ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

11/05/25 今を生きるエール!シアターコクーン2011「たいこどんどん」

2011-06-19 16:30:39 | 観劇

井上ひさしの「たいこどんどん」は、前進座公演で梅雀が幇間桃八の時に観たかったのだが見送っていて、舞台では初見。
シアターコクーン改装前のラス前公演として井上ひさし×蜷川幸雄×勘三郎(初)になるはずだったが、体調不良のため休養しているため、橋之助がピンチヒッターになった。冒頭は今回の公演のチラシ画像。橋之助は改装前のラスト公演「コクーン歌舞伎 盟三五大切」にも主演していて、そちらも昨日観てきたので、順を追って書くため本日頑張ってアップ(^^ゞ
【たいこどんどん】
作:井上ひさし 演出:蜷川幸雄 音楽:伊藤ヨタロウ
作品概要は、松竹の「歌舞伎美人」のニュース一覧から引用。 この作品は、井上ひさしの直木賞受賞後第一作目となる小説「江戸の夕立ち」を1975年に劇化したもので、井上ひさし"追悼ファイナルBunkamuraシリーズ"として、現在上演中の『日本人のへそ』と並ぶ大作上演に当たります。また、『天保十二年のシェイクスピア』『藪原検校』『道元の冒険』『裏表源内蛙合戦』と続いた、蜷川幸雄演出の井上作品の舞台、第5弾でもあります。

あらすじは、Bunkamura シアターコクーンのサイトから以下、引用。
時は幕末。日本橋は駿河越後屋呉服店前の七つ時。たいこもちの桃八(古田新太)が、江戸で指折りの薬種問屋鰯屋の跡取り息子、清之助(中村橋之助)と待ち合わせをしている。折からの雷雨。人々が越後屋の貸し出す番傘をさして行き交うなか、蝙蝠傘をさした清之助が現れる。二人が目指すのは、若旦那ぞっこんの女郎、袖ヶ浦(鈴木京香)がいる品川小菱屋。そこで出会ったひげ侍たちとのひょんな諍いがもとで、二人は品川の沖を漂流するはめに。これが九年にわたる珍道中のはじまりとなった。運良く千石船に拾われて、流れ着いたのは陸中の釜石。旅籠に腰を落ち着けたと思ったのもつかの間、思いがけない災難が二人に次々と降りかかる。若旦那にどんなに手ひどく裏切られても、尽くし続ける桃八。時に離ればなれになりながら珍道中を続ける二人だが、放浪の果てにたどり着いた先に待ち受けるものとは──?
その他の出演者は以下の通り。
瑳川哲朗、六平直政、宮本裕子、大石継太、大門伍朗、市川夏江、飯田邦弘、塚本幸男、立石涼子、大林素子、中村橋弥、中村橋吾、中村橋幸、ほか

たくさんの書き割り(シアターリーグの舞台・演劇用語より)を並べたお江戸の風景が現れる。そしてその陰から多くの出演者が姿を現しての開幕。そこからテンポよくドラマが展開。
あっという間に千石船でみちのくの釜石に連れていかれてしまう。江戸に使いを出してお金を持って迎えにきてくれた手代は山賊に殺され、桃八から取り上げた金も宿の女将の情夫に博打ですられ、宿の亭主殺しにも巻き込まれた清之助。自分だけ江戸に戻ろうと、桃八を情夫に売りとばす。もちろん、江戸に戻ったらお金を送って助けようとは思ってはいたのだが・・・・・・。
鉱山の人夫に売られた桃八の地獄のような3年。舞台の上で衣装を変え、頬に墨を塗って変身しながら、清之助への怨みをつのらせていく古田新太の長い独白の場面が実に見事。古田新太を見るのは久しぶりなので、登場の時からずいぶんと痩せたなぁとは思っていたが、この場面の迫力に圧倒された。

飢饉が重なれば陸奥にも百姓一揆がおきる。そのどさくさで鉱山を逃げ出した桃八は、富本節を歌える芸が身を助け、偽の太夫になりすまして町々のお金持ちたちのお座敷で稼ぎ、お江戸に帰る路銀を貯めている。その転々とする中で東日本大震災の被災地の町々の地名が出てくるのがせつなくもある。
古田新太は、2007年の「藪原検校」の時も座頭の「早物語」を大熱演していたが、ここでもまた器用に三味線をつまびいて富本節を披露し、役者魂を感じてしまった。エレキギターを弾いたことはありそうな世代だし、それを三味線に持ち替えればできないことではないだろうが、それにしても見事、見事!蜷川版「ペリクリーズ」で市村正親が琵琶を本当にかきならして語っていたことも思い出す。やはり、蜷川の舞台には役者魂をかきたたせるものがあるのではないだろうか?!

