「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20061113

2006-11-13 | 矮小布団圧縮袋

○人間は死んだ後にどこに行くのだろう。顔も覚えているけれども、一番不思議なのが、その生前の「声」がはっきりと自分の頭の中に残っていて、まだそんなしゃべり方で挨拶する声が玄関から聞こえて、姿を現して茶の間にふらっと寄るんじゃないか、なんて、そんな「まだ居るような」感覚が続いていることだ。写真の顔が二次元の「静」のイメージでも、まさに「声」とか、その姿の空気のようなものが、「動」の三次元として生々しく残っているように思う。…特に火葬場から帰ってくるバスの中なんかで、いかにも裏日本な時雨の晩秋のしかし静穏な、懐かしい昼間の市内の景色や海岸の空を見ながらそんな思いになる。夜、また身内で御飯を食べながら「お盆に来た時に会えてよかったな」などという話になる。テレビでは子供が先を急ぐようなニュースが連日続くのを見るにつけても、年寄りの目上の人の病死を見送る我々はせめてあと5年はなどと思いつつ悲しくともまだ耐えられる方なのかもしれない。「順繰り」だからこそ、年齢を重ねて何度も身内の葬式を経験してだんだん「向こうに往く人」の数の方が増えていって、自分もいずれは死ぬのだろうなということに対する怖い感じが子供の頃ほどは怖くなくなっていくのだろうが(逆に子供が、わしら若い方が年寄りを送るのが順番だよな、などという認識にさえ届かない前に死ぬっていうのは、なんと殺伐と心細い逝き方であろう)。人間死ぬならば不本意な死ではなく、自らのなけなしのそれなりの美意識に応じて人生をある程度全うしてから願わくば美しい最期を迎えたい、と、誰もが尊厳として思っているだろう。そして生き残っている方の側としては、やはりまだ死なないで生きていられる間に、人間が生きて声を発して動いている生の感触、それもできるだけ素晴らしく心を動かされた美しく懐かしい夢のようなものたちを、可能な限り一杯味わっておきたい。私の心や耳の中にそれらの「声」は確かに残っている。その千分の一、万分の一も言葉ではうまく書けないけれども。金銀財宝にしてあの世に持っていけるわけでもないし、死ねば何も残らないし、物理的には何のためにもならない、大いなる無為無駄かもしれない。しかし無為だからこそ、そこに意味があって良いんじゃなかろうか。たとえば、もし「ソメイヨシノ」みたいな歌が、そうした来たるべきその日のための歌、のようなものだったとしても、その時はその時できっとなんとかなるようにそれまで生きていられたら、なのではないか、なんてことも、ふと思う。(20061113)

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