「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20061127

2006-11-27 | 矮小布団圧縮袋

○…結局2時間弱の睡眠で、朝4時に目覚めて、夜明け前の始発の便で福岡に8時半頃着陸し、そのまま会社に出勤して荷物は置いたまま、普通の月曜日のように進行する。行く前に残業で準備した分、朝10時半からと2時半からの壇上のプレゼンテーションも済ませたし、今日予定の会議も小時間に、明日会議分の打ち合わせもでき、週末出張分の書類手続きと電話打ち合わせもした。

 夕刻会議の後、デスクに帰って、すっかり仕事モードの脳が働き出している自分に気づく。ふと思う。昨日や一昨日のことは、本当に起こったことだったのだろうか? 寝ている間にあまりにも壮絶な幻影を見ていたか、狐か狸か何かに化かされていたのではないだろうか?でも、見るとプラスチックの「苺」のおもちゃが一個、鞄の中に入っている。取り出してみる…これがある、ってことは、どうやら眠っている間に夢を見ていたのではなかったらしい。それに…この全身の筋肉痛が、ありえないほど非常にまずい(笑)。

 昨日夜の段階では、このまま帰って普通に朝から仕事なんかできるんだろうか?状態だったのに、不思議なものだ。人間の無意識の領域か、はたまた未知の体力が人体には残っているのか。「まあだまあだ~♪い~けまあ~す♪」ってアンドロイド兄さんの脱力系の声が耳に蘇る(笑)ので、なんとか一日は働けた。いや、正確に言えば、ちょっと「苦い良薬」は借りている。昼、夕方と時間がたつごとに、背中や肩や太腿や脛から腹や腕にまで、全身に至るぎしぎし感が広がってくるし、週末でまた溜まったメールの返信を打つ画面の文章もふっと意識が途切れかかり文体を為さなくなって書き直したりする。そこでちょっとMP3プレイヤーのレベル1音量位で1~2曲注入する。意識が戻って再開する。それが繰り返された。動くたび骨が軋むようだ。19時も過ぎたのでHey×3!も始まる前にもう今日はやめて帰って寝よう、と思う。

 ちょっとネットをいじってみる。昨日一昨日行った中学生や高校生が「もう今日駄目…学校休む…」なんて書いているのを見ると(おいおい^^、もしあんたの学校の先生も土日行ってたとしたらどーすんのよ。生徒のあんたは休めても、先生はにこりともせず朝から出勤せにゃならんし、大人だから行ってきたこと自体大っぴらにゃ言えない立場だったりするぞ^^でもってそういうおじさんおばさん、本当は結構いるかもしれないんだぞ・笑)とついツッコミを入れつつ、微笑してしまう。

 そういえば機内で一度目を覚ました。既に真っ青な空が明けて、雲の絨毯の上を、地平線へ疾走する車のようにいっさんに飛行機は移動していた。MP3に指を伸ばして「虹」「anemone」「LINK」あたりを…いや、もちろん曲自体が凄いだけではなく、その上さらに、以前に聴いていたようには、聴けなくなっている。今聴いていると、もうバルコニーから怒涛の数万が陶酔する全景を見下ろすatmosphereの感覚が、音響とともに眼前の青に生々しく蘇り、既に凝って強張りつつある全身の筋肉や皮膚の感覚にフラッシュバックする。この実際時間と比べての体感時間の異常な短さ、体感距離の超絶的な近さ、凄まじい生々しさは、何が原因なのだろう。謎だ。新しい謎が生まれるたびに、その答えがまだ解けないうちにこのまま死ぬわけにはいかないな、と思う。そしてまた意識を失ってしまう。…

 饒舌ではないのに存在感のある奴等、ってのは得だと思う。言葉の弁解や理屈づけなど無く、音や声が存在するだけで、大事な事はすべて物語られている。それを生で聴けたらそれだけでいい、などという単純な理由で、延べ10万人の老若男女が集まる、っていうことが、あってもいい。奇蹟に近い酔狂ではあるが楽しい。

