2008年の「悲夢」を最後に、3年間の沈黙を保っていたキム・ギドク監督が、隠遁生活を送る山中の一軒家を舞台に、その間の生活や心情を語るセルフドュメンタリー。単なる告白にとどまらず、それに対して疑問を投げかける自分や客観的に分析する自分を登場させるなど、観客の目を引きつける様々な趣向が凝らされている。
あらすじ:カンヌ、ベルリン、ヴェネチア、世界三大映画祭で高い評価を獲得してきた鬼才キム・ギドク。年1本以上のペースで精力的に映画を作り続けてきた彼が、2008年の「悲夢」を最後に表舞台から姿を消した。3 年間、彼は一体どこで何をしていたのか……?なぜ映画を撮らなかったのか……?その謎が明かされる。
隠遁生活をおくる雪深い山小屋、栄光の影で人知れず傷を深めていった人間の心の叫びが、カメラに向かって語られる。しかし本作は、一監督の悲痛な心情の吐露だけでは終わらない。尋ねる自分と答える自分、そしてそれを客観的に分析する自分と、阿修羅像も顔負けの一人三役を演じるだけでなく、自身の影も登場させるなど、観客を楽しませる仕掛けが満載。さらには殺し屋にまでなってしまうという奇想天外な展開もスリリング。転んでもタダでは起きない精神と、鬼才の面目躍如な大胆不敵な演出で、異色のエンタテインメントへ昇華してゆく。人間誰しも自信をなくし、殻に閉じこもってしまいたくなるほどの痛みを抱えて生きている。その痛みと正面から向き合うことで、それもいつしか自分の血肉になるということを本作は証明した。
ひとりの人間の心の叫びが、唯一無二の作品へと結実していく様はある種の感動を呼ぶ。『アリラン』とは、“自らを悟る”という意味を持つ代表的な朝鮮民謡。“アリラン上り坂 下り坂”という歌詞は、上って下る人生そのものを表現している。その旋律は、監督自身の栄光と挫折だけでなく、現代を生き抜こうとする私たちの胸にも染み入ってくるに違いない。
<感想>キム・ギドクの3年ぶりの監督作。前作「悲夢」の撮影中に女優が命を落としかけた事故により、映画を撮る意味を見失ったギドク。その彼が、山間の粗末な小屋で隠遁生活を送っていた。「何かを撮らなければ幸せになれない」と、自分自身にカメラを向けて撮りあげた作品。
あのあくの強い、強烈な個性のある作品。ファンならいざ知らず、彼の監督作を一度も見たことがない人にとっては、二の足を踏むような内容だが、これが結構面白いのだ。私は前作の「悲夢」も「サマリア」も見ているので、いつものように知らず知らずの内に、彼の術中にハマリ、ずるずると最後まで引っ張って行くいかれてしまうのだから、映画は見てみなければ分からないのだ。
そのそも山小屋に籠ったのは、以前自分の映画「悲夢」の撮影中に自殺シーンで女優が危く命を落とす寸前まで追い込まれたという、ある事件に由来するという。カメラに映し出される質素な日常。やがてギドクは、今の心情を語り出す。いったい自分は何をしているのか。映画を撮るとはどういうことか。映画監督と言う自分とはいったい何者なのか。一匹の猫を友に、眠り、起き、顔を洗い、食べ、そして考える日々。
これはドキュメンタリーなのか、ドラマなのか、それともファンタジーか。映画を撮れと鼓舞する“第2のギドク”さらにその2人を客観的に見つめる“第3のギドク”が登場し、それはまさに自問自答。キム・ギドクが自分自身を演じ、撮影し、編集し、心中を赤裸々に語りつつも、商業映画の道を選んだ弟子の行為を侮辱と呼び、悪役を好む俳優たちを罵倒して、さらには自作の「春夏秋冬そして春」の「アリラン」が流れる場面を見て号泣する。
突然、ギドクはみずから部品を組み立てて拳銃をつくり、車に乗り込み、街へと繰り出す。「アリラン」を熱唱しながら街に出かけた彼は、ある決意を胸に車を降りる。
「アリラン」は韓国民謡であり、そのタイトルには“みずからを悟る”という意味があるそうだ。何と言う巧妙な語り口だろう、観客の前で素の姿になり、鬼才が内に秘めていた鬱積をさらけ出す。観客はあれよあれよと言う間にキム・ギドクの世界へと引きずり込まれてしまう。あろうことか、終幕の犯罪劇にまでドキドキさせられる始末。
明らかにこれは、彼が物語性のドラマに仕上げ、新たな作劇法を生みだしたものであるに違いない。それにしても、映画が撮れない自分をさえ、1本の映画にしてしまうこのしたたかさ。この開き直ったギドクの物語に、果たして共感を得るだろうか。どうみても、過剰なまでの演技をしているギドクにしか見えない。