太夫が本職ではない三味線を弾きながら語るので本格の芸ではないという言い訳を続けてしのいだ桃八だが、三味線弾きを組ませるという話が持ち上がって大ピンチ。
果たしてそれは清之介で、橋之助の三味線の芸はいかにと見せてもらう間もなく手が震えてストップ。たらしこまれた女にうつされた瘡毒(梅毒)に侵されていたのだった。
殺したいと思いつめたほど恨んだ清之介を赦し、看病しながら、二人してお江戸に戻る希みをつなぎ、みちのくの地を転々としていく。東北の地への井上ひさしの思いの深さも痛感する道中だ(みちのくには「道の苦」もかけているらしい)。

清之助の思い人袖ヶ浦とその面差しに似て次々と彼を惑わす色っぽい女に鈴木京香、その妹分に宮本裕子、ちょっとでっかい美人に大林素子というのもなかなかいい。瑳川哲朗、六平直政など、蜷川の舞台を固める常連メンバーに成駒屋の若手の弟子たちも加わって、江戸時代の庶民の生きざまが浮かび上がるのもいい。中二階の左手から大門伍朗が東北の民謡を朗々と歌ってきかせてくれたのも実に嬉しい驚きだった。
井上ひさしの音楽劇は庶民感覚にあふれ、猥雑な言葉遊びてんこもりの歌がいい。卑猥な歌を爺さん達がパワー全開で歌う場面など、今後このような芝居を書いてくれる人が出るのだろうかと寂しい思いもよぎってしまった。

桃八は足も切られてしまう災難にあっても清之介を支え続ける。新潟ではとうとう乞食にまで身を落としていたが、清之介の知恵で佐渡帰りの人の草鞋についた砂金を貯める秘策を繰り出す。
やっとこすっとこ足かけ9年、二人が戻ったお江戸は、お江戸でなくなっていた!明治維新の政変も田舎の底辺にいる人間はすぐには伝わらなかったのだ。客席通路を通って黒い蝙蝠傘を刺したハイカラな姿の東京の人々の群れに圧倒されて、二人はまるで浦島太郎状態。そして頼みの実家鰯屋はなくなっていた!

両親は息子が戻らない不幸の中で他界、お店はつぶれてしまっていた。金持ちの息子の清之介はもはや自力で生きていくしかない。しかし、苦労の9年の経験がある。支えあえる桃八がいる。2人は、時代の変化の荒波をたくましく生き延びていくだろう。
開幕の書割は江戸から東京のものに変化してはいるが、人々がその陰に隠れて物語が終わる。

最近の蜷川の舞台は振り出しに戻る的な演出が多用されているが、今回は、同じ場所でも時代の変化がくっきりしていた。井上ひさしが作品にこめた、時代の変化と、その荒波の中で生き延びていく人間のたくましさ、したたかさを信じているというメッセージを、蜷川がさらにバージョンアップさせる演出で現出させてくれていた。
今の日本に生きる人々に大きなエールが送られたように思う。こういう舞台を見せてもらったことは実に有難かった。

橋之助が主演する現代劇は久しぶりに観たが、古田新太との芝居が互角で絶妙名主演コンビになっていた。勘三郎の休演が続く中で代役としての主演の舞台が続き、芯を張る役者としての経験を積む中で大きく成長したような気がした。
江戸の大店の若旦那の江戸和事の芸を基礎に、あっけらかんとずーずーしいことをしても憎めない魅力のある人物を好演。これなら桃八が憎み切れないだろうなぁと説得力があった。
古田新太に幇間役というのは当初違和感があったのだが、愛嬌があるだけでなく、生き延びる底力を秘めていた男としての桃八像が新鮮だった。
予想外の収穫だったように思う。勘三郎でももちろんよかっただろうが、橋之助は古田とは同じ年ということで、芝居に熱い男2人の遭遇が素晴らしい舞台を産んだとも思う。代役に抜擢することで、次代のスターがみつかったり育ったりするという実例を見せてもらった。
こういうことがまた、観劇を続ける楽しみのひとつでもある。

今回のロビー売店には震災のチャリティグッズコーナーもあって、てぬぐいが可愛いのでひとつ買ってしまった。普段はあまり日赤経由の義援金になるものには財布が硬いのだが、たまにはまぁいいだろうということで(^^ゞ