山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

演劇を目指したころ(高校時代)

2024-10-09 22:58:49 | 日記2024

本日読んだ「東京の流儀」は、「遊び人の六本木」である。
著者、福田和也は日吉にある慶応高校に通っており、距離は結構あると思うのだが、本人も周囲の同級生もみんな遊び人で、六本木などに行っていたそうだ。

彼は高校時代演劇部で脚本を書いていて、参宮橋にある「劇団四季」を訪ねて、高校の先輩である浅利慶太から照明器具を借りたこともあるそうだ。浅利慶太と日下武史は高校時代に劇団四季を立ち上げたのだそうだ。

これ以降を読むにつけ、私は本当に福田和也氏と同世代だなと思う一方で、都会の人間や慶應義塾なんていうエスカレーター式エリート校の世界には到底太刀打ちできないなと感じるばかりだった。

私は福田氏と同じ1960年生まれだが、早生まれであるため、1学年上になる。

高校の時は演劇部で、文学座にあこがれていた。高2のときだったか、当時地元で上演されたのは、高橋悦史と太地喜和子主演の「飢餓海峡」だった。私は市民劇場で当日裏方のお手伝いをするので、劇が見られないため、前もって東京の公演を無料で見に行けたのだった。そうしたら、すぐそばの席に原作者の水上勉氏が座っていて、親友と一緒に驚いた。
また、地元の公演では楽屋で太地喜和子さんに会って感動した。
あの頃は、水上勉は全盛期だったのかな。八千草薫出演の「越前竹人形」も見た。

自分たちも部活で、学校行事や地域の演劇発表会で上演していた。体育館で自主公演もした。しかし、演劇活動は2年の文化祭までにした。将来演劇の道に進むためには、大学受験をして東京に行かなくてはならないのだ。今、演劇にのめりこんでいては進学できないと思った。

それまでは、毎日遅くまで部活をして、部活のあと喫茶店でまた友人たちとしゃべり続けることもあった。帰宅してからは、徹夜で小道具なんかを作っていたのである。深夜に演技の振りを試行錯誤したり、セリフを繰り返したりすることもあった。しかし、そんなことをしているどころではないのだ。

いよいよ受験勉強しなくては、と思ったときには、既に英語の落ちこぼれになっていた。高校に入ってからというもの、授業の予習復習もせず、単語を覚えたことがなかったからだ。そしてそのまま勉強はあまりしなかった。

演劇の部活動をしなくなってからは、親友と一緒に同人誌を作ろうと考えていた。私は「テアトロ泥子」というペンネームで太地喜和子について文を書いた。「テアトロ」は当時読んでいた演劇雑誌である。自分は泥にまみれたような混沌とした人間だ。
そして親友の文と合わせて編集してお粗末な雑誌(表紙をつけて、紙をホチキスで留める程度)を数冊作り、それを校内で無料配布するようなことを考えていたのだ。当時はガリ版だから、手書きである。しかし、結局実現しないまま終わった。

高校の時の記憶がよみがえってきたが、本当は上京後のことを書くつもりだったので、ひとまず終わりにする。

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