今朝、また日の出前で薄暗なかを恒例のウオーキングに出かけると殆んど人に会わなかった。
カミサンと“やっぱり年の暮れだ。 皆さん正月休みに入ったんだネ”と・・・。
我が家のように年寄り2人だけの世帯では、正月がくるといっても特に何することもない。
することと言ったら・・まっ神棚の掃除とチョッとした飾りつけ、孫のお年玉の準備くらい
一夜飾りはよくないので、午前中にちょこちょこと済ませました。 しごく簡単にです。
我が家なんぞ近年はこんなもんです。 ジイさんとばあさんでは無理せず・騒がず淡々とです
暮れが近づくと、日本各地のオーケストラで盛んに演奏されるベートーベンの「第九」。
実は日本以外ではあまり見られない風習だとか? なぜ、年末に第九を聴く文化が根付いたのか?
第九と呼ばれるのは、ベートーベンが作曲した9番目の交響曲だからだ。 ホント、そうなの?
交響曲には珍しく、第4楽章に独唱と合唱のための歌詞が付いているため交響曲第9番「合唱付
き」と表記されるそうです。 (音楽がまるっきしダメな私には初耳でした)
第九の日本初演は今から100年前の1918年。 第一次世界大戦時、徳島県坂東町(現鳴門市)
のドイツ人捕虜によるもので、アジア初だったという? 今でも多くの楽団が12月に第九を
取り上げ、有名な指揮者や独唱者らによる華やかな趣向を凝らす。
歳時記を開くと「第九」は冬の季語にもなっているほどだという。
だが、師走に「第九」というのは現在の欧米諸国にはない習慣だそうだ。 音楽ジャーナリスト
の“岩野裕一さん”に、日本で広まった理由を尋ねると「NHK交響楽団が暮れに演奏したの
が出発点だと思います」と話している。
時は帝政ドイツ末期1918年。 革命で皇帝の退位を受け、ライプチヒのゲヴァントハウス管
弦楽団が大みそか深夜に労働者に向けて第九を演奏した。
これが大変好評で、同様の催しが活発に開かれるようになった・・とか?
そうした演奏会を指揮した一人が、後にNHK交響楽団の常任指揮者を務めた“ヨーゼフ・ロー
ゼンシュトック”だそうだ。 36年ナチスによるユダヤ人迫害を逃れて来日、ドイツでの経
験をもとに、38年12月、東京の歌舞伎座で第九を指揮した。 40年の大みそかには、ロ
ーゼンシュトック指揮の第九をNHKラジオを通じて放送。
太平世戦争開戦後も年末年始の放送は続けられたそうだ。
43年末には、学徒出陣の学生のために東京音楽学校(現東京芸術大学)で第4楽章「歓喜の歌」
が演奏された。 人類愛や友情を高らかに歌い上げるこの曲を、戦地に就く若者たちはどのよ
うな思いで聴いたのだろう・・か。
戦後はラジオ放送だけでなく、N響の第九演奏会も年末恒例になってきている。 「オケがない
街でも放送を通じて第九が聴けるようになり、第九の習慣が広まった」と岩野さんはみる。
一方、少し実利に根ざした別の説もあるという。 楽団の「餅代稼ぎ」説だとか?
戦後各地で増えたオーケストラ。 運営に困窮していた楽団が年越しの資金を得ようと人気の
高い第九に着目したという。 合唱団も出演するので、その家族や知人らも切符を購入すれば
収益にもつながると考えられた。 戦後の復興と同時に、音楽鑑賞団体などによる合唱運動
やコンサートが活発になり、そこで演奏されたことも普及を後押しした。
ドイツ語ではなく「晴れたる青空」で始まる日本語の詩でも歌われたという。
東京交響楽団の桂冠指揮者の“秋山和慶さん”は78年からほぼ毎年末、同楽団で指揮してきた。
「新しい年に向けて気持ちを切り替える時、ベートーベンの力強い音楽にパワーをもらう人は
多い」と話している。 20~30年前は今よりも盛んで、11月末から演奏していいた」と
秋山さん。 400回以上は指揮したが、今も第九を振る前にはベートーベンの第1番から順
に楽譜を研究してから臨むという。 「畏敬の念をもち真摯に楽曲と向き合うと、時に思う以
上の演奏になる」 耳が不自由になってなお、ベートーベンは作曲を続けた。
不屈の精神から生まれた第九は、困難に立ち向かい、平和を願う場面にふさわしい。欧州統一
の象徴として「歓喜の歌」が採用され、日本では五輪や万博などで演奏されてきた。
東日本大震災のチャリティーコンサートでも多く聴かれた。
国家間の衝突や天災など暗いニュースが絶えなかった2018年。
今年の第九は人々の心に、どのように響くのでしょうか!