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あらすじ:カンヌ、ベルリン、ヴェネチア、世界三大映画祭で高い評価を獲得してきた鬼才キム・ギドク。年1本以上のペースで精力的に映画を作り続けてきた彼が、2008年の「悲夢」を最後に表舞台から姿を消した。3 年間、彼は一体どこで何をしていたのか……?なぜ映画を撮らなかったのか……?その謎が明かされる。
隠遁生活をおくる雪深い山小屋、栄光の影で人知れず傷を深めていった人間の心の叫びが、カメラに向かって語られる。しかし本作は、一監督の悲痛な心情の吐露だけでは終わらない。尋ねる自分と答える自分、そしてそれを客観的に分析する自分と、阿修羅像も顔負けの一人三役を演じるだけでなく、自身の影も登場させるなど、観客を楽しませる仕掛けが満載。さらには殺し屋にまでなってしまうという奇想天外な展開もスリリング。転んでもタダでは起きない精神と、鬼才の面目躍如な大胆不敵な演出で、異色のエンタテインメントへ昇華してゆく。人間誰しも自信をなくし、殻に閉じこもってしまいたくなるほどの痛みを抱えて生きている。その痛みと正面から向き合うことで、それもいつしか自分の血肉になるということを本作は証明した。
ひとりの人間の心の叫びが、唯一無二の作品へと結実していく様はある種の感動を呼ぶ。『アリラン』とは、“自らを悟る”という意味を持つ代表的な朝鮮民謡。“アリラン上り坂 下り坂”という歌詞は、上って下る人生そのものを表現している。その旋律は、監督自身の栄光と挫折だけでなく、現代を生き抜こうとする私たちの胸にも染み入ってくるに違いない。
<感想>キム・ギドクの3年ぶりの監督作。前作「悲夢」の撮影中に女優が命を落としかけた事故により、映画を撮る意味を見失ったギドク。その彼が、山間の粗末な小屋で隠遁生活を送っていた。「何かを撮らなければ幸せになれない」と、自分自身にカメラを向けて撮りあげた作品。
あのあくの強い、強烈な個性のある作品。ファンならいざ知らず、彼の監督作を一度も見たことがない人にとっては、二の足を踏むような内容だが、これが結構面白いのだ。私は前作の「悲夢」も「サマリア」も見ているので、いつものように知らず知らずの内に、彼の術中にハマリ、ずるずると最後まで引っ張って行くいかれてしまうのだから、映画は見てみなければ分からないのだ。
そのそも山小屋に籠ったのは、以前自分の映画「悲夢」の撮影中に自殺シーンで女優が危く命を落とす寸前まで追い込まれたという、ある事件に由来するという。カメラに映し出される質素な日常。やがてギドクは、今の心情を語り出す。いったい自分は何をしているのか。映画を撮るとはどういうことか。映画監督と言う自分とはいったい何者なのか。一匹の猫を友に、眠り、起き、顔を洗い、食べ、そして考える日々。
これはドキュメンタリーなのか、ドラマなのか、それともファンタジーか。映画を撮れと鼓舞する“第2のギドク”さらにその2人を客観的に見つめる“第3のギドク”が登場し、それはまさに自問自答。キム・ギドクが自分自身を演じ、撮影し、編集し、心中を赤裸々に語りつつも、商業映画の道を選んだ弟子の行為を侮辱と呼び、悪役を好む俳優たちを罵倒して、さらには自作の「春夏秋冬そして春」の「アリラン」が流れる場面を見て号泣する。
突然、ギドクはみずから部品を組み立てて拳銃をつくり、車に乗り込み、街へと繰り出す。「アリラン」を熱唱しながら街に出かけた彼は、ある決意を胸に車を降りる。
「アリラン」は韓国民謡であり、そのタイトルには“みずからを悟る”という意味があるそうだ。何と言う巧妙な語り口だろう、観客の前で素の姿になり、鬼才が内に秘めていた鬱積をさらけ出す。観客はあれよあれよと言う間にキム・ギドクの世界へと引きずり込まれてしまう。あろうことか、終幕の犯罪劇にまでドキドキさせられる始末。
明らかにこれは、彼が物語性のドラマに仕上げ、新たな作劇法を生みだしたものであるに違いない。それにしても、映画が撮れない自分をさえ、1本の映画にしてしまうこのしたたかさ。この開き直ったギドクの物語に、果たして共感を得るだろうか。どうみても、過剰なまでの演技をしているギドクにしか見えない。
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