そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

集団的自衛権を考える

2012-11-25 | 政治と金

自民党が政権公約に、自衛隊を「国防軍」にすると打ち出した。民主党の野田は、そんなの今できないと、自らの本音を先に出されてしまったと、羨ましがるような言葉で言い返しているが否定はしていない。公明党は否定的である。

国防軍という言葉の解釈が先行しているが、この裏には憲法九条破棄と、集団的自衛権の拡大解釈がある。集団的自衛権を個人の喧嘩で説明しようとするのが、改憲を党是とする自民党である。

集団的自衛権の引用として「アメリカ軍が攻撃された時に、指をくわえて黙ってみているのか」といった、類のたとえ話である。善良な市民感覚は、「そんなことは許せない」と反応するであろう。

庶民の喧嘩でもそうであるが、互いの利害関係が相容れないときに喧嘩が起きる。双方に理由がある。国家間となるとさらに複雑である。とくにアメリカの主張ほどいい加減なものはない。

最近では、ブッシュの行ったイラク侵攻が良い例である。大量破壊兵器などなかったし、そもそも対テロ対策であったはずであるが、アルカイダもいなければタリバンも存在すべくもなかった。ブッシュは、自衛のために行う報復戦争と言い放っていた。小泉はそれを真っ先に”理解”し、金と自衛隊を送った。

集団的自衛権の根拠になっているのが、国連憲章51条である。「ある国が武力攻撃を受けた場合、その国が共同して防衛にあたる権利がある」とする、防衛権の条項である。しかしこれには「国連安保理事国が必要な処置をするまで」という、前提となる項目がある。

しかしそれ以前に、20世紀になっておよそ『自衛』以外の戦争はなかった言っていいのである。ブッシュも、自衛のためにイラクに攻め入ったし、アフガンに爆弾の雨を降らせた。ハンガリー動乱もベトナム戦争も、帝国主義や共産圏からの『自衛』の戦争であったのである。

自衛権ですら、国益のためところ構わず主張するのである。ましてや、集団的自衛権となると、拡大解釈と身勝手な参戦理由を唱えるだけである。国連憲章を、国家の自衛権としてあるいは集団的自衛権として持ち出すのは、単なるレトリックでしかない。

日本国憲法九条は、「正義と秩序を基調とする国際平和を希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と、明記している。

また前文には、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、(中略)自国の主権を維持し、他国との対等関係に立とうとする責務であると信じる」とある。

今こそこの憲法の文言が新鮮に感じる時はない。安倍国粋主義者や、石破軍事お宅や、石原慎太郎憲法破棄主義者にとって、日本国平和憲法ほど目障りなものはないのである。

我が国は無益な戦争を起こした当事者である。ひと時の狭量な感情論で、この国が掲げる戦争放棄の憲法の理念を放棄してはならないのである。

コメント (1)
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