メイ・サートンの著作の中で、手にした最初の本である。
その後に、アマゾンに注文した本が届き、詩集『一日一日が旅だから』を読み、次いで『猫の紳士の物語』を読んだ。(いずれも、すでにブログに紹介。)
私の嗜好のせいによるのだと思うが、詩よりも物語よりも、作者の心がそのまま顔を出す、『82歳の記録』のような、エッセイ風日記を一番面白いと思う。人に読まれることの、あらかじめ約束された日記だが、そこには、作者の素顔がのぞいている。
日本に紹介された本のうち、最も読まれているらし(?)『独り居の日記』(私の購入した本は、第14刷目の一冊)は、『82歳の日記』に先立つ日記だが、未読の書で、今からの楽しみである。(もう一冊未読のまま手元にあるのは、『今かくあれど』。こちらは小説。)
私は読書を通して、死期の近づきつつある、最晩年のメイ・サートンにまず出会ったことになる。
この書の核となるのは、人間の老いの日々の大変さである。サートンはそれをオブラートにくるまず正直に書いている。
人によっては、大病などの経験もなく、恵まれた条件のなかで老いを迎える人もあるだろう。そうした人にとっても、老いの日々は、若き日に比べれば、決して心楽しいものではあるまい。それなのに、サートンの場合は、ガンを患ったり、心臓病を繰り返したりしている。欝との闘いの日々でもあったらしい。得体の知れない病気に苦しんでもいる……。
日記に出てくるのは、決して順風な日々ではない。
それだけに、読みがいがある!
順風満帆の人生を読まされても、おめでた過ぎて、感動もなく面白くもない。
ここに書かれた、不安の中で生きる老いの日々の記録は、長生きすれば、いずれ私だけでなく、大方の人が辿る道でもあるだろう。
老いを疑似体験できる一面がある。
だが、この日記は、単に病苦や老いの寂しさを綴っただけのものではない。
知的であり、人間的であり、味がある。
最晩年を過ごした、アメリカ東海岸のヨークの家での暮らしが書かれている。地図でその位置を確かめてみて、想像を超える冬の厳しさも、想像できた。
サートンは、ヨークの、生活周辺の自然を描く。海を描き、草花を描く。
彼女の家を訪れる人々、友人や手伝い人、医者や土地の人々など、様々な人が、多数登場する。そうした交友の様子なども、日記に細やかに描かれている。
読んでいるうちに、メイ・サートンのワールドに、私自身も仲間のひとりとして存在しているかのような錯覚さえ覚えた。
ピエロという猫も、サートン家の大事な同居人である。ピエロは、必ずしも、サートンの意のままにはなってくれない、気ままな猫である。
この日記を読む楽しさは、サートンの視野の広さに接する喜びにもある。
老いてなお、サートンの政治への関心や批判力は衰えていない。
一面、サートンは、自らの文学者としての自負ほどには、斯界が理解してくれないことを嘆く場面もあり、人間臭さも隠さずに書いている。
自分の詩や小説、エッセイなどの仕事に対し、揺るがぬ自信があったのであろう。
が、やはり、老いに伴う不安、それはこの日記の重要な部分である。
老いの不安に苛まれるとき、これを読む読者は、巧まざる日記に接して、救いを得ることになるかもしれない。
ただ、老いの不安や苦痛は、非常に個別なものである。
結局は、自らが克服してゆくより仕方のないことなのだろうけれど。
老病といえば、私の兄は、心臓の二度目の手術で入院中である。手術は成功したけれど、目の見えにくさがあり、その原因が軽い脳梗塞によるものかもしれないらしい。メイ・サートンよりはまだ若い兄なのだが……。
明日、MRIの検査が行われるという。姪たちも遠路帰省していると、兄嫁から昼前、メールが届いた。
兄からのメールには、不安も記しつつ、耐えるしかないとも、書き添えてあった。
死に至る道は、人によって少しずつ異なるにしても、苦しみは避けて通れそうにない。老いの坂を上りつつある私も、最近は、心身に不安を覚えることが多い。
ただ、今日は、昨日と比較にならないほど、風景が明るく見えている。遠景も近景も。まるで別の眼で見ているかのようだ。
昨日、眼鏡屋の女性店員が言ったとおり、心身の疲れが、目には大きな影響を及ぼすのかもしれない。日ごとに波があるらしい。
兄の眼も、繰り返された手術からくる、一時的な心身の疲れや衰えが原因ならいいのだが……。