「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20080510

2008-05-10 | 矮小布団圧縮袋

○現地時間で5月9日。えらい盛況との一報、さらに起き抜けにメールが来る。
 こちらは昨夜から雨。北九州の映画館は結局行けなかったので、今netで続々と来るL'Arcのパリ公演のレポを読んでいる。「いや、俺がドームに応援に行く時のホークスの試合ってアレだから、行かない方がいいかと思って。おかげでやっぱし勝ってよかったでしょ」みたいな言い訳をすることがあるが(笑)そんな感覚か。…淡々と集まる「ほんというと、俺達も実は知ってるんだけど」というネットワーク。この種の至福だから信じられるのかもしれない。必要なものは探し求めて得るもので、強引に食べろ詰め込めとごり押しされるものではない。
 BGM:曲名不詳。レガシィ新CM。
 (http://www.subaru.jp/about/cm/legacy/index.html)
 また朝10時からの間宮さんのFMラジオ番組を聴いてから出勤するか。今日も午後から会議。花粉症LFとφDVD発売情報は今読んだ。養生しちくり。 

 もちろん券はないし、昨日は夕方、じっくり話し合って夜遅くまでなってしまった。読んで伝え聞いて、そして本当に会って話して言葉の意味を考え合う。生きてる人間なんだから、そうして感覚を呼び戻していく。若い時の自分はシニフィエとシニフィアンとが恣意的に結びつくところの面白さから、この業界に飛び込んだ無謀さがあるのだが、医者が薬を毒にするか否かのように、人体の大きさと容量に応じる匙加減も必要なことを、歳をとり時間を体感するようになって、知り始めたのだろう。
 人と会って話すということの理由が、自分の中で、変化した。本当に自分が何をしたいのかを忘れないためと、本当に言葉が自分の心で受信できるようにするためだ。フィードバックは放っとくと人からもらえなくなる。歳をとればとるほど、人は他人をかまわなくなる。それは時間論の一面でもある。自分で他者を探しに、外に出ないといけない。一人で不安で慌てて考え続けているばかりだと、判断力も落ちてそそっかしくなり読み間違っちゃう。
 本当に会ってそこで聴くと、その場が、空気が、時間の濃淡が、温度がわかる。その言葉が本当か嘘かを察知できる勘のようなものは、その積み重ねでやっとわかってくるようだ。それを知らないと感じられない。全然違う。文章やメールだけ、ましてや掲示板のログだけでは何もわからない。10代や20代の自分は本当に部屋の中に閉じこもっていて人と接しなかったので、言葉の力は好きだったけれども、すごくそういう基本的なことを馬鹿にしていたような気がする。つまり、未知の他人をちゃんとした人として、見ていなかった、ってことだ。でも、その音楽を聴いて再び体内で、その10代や20代に円環的に音楽の意味が巡りだした時、すべての問題がLINKし始めて、頭で考えることと身体が感じることとの意味に気づき始めた時に、言葉の読み方もまた自分に向かって流れこんできたような気がするのである。

 単純な話で、我々は他人に褒められるがためにとか、誰かに叱られないためにとか、ましてや競って勝つためとか相手を貶めるためにとか、そんな馬鹿なことを第一義として勉強や仕事をしているのではない。とつくづく思う。結果がすべてだとか言う人が一番、その結果の意味を全く間違えているのではないか。ただ、いい仕事やいい勉強がしたい。それには何が大事か。そろそろ、そこのところを思い出した方がいいのではないだろうか。…こういうレポを読んでいて、そういう気持ちになってくる。
(20080510)
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