ふわふわ、鶏肉ごろごろ。
 うっとり…。
 そして決壊!
 …失礼しました。
 流石にこの親子丼は、しっかり完食いたしました。ご飯少なめにして正解♪

 …などと言っておきながら、「あったかいお酒が呑みたい」と言い出しただーさんに付き合って、梅田で熱燗をすする私。立ち呑みのお店は初めて!
 コップでお酒も久しぶし。
 ぬた和えって、子供の頃は大っ嫌いだったけれども、そもそも子供に食べさせるような味じゃあないと思う…。 

 冬も色々と、美味しいですね。

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ケリー・リンク、『マジック・フォー・ビギナーズ』

 今日は(も?)二人でお昼からビール。立ち呑みのお店も初体験して、梅田から帰ってくる頃にはほろ酔い気分でした。
 そして、電車の中で本を読んでいたのだけれど、あまりにもへんてこりんで奇妙なお話なので、二重三重に酔ってしまいそうになったのでありました。 

 10月に読んだ『スペシャリストの帽子』がとても好きだったので、さっそく図書館で予約した本です。 
 『マジック・フォー・ビギナーズ』、ケリー・リンクを読みました。

 収められているのは、「妖精のハンドバッグ」「ザ・ホルトラク」「大砲」「石の動物」「猫の皮」「いくつかのゾンビ不測事態対応策」「大いなる離婚」「マジック・フォー・ビギナーズ」「しばしの沈黙」の、9篇です。
 『スペシャリストの帽子』を読んでいたときもそうだったけれど、何度もぐらぐらしたり、戸惑ったりしてしまいました。丁寧に読んでいるはずなのに、自分がぽろぽろ言葉をこぼしてしまっているのではないかしら…?と不安になって、少し後戻りをして辺りを見回してみても、どこにも納得のゆく説明を見つけ出せないときの心もとなさは、馴染んでしまうとだんだん快感になってきて堪えられません。
 人間って、ホンの少しだけ視点がぶれたり視界がかしいだりするだけで、すぐに具合が悪くなってしまうものなのだなぁ…と感じ入りつつ、どうしてこんな物語ばかりを紡ぎだせるのかと、本当に不思議です。 

 どの作品で描かれているのも、普通のありふれた日常のヴェールをペロンとひん剥いたところに現れてくる、凄く不気味だったり不条理だったりする虚構の世界ですが、そんな作品の全てに共通して言えることは、やはり、忘れがたい印象がいつまでも後をひく…ことでした。本を読んでいないときでさえ、不可思議な残像が付き纏うようでしたよ。

  比較的読みやすいのは、「妖精のハンドバッグ」でしょうか。残酷童話のような味わいの「猫の皮」も、私は好きでした。 
 ゾンピやら死者が生者たちの中に立ち混じっているのが、なぜかその世界ではありふれたこととして受け入れられている話の「ザ・ホルトラク」や、「多いなる離婚」も面白かったです。ゾンビと死者の違いは、生者にその姿が見えるか見えないか(実態があるか霊的な存在か?)なのですけれど、ゾンビも死者も元は生者だったとすると、ゾンビになるか死者になるかはいったいどこで違ってくるのかなぁ…? いやそれとも、ゾンビはもともと異境の存在だから話が違うのかしら?
 例えば「大いなる離婚」に出てくる夫婦は、妻の方がもともと死者なので、夫にはそもそもその姿が見えなくて、霊媒の女性を仲介にして離婚の話を進める…という、あえてさらっと読んでしまわないと頭の中がこんがらかりそうになる話ですが、ケリー・リンクの作風には、そういうシュールさに麻痺させてしまう効用があるのかもしれませんね。

 再読がしたくなる作品ばかりなので、いつか文庫化してくれると嬉しいです。どんなに繰り返し読んでみたところで、また同じ箇所で途方に暮れてしまうかもしれない。でも、そこがまたこの作家さんを読む醍醐味なのでしょうね。

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