 帰ってきたら悪運の強さ?か、そういえばKinKi watching以来の習慣として月~金CXのWSの6:18~6:31付近は一日十数分ずつタイマー録画をかけてあったことを思い出す。戻すと新堂本兄弟の次に、昨日の「ほんの一瞬」がちらりと入っていた。全くもって、ほんの一瞬。もとよりあらゆる局でサビ抜きの寿司しか供されないような今のテレビ放送の中の、そのわざとらしいお行儀の良さを要求される「ご家庭のさわやかな朝のWS」なんかに、、元々流れるはずのないものと思っていたから、少し驚いた。だいたいいかがわしさで言えば昼じゃなく深夜向けの映像だ(笑)もっと本当のところを言えば、その場で見ていた時に、しゃべってる人本人に、広告的意識のようなものが全然感じられなかった、至極普通に思っている事を素直に言っている、そして本当にそうなんだろうな、と感じられたから、ということもある。ただし映っても数分では、あの濃密な空間の独特の本質は伝わりにくい。いや、あの本質こそ、例えば庶民はもっと毒のない健全なもので何も疑問をもたずに安穏と支配されていればいいというような誰かかもしくはテレビの広告主なんかが伝わることを一番嫌う都合の悪いもの、媚びることがない本当の不良(笑)の「異形」が真実を天然で「するっと」言ってしまって欺瞞を破壊しかねない正直さ、なんだろう。(よくテレビに出てくる「不良風ファッションを演じている」優等生の芸人ではない。)テレビ画像の一瞬は記憶のよすがとして、その場所に本当に居合わせたことに意義を感じる。

 同じくKinKi以来の習慣として、何かあった時のスポーツ紙はとりあえず買う(苦笑)。それも地方紙だと版違いで記事が少ない時がある。ならばと早朝6時、まだ開店直後の空港の売店で東京版をまとめ買いして帰る(お店の方、お手数おかけしてすみません)。ここにも、記事自体があることが結構驚きだった。しかし目撃者の視点から言えば、全国ツアー予定告知などは確かに情報ではあるが、実を言うと、その濃密な合計7時間のうちのほんの一瞬に過ぎず、その文字を見上げた時の数万の人々がそれまでに至る何の経緯において瞬時に何を一斉に共感し心中に泣笑いしたと推測されるのか、その時そこにあった感覚が何だったのかというようなことは、何も伝えていないように感じられる。もっとも凄まじく重要な部分が文章に欠落しているか読者に伝わらないかする場合、それは、(携帯サイトサービスなどのトピックス記事等に時々そういうのがあるが)筆者がそこに居ても臨場感の表現において文章力自体が失敗しているか、もしくは最悪な場合は筆者が本当にはそこに居ないか、その感情の意味を全く理解していないかのせいで、リアリティのない情報だけをまとめて送る仕事的に流しているだけなのか、などが原因の可能性として考えられる、というのが一般論としての表現論的見地である。こういうことがrealityを失った「情報至上主義」文章の最大の弊害、実感的表現の貧困ってやつか。初心者の小生であってもそこに居れば、そのくらいは偲び推し測ろうとするが。あの芭蕉だって「松の事は松に聞け」と言っているではないか。

 数寄同士は感性をもっと言葉にしようとする。表現したい衝動に内心は満ちている。盲信し崇拝しろなどという馬鹿はいない。少しきっかけがあればいい。一日目も、また二日目も、自分は偶然隣席だった一人参戦の御姉様それぞれと、初対面の一期一会だというのにもかかわらず、開始前から終了後まで、休憩時のつれづれについ楽しく語り合ってしまい、なんと想いを吐けたことか。(お名前も知りません。ありがとうございました!)何年も前から曲は好きで聴いていたが、見に来たのは初めて、っていう人ばかりだった。その今聴きに行かないとという衝動のようなものになぜ駆られたのか、というあたりが、自分も自分なりに正直に感じるだけに、語ってしまったんだろうと思う。
 だから個人的には、いかに多かろうと偉い所から広告を強制されたような凡百の提灯記事よりも、例えば一つのMステブログ(ヲタ確定・笑)があれば、それでいい。本当に感動したらしい人々の素朴な文章のrealityの方が、決してうまくはないが、わかる。共感できる。

 その後見たHey!×3は、全く別の感覚で可笑しい。今のテレビがお茶の間で味わう安心感を許している笑いなのか。日常的な、極めて日常的な。純じいの無用者キャラもことごとく。KinKi Kidsは求められ果たすべき役割を心得ている。教訓:「ゆかりゲストは考えて選べ」(爆) (20061127)

※ちなみに軽部さん<「非公開」よりも「年齢さりげなく鯖読み」の方が実は爆笑を誘ってます(^^;;)


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