○出勤前にふと、めざましTVでボブディラン映画化の筋が流れていて、一瞬、なぜか昔のLOVE2あいしてるのハワイ編KinKi拓郎さんとゲスト長瀬氏の、畑の中で天国への扉、の映像が使われていた。この映像も10年位前になるのか?KinKiも数えで三十路と思うと、もはや衝撃的な映像だがそこは受け止めるべきだろう。しかしCXなのにディランとか特集しても大丈夫なのか。彼の言わんとするところは相当キツい内容のはずだが。過去の偉人だから直接利害関係は蒙らないと思ってるのか。
コミュニケーションとは非対称的なものだから、真面目なメッセージを持っている人が相手に必ず真面目に受け取ってもらえるとは限らない。また、本当はただ大企業や官僚や政治家やら巨額な利権誘導のためだってのに、応援歌みたいなメッセージで多くの人々を騙す悪用例が、衆愚政治だったりファシズムだったりするのは歴史的にもよくある話だ。
Perfumeの歌詞という「記号」を聴いていて思い出したことがある。人々は、そのartistが何をメッセージとして発したいかを聴いている、ように見える。しかし正確には、そうではない。人々は、自分たちがそう言ってもらいたい、と心のどこかで願っていることを、言っている人を欲し、それを発見して、そのartistがメッセージを発している、などと肯定的に認めて信じ込むのだ、ともいえる。非常に小さな一人の人間の気持ちが無駄にならず、世界に回っていく…そうだったらどんなにいいか、みんながどれほどそう信じたいと思っているか。しかし現実は。その間の行ったりきたり。…一人の人間のメッセージがしゃにむに強いかどうかではなくて、無言のしかし切実な共有の度合いが、琴線に触れるかどうかなのだろう多分。
だからこそ、ささやかだが自分も何かを書くとき、もしくは何かを作って発して、何らかの影響を他者に及ぼす立場であることを、ほんのちょっとでも自覚する時は、自分が絶対善ではなく自分の中の狡猾さや愚かさをも冷静に認めて、発するものと己の情動とがブレないようにしていたいのだ。そうアンテナを保てば、自分の中の価値基準も保ちながら、色々な人の声も意味を伴って沁み込んでくる。単に耳が、というだけでなく、聴こえる、ということが、歳をとるほど自分にとって重要な感覚になってきた気がする。
硫化水素自殺事件とチューリップの首斬り事件とペンキ撒き事件のニュースの後で、ガソリン価格値上げ予定と輸入牛肉問題とサミットテロ対策ビラまきと聖火リレーのニュースが続いて流れると、どうも誰の命が重くて誰の命が軽いのか、そこにすら格差があるような荒涼とした心地になるのだが。封建主義社会だったっけワシら。
本日のBGM:「誘惑」(NTV「日本のロックBOX」録画を借りて)
…一度は見ないと、と思い、初見で始まった瞬間、久々に声を出して画面の前でワロタ。たまには、こういう笑い方で爆笑しないと、健康に良くない。もち、これの時の。こーゆーことがあるとすると、まだ途中でそうやすやすと死ぬわけにもいかんかな。と、一瞬でも思えるだけでも。
これはFBSではまだ放送されてないのか、やったのに自分が見てないのかがよくわからない。
(20080424)