笙野頼子さん、『S倉迷妄通信』

 薄暗くなりかけてから自転車で出かけ、近くの本やを冷やかしてから食料の買出しをして、自転車のところに戻ってきたらば、前のカゴに落ち葉の先客がいた。とりあえず連れて帰ることにして自転車にまたがると、西の空に細い月が、落ち葉と同じ色で光っているのであった。黄色い。
 …今日読んだ本の表紙も黄色いよ、偶然だね。


 かつてのブランクを埋めるべく、笙野さんの未読作をせっせこ読んでいます。一冊また一冊と読むごとに、笙野作品を読むことが私の中で、どんどん重要性を増していく気がします。何か、元気が湧いてくるというか。どうにもならないものへの恨みを抱えている自分が、許せるから。

 『S倉迷妄通信』、笙野頼子を読みました。
 

〔 細民、それはばかで弱い人間、「こうしたら負ける」と判っていて負けの方を取らざるを得ないような環境にある、あるいはそういう美学、モラルを持っている人。細民は人を殺したくとも、決して殺さない。余程の事がなければ殺人など出来ない癖に物凄く人が殺したいだけだ。 特定の個人をというのではない。人類全体というのともちょっと違う。 〕 36頁 

 元野良の猫軍団を引き連れて安住の地(となるべき)“S倉”へ移住してからの、三篇(半年後、一年後、一年半後)からなる「架空」通信です。掲載されている数々の写真から、猫の人々の姿を沢山見られるので、何度も何度もそこばかり眺めておりました。ああ、ドーラさんの美しいことと言ったら…。もちろん他の三匹の野性美も素晴らしいけれど、内二匹がもうこの世にはいないのですね…。

 笙野さんの特集を組んでいた「文藝」の中の「佐藤亜紀×小谷真理 対談」に、“猫問題があってから、笙野さんは変わった”という内容の会話があったのですが、そんなことを思い出しながら読んでいると、色々面白く興味深く読めました。 
 例えば猫騒動以来の引越しを済ませた後でも、主人公が「わけの判らない殺意」にとり憑かれているあたりの文章なんて、まさに研ぎ澄まされた“細民”の殺意がこちらにまで迫ってくるようで、外に向けて猫たちを守るためにも闘おうとする姿勢が、ますますパワーアップしているのです。

 それから、笙野さんはずっと昔からプチ信仰という形を持っていたのですが、ちょうどこの時期に“自分の神様が交替”します。 
 この、「神はいない、そんなことはわかっているけれども、信仰の形は必要だから神も要る」という理屈からなるプチ信仰って、一見すごく独創的な発想のように思えますけれど、実はそうではないかも知れません。笙野さんの作品を読んでいると、そう思えてくるようになります。
 実はもっと深いところで人の本質に繋がってくる、普遍的で本当は切実なことじゃあないのかなぁ…と。笙野さんの場合も、“自分の神が交替”するという思いがけない事態にあったり、これから大切な友人(猫の人々)を失っていく経緯の中で、“どうしてもプチ信仰を必要とする自分”と改めて向かい合って、それは何故なのか?というところから思索を深めていった…、という印象を受けました。  

 4匹の猫軍団が元気だった頃の“化け猫譚”も読めて、堪能いたしました。

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