マーガレット・アトウッド、『侍女の物語』

 『侍女の物語』、マーガレット・アトウッドを読みました。

 読みだしてしばし、「わたしは」「わたしは」「わたしは」「わたしの」「わたしが」…と、1頁に何度も「わたし」が出てくるのが何だか無性に気に障った。輪郭がくっきりしていて意志的で、みっちり濃密に中身が詰まっていそうな「わたし」が、絡みついて畳みかけるように何かを訴えてくる調子が、そう…少しばかり鬱陶しくなった。重苦しくて。
 慣れるしかない…と気を取り直し読み進んでいくと、ストーリーが動き出すのと同時に左程気にならなくなったものの、出だしで感じたその重苦しさは、そのまま拭われることなく続くことになった。 

 不穏で不気味な世界。主人公の感じている、常に追い詰められているような不安、何もかもを管理され物のように扱われ、自由や尊厳をもぎ取られたことへの憤りと哀しみ…彼女の中で疼くそれらがどんどん押し寄せてきて、捕り込まれてしまう。
 物語の舞台は、女性の殆どが不妊になってしまった近未来の世界で、そこに住む人々はきっちりと身分階級で区切られている。その身分を示す色の衣服を身に纏うことしか許されてはいないらしい。ということは、だんだんわかってくる。でも、こんなに極端な管理社会国家が出来上がるまでの過程について、なぜこんな世界が…という疑問への説明はされないまま、それでも少しずつ物語は動いていく。
 本来の字義から乖離して、便宜上使われ続けている虚偽の言葉たち。〈侍女〉〈目〉〈天使〉…。虚偽の言葉では隠しおおせない、恐怖による支配がそこにはあった。 

 今、こちらの世界が正常なのだと仮定すれば、あちらの世界はあまりにも異常である。悪夢か、病んだ心の描く妄想か。酷くおぞましく、あまりにも気持ちの悪い世界だ。でも、私がこんなに嫌悪感をかきたてられたのは、グロテスクな人間のカリカチュアを見せられたからだ。確かにそこに人の本性が暴かれていると、思わずにはいられない。 
 こちらでは一見、人が人それぞれの価値観を持った上で辛うじてでも共存していられるようだ。それは本当は、とても微妙なバランスで危なっかしく遂げられていることかもしれない。もしも世界が覆ったら、異常が正常にとって代わることはあり得る。生き延びる為の手段として、たった一つの価値観の元に誰もが生きなければならなくなることだって。歴史が繰り返してきたことの一環として。  
 そして心配していたラストですが、この物語の終わらせ方は私は好きでした。何てこったい…と、呟かずにはいられなかったとしても。
 (2007.7.17)

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