カミサンと“やっぱり年の暮れだ。 皆さん正月休みに入ったんだネ”と・・・。
我が家のように年寄り2人だけの世帯では、正月がくるといっても特に何することもない。
することと言ったら・・まっ神棚の掃除とチョッとした飾りつけ、孫のお年玉の準備くらい
一夜飾りはよくないので、午前中にちょこちょこと済ませました。 しごく簡単にです。
我が家なんぞ近年はこんなもんです。 ジイさんとばあさんでは無理せず・騒がず淡々とです
暮れが近づくと、日本各地のオーケストラで盛んに演奏されるベートーベンの「第九」。
実は日本以外ではあまり見られない風習だとか? なぜ、年末に第九を聴く文化が根付いたのか?
第九と呼ばれるのは、ベートーベンが作曲した9番目の交響曲だからだ。 ホント、そうなの?
交響曲には珍しく、第4楽章に独唱と合唱のための歌詞が付いているため交響曲第9番「合唱付
き」と表記されるそうです。 (音楽がまるっきしダメな私には初耳でした)
第九の日本初演は今から100年前の1918年。 第一次世界大戦時、徳島県坂東町(現鳴門市)
のドイツ人捕虜によるもので、アジア初だったという? 今でも多くの楽団が12月に第九を
取り上げ、有名な指揮者や独唱者らによる華やかな趣向を凝らす。
歳時記を開くと「第九」は冬の季語にもなっているほどだという。
だが、師走に「第九」というのは現在の欧米諸国にはない習慣だそうだ。 音楽ジャーナリスト
の“岩野裕一さん”に、日本で広まった理由を尋ねると「NHK交響楽団が暮れに演奏したの
が出発点だと思います」と話している。
時は帝政ドイツ末期1918年。 革命で皇帝の退位を受け、ライプチヒのゲヴァントハウス管
弦楽団が大みそか深夜に労働者に向けて第九を演奏した。
これが大変好評で、同様の催しが活発に開かれるようになった・・とか?
そうした演奏会を指揮した一人が、後にNHK交響楽団の常任指揮者を務めた“ヨーゼフ・ロー
ゼンシュトック”だそうだ。 36年ナチスによるユダヤ人迫害を逃れて来日、ドイツでの経
験をもとに、38年12月、東京の歌舞伎座で第九を指揮した。 40年の大みそかには、ロ
ーゼンシュトック指揮の第九をNHKラジオを通じて放送。
太平世戦争開戦後も年末年始の放送は続けられたそうだ。
43年末には、学徒出陣の学生のために東京音楽学校(現東京芸術大学)で第4楽章「歓喜の歌」
が演奏された。 人類愛や友情を高らかに歌い上げるこの曲を、戦地に就く若者たちはどのよ
うな思いで聴いたのだろう・・か。
戦後はラジオ放送だけでなく、N響の第九演奏会も年末恒例になってきている。 「オケがない
街でも放送を通じて第九が聴けるようになり、第九の習慣が広まった」と岩野さんはみる。
一方、少し実利に根ざした別の説もあるという。 楽団の「餅代稼ぎ」説だとか?
戦後各地で増えたオーケストラ。 運営に困窮していた楽団が年越しの資金を得ようと人気の
高い第九に着目したという。 合唱団も出演するので、その家族や知人らも切符を購入すれば
収益にもつながると考えられた。 戦後の復興と同時に、音楽鑑賞団体などによる合唱運動
やコンサートが活発になり、そこで演奏されたことも普及を後押しした。
ドイツ語ではなく「晴れたる青空」で始まる日本語の詩でも歌われたという。
東京交響楽団の桂冠指揮者の“秋山和慶さん”は78年からほぼ毎年末、同楽団で指揮してきた。
「新しい年に向けて気持ちを切り替える時、ベートーベンの力強い音楽にパワーをもらう人は
多い」と話している。 20~30年前は今よりも盛んで、11月末から演奏していいた」と
秋山さん。 400回以上は指揮したが、今も第九を振る前にはベートーベンの第1番から順
に楽譜を研究してから臨むという。 「畏敬の念をもち真摯に楽曲と向き合うと、時に思う以
上の演奏になる」 耳が不自由になってなお、ベートーベンは作曲を続けた。
不屈の精神から生まれた第九は、困難に立ち向かい、平和を願う場面にふさわしい。欧州統一
の象徴として「歓喜の歌」が採用され、日本では五輪や万博などで演奏されてきた。
東日本大震災のチャリティーコンサートでも多く聴かれた。
国家間の衝突や天災など暗いニュースが絶えなかった2018年。
今年の第九は人々の心に、どのように響くのでしょうか!